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あや
「強がるも何も、私の人生に直樹は必要ないの。婚約だなんて嘘八百並べて……。よく平気でそんなことが言えるわね。アンタみたいな浮気男との婚約なんて、こっちから願い下げよ」
言い放った穂乃果の声は、自分でも驚くほど冷えていた。
直樹は、思いもよらなかった穂乃果の反論に、里奈の前でメンツを潰されたと感じたのだろう。一瞬にして顔を赤く染め、苛立ちを隠そうともせずに声を荒らげる。
「……なんだと? お前、しばらく帰ってこない間に随分偉そうな口をきくようになったじゃないか。全く、誰のおかげで今までやってこれたと思ってんだ。そんな生意気な口が叩けるのも今のうちだけだぞ」
「誰のお陰って……私のお陰でしょう? 自分じゃ何一つやらないくせに。私の貯金、全部使い込んでたのも知ってるんだから!」
「な……っ」
図星を突かれた直樹が絶句し、顔を醜く歪める。隣にいる里奈も、予想外の貯金使い込み。という生々しい言葉に、引き攣った笑いを浮かべて固まっていた。
「穂乃果。こんな阿保は置いといて行きましょ。時間の無駄よ、無駄」
ナオミが言い捨て、穂乃果の肩を強く抱いて翻る。
背後で直樹が何かを見苦しく叫んでいたが、二人は一度も振り返らなかった。
「……ここまでくれば大丈夫かしら……」
並木道を抜け、少し明かりの落ちた静かな通りまで来たとき、ナオミがふと足を止めた。
その瞬間、急に安堵が押し寄せてきてずっと張り詰めていた穂乃果の膝が、がくがくし始めた。それを支えるように、ナオミの腕がグッと強く穂乃果の腰を抱き寄せてくれる。
「……っナオミさん……わたし、私……っ」
口を開こうとしても、言葉がうまく形にならない。肺の奥がひきつり、過呼吸気味の浅い呼吸が白い呼気となって闇に溶けていく。
全身の血液が沸騰したかと思えば、指先からは急激に体温が失われていく感覚。直樹に向けたあの決別の言葉を、自分の耳がまだ信じられずに反芻している。
「あんな大勢の人ごみの中でよく頑張ったじゃない。凄くカッコよかったわよ」
ナオミは包み込むように、穂乃果の震える体を正面から抱きしめた。
ナオミのコートから漂う、凛としたムスクの香りと、彼女(彼)の確かな体温。さっきまで耳の奥で鳴り止まなかった直樹の罵声が、その温もりによって少しずつ静まっていく。
「あんなの……ただの強がりで……。本当は、心臓が壊れそうで、逃げ出したくて……っ」
穂乃果はナオミの胸元に顔を埋め、声にならない声を漏らした。必死で握りしめていた拳は、爪が掌に食い込んで白くなっている。
「……こ…かった。……怖かった……!」
そうだ。自分は怖かったんだ。口に出して初めて、自分がこんなにも怯えていたことがわかった。
ずっと胸の奥にしまい込んで来た気持ちが、ダムが決壊したように溢れ出して止まらない。
直樹の不機嫌な顔を見るたびに、胃の辺りがキュッと縮むような予感。
何を言っても否定され、自分の価値を削り取られていくような、終わりのない孤独。一人で並木道を見つめながら、惨めさに耐えていた時間。
「怖かった……、すごく……っ! あんな風に言ったら、また何かされるんじゃないかって……。でも、でも、もう嫌だったの……っ!」
穂乃果は、ナオミのコートの背中を、指が白くなるほどの力で掴んだ。
吐き出す言葉と一緒に、熱い涙がナオミの胸元を濡らしていく。子供のようにしゃくり上げ、全身を激しく震わせて泣く穂乃果を、ナオミはさらに力を込めて、折れそうなほど強く抱きしめた。
「ええ、知ってるわ。アンタは、アタシが思っていた以上にずっと、独りで戦ってきたのね」
ナオミの声が、穂乃果の頭の上から慈雨のように降り注ぐ。
その温もりに包まれていると、直樹という男が植え付けた「私なんか」という呪いが、一つずつ剥がれ落ちていくような気がする。