テラーノベル
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そこは、重力も、病魔も、
沈黙もない場所だった。
「……あ」
元貴は、自分の手を見つめた。
透き通るような白。
けれど、もうそこには震えも、麻痺もない。
ゆっくりと息を吸い込む。
喉の奥に、懐かしい春の匂いと、大好きなラベンダーの香りが飛び込んできた。
視界がパッと開ける。
「あはは、すごい……」
声が出た。
鈴の鳴るような、かつての自分の歌声。
目の前に広がる世界は、
かつての共感覚(シナスタジア)さえも超える、
筆舌に尽くしがたい極彩色に満ちていた。
元貴は、ふわふわとした足取りで、光の草原を歩く。
ふと足元を見ると、そこだけが地上と繋がっている「窓」のように透けて見えた。
そこには、ステージの上で必死にギターをかき鳴らす、一人の男がいた。
「……若井。また鼻声で歌ってる。
泣きすぎだってば」
元貴はくすくすと笑いながら、地上の若井のすぐ隣に座った。
今の元貴には分かる。
若井のギターから放たれる一音一音が、綺麗なオレンジ色の粒子となって、スタジアムを、そして空の上まで届いているのが。
元貴はそっと、若井の震える肩に手を置いた。
触れることはできないけれど、自分の「想い」が若井の心臓のリズムを整えていくのが伝わった。
『 ほら、若井。サビだよ。一緒に歌おう? 』
元貴は若井の耳元で、彼にしか聞こえない内緒のハミングを重ねた。
その瞬間、若井がふっと顔を上げ、笑顔を見せた。
通じ合っている。
体は離れていても、二人の音楽は今、この宇宙で一番完璧に重なり合っている。
「……いい曲だね、僕たち」
元貴は、若井の指が紡ぐメロディに身を任せ、心地よさそうに目を閉じた。
若井が年老いて、いつかこの場所に来る日まで。
元貴は、空の特等席で新しい楽譜を書きながら、ずっと彼を待ち続ける。
「僕が作った曲が、君の背中を押す風になりますように」
元貴は最後に、地上に向かって優しく投げキッスを贈ると、光の向こう側へと、軽やかな足取りで走り去っていった。
その背中には、あの日若井に貸した、温かいオレンジ色のマフラーが、風に誇らしげに揺れていた。
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