「ん……」
ピッピッピッ、と機械から一定の音が聞こえてくる。
沙羅は、薄っすら瞼を開いた。
「お母さん、起きたの⁉」
沙羅を覗き込む美幸の顔は、いまにも泣き出しそうで、くしゃくしゃだった。
美幸へと手を伸ばす、その腕には点滴の管が繋がっていた。
ハッと、倒れる直前の記憶がよみがえる。
自宅で美幸とふたりの時に、激しい胃痛に襲われ、意識がなくなったのだ。
「美幸……心配かけてごめんね」
「そうだよ。お母さんが死んじゃうかと思って、怖かったんだから」
沙羅が目覚めたことに安心したのか、美幸の目からは大粒の涙がこぼれだす。その涙を沙羅の指がそっと拭う。
「うん、ごめんね。美幸が救急車呼んでくれたの?」
「そうだよ。あと、病院の手続きとか、わからなかったから、お父さんに連絡して来てもらったの。それから、お仕事お休みするだろうから、紀美子さんにも連絡したよ」
「そう……大変だったよね。お母さんのために、がんばってくれて、ありがとう」
美幸のそばにいた政志が立ち上がり、ベッドに横たわる沙羅の視界に入る。
美幸が政志に連絡をしたのは、沙羅には意外だった。それでも、困った時に頼る大人といって、一番最初に父親の政志を浮べたのだろう。
「沙羅、目が覚めたようで良かった。気分は?」
「政志さんにも迷惑かけてすみません。いま吐き気も落ち着いて大丈夫です」
「診断は、胃潰瘍の疑いだって、明日、検査してから治療方針が決まるらしい。とりあえず、2.3日は入院になりそうだよ。検査結果によっては伸びるかも知れない」
「あ、美幸がひとりに……」
母子ふたり暮らし、沙羅が入院すると美幸は家に独りになってしまうのだ。
「美幸がいやじゃなければ、俺が家で預かるよ。学校や塾にも通い易いだろうし……どうかな?」
と、政志は美幸に訊ねる。
「わたし、お父さんのところに行くから、お母さんは早く病気直してね」
美幸は気を使ってくれて、政志のところに行くと言っているのだろう。
沙羅は申し訳なさでいっぱいになる。
「美幸、ごめんね。お母さん、早く良くなるから……」
「うん、早く良くなってね」
「2.3日の事だから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。美幸の事は、俺に任せて、ゆっくり休んで」
「政志さん、すみません。美幸の事よろしくお願いします」
コンコンとノック音がして、看護師からすでに面会時間は過ぎている時間だと注意されてしまい、渋々美幸は政志と病室を後にした。
広い個室にひとり残された沙羅は、とたんに寂しさが押し寄せ心細くなってしまう。白い天井を見つめながら、ため息を吐くとジワリと涙が浮かぶ。
「入院だなんて……迷惑ばかりかけてダメだなぁ」
仕事を休むことになるだろうから、会社にも連絡を入れないといけない。
キョロキョロとスマホを探しても、見える範囲にはなかった。
もしかしたらと、ベッドから起き上がる。
ベッドの横にあるチェストの上には、備え付けの小さなテレビがあるだけだ。引き出しを開けると入院に関する書類と封筒。封筒の中には5枚の千円札。これは政志が入れて置いてくれたのだろう。
「スマホもお財布も家に置いたままみたい。慶太に連絡も出来ない」
翌朝、沙羅は回診に来た看護師さんから明るい声で今日の予定を告げられる。
どうやら具合が悪くて入院しても、ゆっくり寝て居られないようだ。
「佐藤さん。ちょうどいいから、胃カメラしましょうね」
何がちょうどいいのか、不思議に思った沙羅は首を傾げる。
促されるままに車いすに乗せられ、1階奥にある検査室に連れて行かれると、さっそく検査だ。「朝ごはん食べていませんね」と確認されて、さっき看護師さんが言っていた、ちょうどいいの意味が胃が空っぽな状態なのだと理解する。
簡単な問診のあと、鎮静剤入りの点滴が始まった。
以前、友人から胃カメラの検査はオエッとなって大変だと聞いた事があった沙羅は、検査にいいイメージがない。
白い天井を見つめながら「怖いし、やだな」と思っているうちに、鎮静剤が効き始め意識は夢の中に落ちて行く。
「沙羅」
と夢の中で慶太の声が聞こえたような気がした。
◇ ◇
始発の新幹線で東京までやって来た慶太は、やっと沙羅が入院している東山病院までたどり着いた。タクシーから降り、建物を見上げた慶太は、ホッと息をつく。
昨晩、沙羅が倒れたと聞いた時には気が気じゃなかった。それがもうすぐ会えるのだ。
受け付けカウンターに向かうと佐藤沙羅の名前を告げ、部屋番号を訪ねた。
だが、受け付けの事務服の女性は申し訳なさそうな顔を慶太へ向ける。
「申し訳ございませんが、個人情報なのでお教え出来ません。それと当院のお見舞いの時間は午後3時からで、親族のみの面会となっております」
沙羅の無事を確認したくて上京したが、顔を見る事も病状を知る事も、叶わない現実に慶太はやるせなさを募らせる。
これが婚姻関係を結んだ夫婦ならば、伴侶が事故や病気で病院に運ばれるような事態に陥った時には、一番最初に連絡が入り、近くまで駆け寄る事が出来るのだろう。
ただの恋人同士では、パートナーに何かが起こったとしても、人伝で話しを聞き、こうして何も出来ないまま、頭を抱えるだけだ。
|東山病院《ここ》に居てもしょうがないと思いつつ、沙羅が居ると思うと離れがたい。
慶太は、待合室を見回した。すると、売店と書かれた矢印を見つける。
その矢印に従って、廊下の奥へと足を進めた。途中、内科や整形外科の診察室の前を通り過ぎ、レントゲン室や検査室の傍にある小さな売店にたどり着く。売店の前にある自動販売機でボタンを押すと、紙コップに入ったコーヒーが出て来た。
コーヒーに口を付けながら、八方塞がりなこの状態、どうしょうかと考えを巡らせる。
すると、検査室のドアが開き、一台のストレッチャーが看護師に付き添われて、出て来るのに気が付いた。
ストレッチャーに乗せられた患者の顔がチラリを見え、慶太は思わず名前を叫ぶ。
「沙羅!」
「……慶太?」
鎮痛剤の影響でぼんやりとした意識の中、沙羅は慶太に呼ばれたような気がして声のする方へ顔を向けた。
慶太は看護師の静止を振り切り、ストレッチャーへ駆け寄る。
心配そうな切れ長の瞳が、沙羅の顔を見つめた。
「沙羅、ごめん」
「……慶太」
「会いたかった」
「ん……」
と言いうと沙羅はまた眠りに落ちてしまった。
沙羅の顔色は青白く、薬の影響とはいえ、弱々しく答える姿に慶太の胸はツキンと痛んだ。
ふたりの間をさえぎるように看護師から声が掛かる。
「ごめんなさい。患者さんとの面会は午後3時からなんです。今はお薬の影響もあるから患者さんを寝かせてあげてください」
「ご迷惑をお掛けしてすみません。時間になったら出直して来ますが、親族でないと面会できないとお伺いして……」
「はい、病院の規則なのでごめんなさい」
杓子定規な返答をした看護師は、慶太を気の毒に思ったのか言葉を続けた。
「患者さんの佐藤さんの意識がハッキリしたら貴方が来ていたとお伝えしておきますね」
「では、これを彼女に渡してください。お願いします」
慶太は名刺を取り出し、裏に「連絡待ってます」と走り書きをしたメモを看護師に託した。
ベッドの上で目覚めた沙羅は、部屋を見回した。
慶太がそばに居るような気がしたからだ。
しかし、慶太の姿は無く、期待した分だけ気持ちが沈み込む。
「やっぱり夢だったんだ……」
でも、確かに、慶太の声を聞き、香りを感じ、姿を瞳に映したはずだった。
会いたいと思う気持ちが、強過ぎて幻を見たのかもしれないと、沙羅はチェストのある方へ、寝返りを打った。
「えっ⁉」
チェストの端に置かれた一枚の名刺。
それを目にした瞬間、トクトクと心臓が早く動き出す。
点滴が付いたままの腕を伸ばし、それを手の中におさめた。温かみのある二俣和紙で出来た名刺、高良慶太の文字が、涙で歪んで見える。
「……夢じゃなかった。うっ……うぅ」
どうして、|病院《ここ》に自分が居るのを知ったのだろうか。それでも、わざわざ金沢から来てくれたんだ。
その事実に、心が震える。
こんなに好きなのに、別れろと言われても、別れるなんて出来ない。
慶太に会いたい。
不安な気持ちを抱えたままで居たくない。
「大丈夫だよ」と、力強く抱きしめてもらいたい。
「会いたいよ……慶太……」
コンコンと、ノック音が聞こえて、沙羅は慌てて涙を拭う。
ドアがゆっくり開き、入って来たのは藤井だった。
「沙羅さん。お加減いかが? 美幸ちゃんから連絡もらって、びっくりしたわ」
沙羅は、手の中にある名刺を枕の下に隠した。
結婚のうわさがある、慶太と付き合っているのを藤井に知られるのは、余計な心配を掛けるような気がしたからだ。
「ご心配頂いてすみません。いまは落ち着いています」
「運ばれたのが、|東山病院《ここ》で良かったわ。医院長とは知り合いだから、融通を利かしてもらえるわよ。お部屋に不満とかない?」
「いえ、一人部屋なんて贅沢で……差額ベッド代が心配です」
「あら、ベッド代の心配なんてしなくても大丈夫よ。わたしに任せて! 沙羅さんを娘のように思っているって言ったのは本当よ。退院後も静養するのに、美幸ちゃんと一緒にウチに来てもらおうと思っているの」
「いくらなんでも、紀美子さんにそこまで甘える訳には……」
沙羅は、親戚関係と言えども、頼りすぎな気がした。
だが、藤井は、何でもひとりで抱え込み、甘え下手な沙羅の性格をよくわかっていた。
「沙羅さん。もう少し図々しくしてもいいのよ。それに甘えてもらった方がうれしいわ。美幸ちゃんには、メールでOKをもらっているの。学校の送り迎えも心配いらないわ」
美幸と仲良しの藤井は先手を打っていたのだ。
「……ありがとうございます。お言葉に甘えてお世話になります」
沙羅からその言葉を引き出した藤井は満足気に微笑んだ。
「ねえ、沙羅さん。無理にとは言わないけれど、わたしの本当の娘になるのはどうかしら?」
「はい?」
突然の提案に沙羅の理解が追い付かない。
「それって、どういう……?」
ベッドの上で沙羅は、ぱちぱちと瞬きを繰り返し、落ちつかない様子で藤井に訊ねた。
「ごめんなさい。こんな話し、驚くのも無理はないわ」
藤井は安心を分け与えるように、温かな手を沙羅の白い手に重ね話しを続ける。
「わたしは主人も亡くなり子供も居なくて、ひとりでしょう。元気な時は良いけれど、そうじゃない時もあるじゃない。そんな時は、心細くてね。わたしにも家族が居たらって、考えてしまうの」
明るく活動的で、何でも持っている藤井。でも、心の中で孤独を抱えていた。
それは、同じような孤独を抱える沙羅には、その心細さがよくわかる。
心が弱った時、家族という存在が恋しくなるのは自然な感情だ。
「もしも、良ければ養子縁組をして、わたしの家族になって欲しいの。だからといって、無理やり一緒に暮らせとか、老後の世話をしろとか言うつもりは無いのよ。家族として心の支えになってくれたらいいの」
「養子縁組……」
それは、よく聞くけれど、沙羅は自分とは縁の無い言葉だと思っていた。
上手く受け止め切れず、視線を泳がせた。
「体調が悪いのに、こんなお話してごめんなさい。でも、今回、知り合いの病院だったから、お見舞いも気軽に来れたけれど。他の病院だと面会の制限や、手続きの問題も出たりして、身内でないと出来ないこともあってね。何も出来ずにもどかしい思いをするぐらいなら、いっそのこと本当の親子になった方がお互いに良いかと思って……。選択肢の一つとして、考えて欲しいの」
思い付きで言っているのではないとわかる真剣な眼差しの藤井に、沙羅は向き合った。
「突然のお話で……ありがとうございます。直ぐに返事ができませんが、美幸とも相談して良く考えてみます」