< rdside >
診察がすべて終わった夜のクリニックは、廊下の灯りだけが細く伸びていて、外の空気より静かだった。
カルテを片づける手が、さっきから思うように進まない。
書類をつまんでは置き、また拾って、目で追うのに頭が別の場所へ向かっていく。
本当は分かっている。
さっきまで椅子に座ってた彼のことを考えすぎてるだけだと。
三年ぶりに目の前で声を聞いた。
ぺいんとが大人になってたのは、見た瞬間で分かった。
体つきも、声の低さも、表情の作り方も。
全てがこの生きずらい社会に適応するものになっていた気がした。
あの頃のぺいんとは、この世の中が大嫌いで、全てが嫌いで、この世に吸い込まれるのを恐れているようにも見えた。
けど、笑うときだけはあの頃のままで、無邪気に子供らしく笑っていた。
そこに触れた途端、胸の奥を引っ張られるみたいに苦しくなった。
書類をめくる指が止まる。
rd「……落ち着けって話なんだけどな」
独り言が静かな部屋に吸い込まれる。
医者として距離を保つのは当たり前。
彼が再診に来た以上、俺は担当医で、彼は患者で、それ以上にも以下にも踏み込んじゃいけない。
そんなこと、三年前に痛いほど理解して終わったはずなのに。
… なのに。
カルテの側にペンを置いて、椅子に背中を預ける。
照明に照らされた天井がやけに白く見えた。
最初に名前を呼んだとき、彼の肩がぴくって揺れていた。
あれは驚いたのか、それとも思い出したのか。
俺の方は……言葉じゃなく反射で呼んでいた。
胸が勝手に動いたみたいだった。
rd「会いたかった、なんて……言える立場じゃないしな …」
それでも、胸のざわつきは落ちつくどころか深く沈んでいく。
苦しいわけじゃない。
けど、息をするたびに胸の奥が少し痛む。
カルテに視線を戻す。
ぺいんとの相談内容は、軽めの不眠と不安の波。
どれも、急ぎで危険というほどではない。
でも、三年前よりずっと前向きに、生きる場所の中で踏ん張ってる人の気配がした。
大人になったって言葉で片付けるには違う。
彼は、自分で自分を支えようとしながら、それでも揺れ続けてて、その揺れをごまかさずにここへ足を運んできた。
rd「……あの頃よりずっと強いよ」
言葉は小さくて、誰にも届かない。
資料をまた整えようとした時、胸の内側がじんわり熱くなった。
さっきぺいんとが扉を出ていく時、振り向かなかったのも分かる。
あれは期待じゃなくて、気持ちを必死で抑えてた背中だった。
ここで恋の話を口にしたら、何か壊れる。
そんな雰囲気が二人の間にあった。
俺自身が一番それを感じてた。
だから、聞くべきじゃない言葉を飲み込んだ。
名前を呼ぶ声さえ、三年前に近づいてしまいそうで怖かった。
机に手をついて、ゆっくり息を吐く。
rd「……どうすんだよ、ほんと」
会いたかったなんて言えない。
言っちゃいけない。
けど、胸の奥で静かに暴れてる。
三年前のあの日、ぺいんとが弱ってた頃に抱いた気持ちと、今の気持ちは同じじゃない。
あの頃は守りたくて抱きしめたくなるような、危ういものに触れるみたいな想いだった。
でも今は違う。
彼自身がちゃんと立っていて、前を見ようとしてて、大人になった姿に、俺の心の方が追いつかなくて揺れている。
rd「……反則みたいに綺麗になってくるんだから」
自分に苦笑した。
言葉にしても誰も聞いてないのに、言った瞬間に胸がまた締めつけられる。
ほんとに、いま彼はなにしてるんだろ。
帰り道、風にあたりながらまた俺の名前思い出したりするんだろうか。
そんなこと考えてる自分が、医者と1番してはいけない距離の詰め方をしている。
分かってるのに止められない。
資料の山の横に置いたペンが静かに転がる。
rd「……次の診察、どう接すればいいかな、」
丁寧に、でも踏み込みすぎず、ただ寄り添うだけ。
それが医者として当然の態度だ。
けど俺はぺいんと が前より強くなってるって思うほど、触れたくなる。
三年前よりずっと好きになってるのが自分でわかる。
胸が少しだけ重くなる。
言えない気持ちを抱えたまま、また資料に手を伸ばした。
そして、心の奥でひっそりと願う。
次に会ったとき、また名前を呼ばせてほしい。
呼んだときの、あの一瞬の揺れをもう一度見たい。
ただそれだけの願いすら、叶えていいのか分からないまま。
資料整理をひと区切りつけた頃には、時計の針が思った以上に進んでいた。
帰らなきゃいけないのに、荷物に手を伸ばす気になれなくて、椅子に座ったまま机の端を指でとんとん叩く。
ぺいんとの目が、ずっと頭に残ってる。
驚いたような、不安を隠してるような、それでも強がりを混ぜてるあの目。
あれを見てると、三年前と今の境界が曖昧になってくる。
rd「……あいつ、今日眠れないかもしれないな」
思わず漏れた声は、静かすぎる部屋でやけに大きく響いた。
不眠の相談に来たって言ってた。
症状としては軽めでも、夜は心が揺れやすい。
まして今日みたいに、予想外の再会なんてあったら、なおさら。
何度も名前を呼びたくなった。
呼べばきっと、もう少し踏みこんだ話ができたはずだ。
でも、名前を呼ぶだけが危うくて、俺は怖かった。
rd「……期待させるのも、違うよな」
誰に言うでもなくつぶやく。
けど胸の奥は、言葉とまったく逆方向に動いていた。
会いたかった。
もっと話したかった。
前よりずっと強くなった姿を見たら、その変化を全部知りたくなった。
でもそれは医者として一線を越える。
越えた途端、彼の今の生活に何かしらひずみを作ってしまう。
そんなの、絶対嫌だ。
手元のカルテをそっと閉じる。
彼の名前が印字された文字が見えなくなっても、頭の中には残り続けている。
rd「次、どんな顔して来るんだろ」
また驚いたみたいに目を見開くのか。
少し緊張しながら椅子に座るのか。
それとも、昨日より落ち着いた声を聞かせてくれるのか。
どんな姿でも、俺の方が冷静でいられる自信がなかった。
三年前はまだ、職業としての線引きに必死で、気持ちを“抑えようとすること”でどうにか保てていた。
でも今は違う。
成長したぺいんとを見てしまったことで、線引きの隙間から気持ちが溢れてくる。
rd「……ほんとにどうしたらいいんだよ」
答えのない問いが胸の中で重さを増していく。
立場を守らなきゃいけないのに、心だけが前へ出ようとしてる。
そんな自分に呆れながら、ゆっくり立ち上がった。
電気を落とすと、診察室は一気に暗くなる。
窓の外の街灯りがぼんやり差し込んで、机の上のカルテだけが薄く浮かび上がる。
あの紙の向こうに、ぺいんとの今の生活がある。
図書館で働いて、夜風にあたりながら歩いて、自分の不調をまっすぐ言葉にして……
それを想像するだけで、胸がじわっと温かくなる。
rd「前より……頑張ってんじゃん」
声にすると、言葉の重みが落ちてくる。
誤魔化せない。
俺は彼のことを、三年前よりずっと深く想っている。
診察室の鍵を閉め、廊下を歩く。
足音がやけに静かで、暗い窓に映る自分の姿が少し情けなく見えた。
次の診察で、何を聞くべきか。
どこまで寄り添って、どこで止まるべきか。
ぺいんとは何を抱えて、ここに戻ってきたのか。
全部気になる。
聞きたい。
ちゃんと向き合いたい。
でも、望みすぎれば壊れる。
rd「……患者として」
自分に言い聞かせるように呟き、階段を降りる。
階段の途中で立ち止まった。
手すりに触れた指が少し震えてる。
次に名前を呼ぶとき、きっと声が揺れる。
その揺れをぺいんとがどう受け取るのか、想像すると胸がざわついた。
rd「……落ちつけ、これは仕事。」
そう言っても、胸のざわめきは消えなかった。
むしろ、彼の姿を思い出すほど強くなる。
三年経っても消えなかった想いが、今日一気に息を吹き返した。
それを認めるのが怖いのに、認めないと前に進めない気もする。
外に出ると、夜風が少し冷たかった。
ぺいんとが好きだって言ってた、あの風と同じ温度だ。
この風に吹かれながら、あいつはどんな顔で帰ったんだろ。
名前を呼んだ声だけが耳に残って、眠れない夜を過ごしてるかもしれない。
……もしそうなら、次の診察で少しでも楽にしてやりたい。
でも、触れすぎると壊れる。
そんな綱渡りみたいな距離が、今の俺たちの位置。
rd「次、ちゃんと聞かないとな。……不眠のこととか」
ほんとうは、それだけじゃない。
聞きたいことはもっとある。
三年間どんな風に生きて、何を思って、どんな夜を越えてきたのか。
けどそれはまだ言えない。
今は、ただ寄り添うだけだ。
夜風に一度だけ息を吐いて、家に向かって歩き出した。
心の奥に残ったざわめきが、今日だけじゃ収まらないことをわかりながら。
これでやっと、次が来る。
ぺいんとが再診の理由を話してくれる日が。
そして俺は、どんな顔でその話を聞くんだろう。
どこか懐かしい香りのする夜の風を感じながら、夜空に浮び上がる星の1つ1つに願いを込めた。
コメント
1件
めっちゃ良かったです!! これからも頑張って!!