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夜。
キッチンの明かりだけがついている。
湯が沸く音。
カップを置く音。
いるまは流しに背を預けていた。
LANはテーブルに肘をついている。
「……泣いたな」
いるまが言う。
断定。
でも、重くない。
LANは少し間を置いてから頷いた。
「思考、いっぱいいっぱいだった。
逃げるか、固まるか、その二択しか残ってなかった」
いるまは目を伏せる。
感情が、小さく波打っている。
「それでも、逃げなかった」
「うん」
LANは指でカップの縁をなぞる。
「……正直、怖かった。
触ったら、壊れると思った」
いるまはLANを見る。
「触ったの、すちだ」
「分かってる」
LANは少しだけ笑った。
「だから、よかった」
沈黙。
それは、気まずさじゃない。
確認の時間。
「俺さ」
いるまがぽつりと言う。
「感情、見えすぎるんだよ。
嬉しいのも、怖いのも、全部同じくらい」
LANは視線を上げる。
「……今日、どう見えた」
「温かかった」
短い答え。
「最初は、キャパオーバーの色。
でも途中から、“戻ってくる色”になった」
LANはそれを聞いて静かに息を吐いた。
「じゃあ、ちゃんと帰ってきたな」
「うん」
湯が沸く音が止まる。
いるまは火を止めた。
「LAN」
「なに」
「……俺ら、何もしなくていい日も、必要だな」
LANは少し考えてから頷く。
「うん。
“見ない”選択も、守りだ」
二人は、カップを持って立つ。
廊下の奥、静かな部屋。
「起きてるかな」
「寝てる」
LANの答えは確信に満ちていた。
「……よかった」
灯りを消す。
キッチンはまた静かになる。
その静けさはもう、
怖いものじゃなかった。
廊下の電気は消えている。
足音を立てないように、
二人は並んで歩いていた。
リビングの手前。
そのまま、廊下の端に腰を下ろす。
床は冷たい。
でも、気にしない。
みことも隣に座った。
少し距離を空けて。
「触ったんでしょ」
みことが言う。
責める声じゃない。
確認。
すちは頷いた。
「……あれ以上、一人で置いておけなかった」
「うん」
みことはそれを否定しない。
「未来、変わった?」
すちが聞く。
みことは少し考えてから答える。
「大きくは、変わってない」
「じゃあ」
「でも」
みことは言葉を選ぶ。
「“怖い未来”の数が、減った」
すちは目を伏せる。
「……俺、記憶、見えちゃうからさ」
ぽつりと。
「触った瞬間、流れ込むかと思った」
みことは黙って聞いている。
「でも、来なかった」
すちは自分の手を見る。
「今の記憶は、まだ誰にも渡してないんだな」
みことが静かに言う。
「うん」
「それ、すごく大事だよ」
沈黙。
廊下の先で、誰かが寝返りを打つ音。
みことは天井を見る。
「未来ってさ」
「うん」
「触らなくても、変わるんだよ」
すちは小さく笑った。
「今日みたいな?」
「今日みたいな」
みことは目を閉じる。
「撫でた未来は、前からあった」
すちは驚いて見る。
「でも」
みことは続ける。
「“怖くない温度”は、今日、初めて見えた」
すちは何も言えなくなる。
廊下の灯りが自動で消える。
暗闇。
それでも二人は動かない。
「……このまま、見守ろうか」
すちが言う。
「うん」
みことが答える。
「選ぶまで」
その言葉にすちは頷いた。
二人は何もしない。
それが一番の仕事だと分かっているから。
夜。
家の中の灯りは一つだけ残っていた。
リビングの間接照明。
明るすぎない、影がちゃんと影でいられる光。
俺はソファに座っていた。
膝は抱えていない。
でも、背中は少し丸い。
こさめは隣じゃなく、一つ空けた場所に座る。
「……眠くない?」
小さな声。
俺は首を横に振った。
眠くない、というより、
まだ起きていたかった。
こさめは少し考えてから言う。
「……さっきのこと」
肩がわずかに動く。
「こさ、嘘かどうか、もう一回見ていい?」
返事の代わりに、こさめを見る。
こさめはちゃんと目を合わせている。
「触れるけど、嫌ならやめる」
俺は少しだけ間を置いて頷いた。
こさめの手がゆっくり近づく。
今度は、袖じゃない。
手の甲。
指先が、そっと触れる。
温度が、はっきり伝わる。
昼間より、はっきり。
逃げなかった。
こさめの目が少し細くなる。
「……嘘、ない」
確認するように。
「怖いのも、緊張してるのも、全部ほんと」
こさめは指を動かさない。
撫でない。
握らない。
ただ、触れている。
「でも」
少しだけ、声が柔らかくなる。
「温かいって思ってるのも、ほんと」
喉が動いた。
「……触れるの」
声が小さい。
「こわい?」
こさめは首を振る。
「こさは、今、こわくない」
その言葉に、
嘘はなかった。
そっと、自分の指を動かした。
触れている手にほんの少し、
重ねる。
一瞬、こさめの目が開く。
でも離れない。
「にげない」
それは、宣言みたいだった。
こさめは小さく息を吸う。
「うん」
「それでいい」
二人の手はそのまま。
夜は、静かに続く。
触れている温度は、
確かで。
嘘じゃなくて。
奪うものでもなくて。
――ここにいる証だった。
夜。
時計の音が、少しだけ遅く感じる。
ソファの上で二人は動かなかった。
手は、まだ触れている。
握っていない。
離れてもいない。
「……眠くなってきた」
こさめが、小さく言う。
俺はその言葉に頷いた。
声を出すと、この温度が壊れそうだった。
こさめは空いている手で、近くにあったブランケットを取る。
広げて、二人にかける。
重さはちょうどいい。
「……ここで、寝る?」
問いかけは軽い。
少し考えてから、もう一度、頷いた。
ソファに身を預ける。
こさめは距離を詰めすぎない。
肩が触れるか、触れないか。
その境目。
呼吸の音がゆっくり揃っていく。
「……嘘、ないね」
眠気混じりの声。
「うん」
暇72の返事は短い。
目を閉じると、暗闇が来る。
でも、怖くない。
手の温度がそこにある。
離れない。
触れている。
それだけで、
夜は、ちゃんと夜だった。
そのまま、二人は眠った。
リビングの灯りは誰も消さない。
薄明かりの中でブランケットが静かに上下する。
――朝になっても、この温度は
嘘にならない。
朝。
リビングのカーテンの隙間から、薄い光が差し込んでいた。
俺は最初に目を覚ました。
天井が昨日と同じ。
手を動かすと、まだ温度があった。
こさめはソファに座ったまま眠っている。
ブランケットが二人にかかっている。
――起きてない。
それが少し不思議だった。
いつもなら、誰かが起きた気配があると、すぐ動くのに。
しばらく、こさめを見ていた。
呼吸。
ゆっくり。
表情。
力が抜けている。
……今なら。
理由はちゃんと考えていなかった。
ただ、昨日の夜の温度がまだ残っているのか、確かめたかった。
ゆっくり体を動かす。
音を立てないように。
そして、そっと。
こさめの膝に頭を乗せた。
一瞬、どきっとする。
――怒られる?
でも、何も起きない。
こさめの体は動かなかった。
温かい。
昨日より、近い。
布越しじゃない温度が額に伝わる。
「……」
俺はそのまま動かずにいた。
逃げる必要はなかった。
しばらくして、こさめの指がわずかに動く。
目はまだ閉じたまま。
でも、嘘を見抜く力はちゃんと起きている。
「……」
小さく、息を吐く音。
こさめは何も言わない。
代わりに俺の頭の横にそっと、手を置く。
撫でない。
押さえない。
そこにあるだけ。
――嫌じゃない。
その事実がはっきり伝わる。
俺は目を閉じた。
興味本位だったはずなのに、胸の奥が少しだけ、ゆるむ。
初めて、自分から近づいた。
初めて、離されなかった。
朝の光は静かに広がる。
この家での朝はもう、
逃げる時間じゃなかった。