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宇佐美さんの過去は、静かで、でもどこか重い影を帯びていた。彼が生まれたのは、東京の少し離れた郊外、古い商店街の奥にあった小さな喫茶店だった。父親は早くに亡くなり、母親は病弱で、幼い宇佐美さんは、祖父の一彦——かずちゃん——に育てられた。
『喫茶うさぎ』は、当時から変わらず、木のカウンターと焙煎の香りが染みついた場所。宇佐美さんがまだ小さかった頃、かずちゃんは毎朝、豆を挽く音を子守唄のように響かせて、孫にコーヒーの淹れ方を教えていた。
「一帆、コーヒーはな、人を待つものだよ。急いじゃいけない。ゆっくり、優しく」
かずちゃんの言葉を、宇佐美さんはいつも黙って聞いていた。母親がベッドで咳き込む夜も、父親の写真が埃をかぶる日も、彼はカウンターの隅で、小さな手でドリッパーを支え、お湯を注ぐ練習を繰り返した。
味はまだ下手くそだったけど、母親に淹れて持っていくと、彼女は弱々しく微笑んで、「美味しいね、一帆」って言ったという。その一言が、宇佐美さんのすべてだった。中学に上がる頃、母親の病状が悪化した。入退院を繰り返す中、かずちゃんは店を切り盛りしながら、宇佐美さんの面倒を見続けた。宇佐美さんは学校帰りに店に寄って、カウンターの奥で宿題をし、客がいなくなったら、かずちゃんの手伝いをした。
豆を袋から出して、焙煎機の火を調整して、カップを磨いて。そんな日々が、彼の「普通」だった。
高校三年の夏、母親は静かに息を引き取った。葬儀の後、かずちゃんは宇佐美さんをカウンターに座らせて、ブラックコーヒーを淹れた。
「一帆、お母さんは、君の淹れたコーヒーが一番好きだったよ」
宇佐美さんはカップを握りしめて、初めて声を上げて泣いた。
それ以来、彼はコーヒーを淹れる時、いつも母親の笑顔を思い出すようになった。味を磨くことが、彼女への最後の会話みたいに感じて。
大学は経済学部へ進んだ。かずちゃんの店を継ぐか、継がないか、迷っていた頃、宇佐美さんは「飲食店の再生」という道を見つけた。小さな喫茶店や老舗食堂が、後継者不足で潰れていくのを、たくさん見てきたから。『喫茶うさぎ』も、いつか同じ運命になるかもしれない。だから、宇佐美さんは勉強した。
資金繰り、マーケティング、内装のリノベーション、すべてを。
卒業後、宇佐美さんは小さなコンサル会社に入り、すぐに頭角を現した。やがて、「宇佐美コンツェルン」という名前で、独立。小さな店を次々と再生し、その評判が広がっていった。でも、どれだけ忙しくても、宇佐美さんは毎週末、『喫茶うさぎ』に帰ってきた。
スーツを脱いで、エプロンを着て、かずちゃんと一緒にカウンターに立つ。
「かずちゃん、今日の豆は?」
って子供の頃と同じように聞く。かずちゃんは笑って、「一帆の淹れ方が、一番だよ」って言う。そんな日々が続いたある日、かずちゃんが腰を痛めて、入院した。
宇佐美さんは会社を休んで、店を切り盛りした。その時、常連として通っていた私と、初めてまともに話した。メイドの制服を脱いだ私が、カウンターに座って、「本物のコーヒー、飲みたいんです」って言った瞬間、宇佐美さんは、母親の笑顔を思い出した。それから、私が店を継ぎたいと言った時、宇佐美さんは迷わなかった。
「僕が、支えるよ」
2階の居住スペースで一緒に暮らすようになったのは、自然な流れだった。朝の光が木枠の窓から差し込む頃、宇佐美さんはいつも通り、カウンターの端でコーヒーを淹れてくれる。
私がまだ眠気まなこでエプロンを着けている間に、彼はすでにシャツの袖を捲って、豆を丁寧に挽いている。コロコロという音が、私の朝の目覚まし代わり。淹れ終わったカップを、「今日の味、どう?」って、静かに差し出してくれる。私は一口飲んで、「昨日より、少し甘みが強いかも」って答えると、彼は小さく笑って、「じゃあ、次はもう少し深煎りにしよう」って、メモを取る。
そんな何気ないやり取りが、今は私の日常。宇佐美さんがスーツを着てネクタイを締め、出社する時は、喫茶店の前に黒いセダンが宇佐美さんを迎えに来る。商店街の一角で、違和感ありありで笑ってしまう。
古びた木造の建物と、うさぎの看板の下に、ピカピカの黒塗りの高級車が停まる。運転手さんが恭しくドアを開けて、宇佐美さんが後部座席に滑り込む。かずちゃんがカウンターから顔を出して、
「一帆、行ってらっしゃい」
って、穏やかに手を振る。私はエプロンの裾を握って、店の入り口から見送る。セダンがゆっくり発進して、商店街の路地を抜けていく。後ろ姿が小さくなるまで……なぜか胸が温かくなる。
「お嬢さん、今日もコーヒー淹れますか?」
かずちゃんが、いつものように声をかけてくれる。私は頷いて、
「はい。今日はエチオピアの豆で、フルーティなのを狙ってみます」
カウンターに立って、豆を挽く。
コロコロ、コロコロ。
お湯を注いで、ドリップする。カップに注いで、常連のおじいさんに持っていく。
「おはようございます。今日のコーヒーです」
おじいさんが一口飲んで、
「ん……いいねぇ。弥生ちゃんの味、だんだん深くなってきたよ」
私は微笑んで、
「ありがとうございます」
2階の居住スペースは、狭いけど、木の温もりが満ちてる。夜になると、宇佐美さんが帰ってくる。セダンが商店街の角で止まって、彼が降りてくる。スーツのジャケットを脱いで、シャツ姿で階段を上がってきて、「ただいま」って、静かに言う。
私はキッチンで夕飯の支度をしながら、「おかえり」って返す。かずちゃんが下から、「一帆、ご飯は弥生ちゃんが作ってるよ」って声をかける。一緒に食べる食卓は、静かで、でも温かい。
宇佐美さんは、今日の仕事の話を少しだけして、「君のコーヒー、会社の人にも飲ませたいな」って、冗談めかして言う。
私は笑って、「まだまだ下手くそですよ」って返すけど、心の中では、少しずつ自信がついてきている。
夜、2階のリビングで、宇佐美さんが私の隣に座って、「今日も、お疲れ様」って微笑む。黒いセダンが停まっていた場所は、もうただの路地。スーツを脱いだ宇佐美さんはとても優しい。
ここが高千穂弥生の、本当の家。メイド服の夢は、もう遠い記憶。
木目の香りと、深煎りの苦みと、優しい甘みと、宇佐美さんの温もりが、私の新しい味。これが、自由の続き。私は目を閉じて、静かに息を吐く。