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あや
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「……少しは落ち着いた?」
穂乃果の涙が止まったころ合いを見計らって尋ねる。子供のように縋って泣いてしまったのが恥ずかしくて顔を上げれず、俯いたままこくりと頭を立てに振った。
あんなに大声を上げて、子供のように縋りついて泣いてしまった。その事実が急激に現実味を帯びて押し寄せ、恥ずかしさで顔が熱くなる。
ナオミのコートには、自分の涙と化粧が混じった汚れがついているかもしれない。そう思うと、ますます顔を上げることができず、俯いたまま指先でナオミの服の裾をぎゅっと握りしめた。
「そんなに俯いてたら、せっかくの綺麗な並木道が見えないじゃない」
ナオミが茶目っ気たっぷりに囁き、穂乃果の頭を優しく撫でた、その時だった。
ふいに頬に冷たい雫が滴った。視線を上げると、暗い空から糸のような雨が、静かに降り注いできた。
黄金色に輝いていた銀杏の葉が、濡れてその色を深く沈めていく。街灯の光に照らされた雨脚は、細く、繊細なカーテンのように二人と世界を隔てていった。
「うそ……っ。降り出しちゃったわね。今日は雨が降る予報なんてなかったはずなのに……」
ナオミが小さく呟き、空を仰ぐ。その拍子に、彼女(彼)の長い睫毛に小さな水滴が宿った。
先ほどまでの激情が、この静かな雨音に吸い込まれていく。穂乃果は俯いたまま、濡れ始めた自分の爪先を見つめていた。直樹への恐怖も、自分への情けなさも、この雨が一緒に洗い流してくれればいいのに。けれど、感傷に浸ってる場合ではない。
「穂乃果、このままじゃ濡れ鼠よ。どこか雨を避けられる場所を探しましょう」
ナオミの声はどこまでも優しく、けれどその手は迷いなく穂乃果の指を絡め取った。
繋がれた手のひらから伝わる熱が、冷え始めた体に心地よく染み渡る。二人は導かれるように、静まり返った住宅街へと足を進めた。
雨は次第に勢いを増し、石畳を叩く音が激しく打ち付けていく。ナオミに促されるまま角を曲がった先で、一つの灯りが目に飛び込んできた。
「……あそこなら、雨宿りできそうね」
雨音に急かされるようにして二人が滑り込んだのは、深い軒下が張り出した、邸宅のような建物のエントランスだった。激しくなった雨を逃れ、ようやく一息ついて穂乃果が顔を上げる。
――けれど、そこにあったのは、見慣れた街の景色ではなかった。
雨に濡れたタイルを照らしているのは、ピンクと紫の、どこか官能的なネオン。上品な装いの中にも隠しきれない「目的」を掲げたホテルの看板が、雨のカーテンの向こうで怪しく明滅している。
「……っ、ナオミさん、ここ……」
足がすくみ、動けなくなる穂乃果の隣で、ナオミは濡れた髪を無造作にかき上げた。水滴が彼女の白い首筋を伝い、ムスクの香りが湿り気を帯びて色濃く漂う。
「躊躇してる場合? このままじゃアタシ達、ずぶ濡れで風邪を引いちゃうでしょう?」
「で、でも……っ! ここって……その……っ!」
「あら。身体を温めるために入るのに、何か問題でもあるかしら?」
ナオミが小首を傾げ、悪戯な笑みを浮かべる。その仕草さえも妙に色っぽくて、穂乃果の鼓動は大きく跳ね上がった。
「今日はあんまりにも濃い一日だったから、正直疲れちゃったの。ホテルの中でゆっくりするのって最高じゃない?」
「そうだけど……。でもっ」
「恥ずかしがってる場合? ほら、このままじゃ目立つから行くわよ」
迷いのない足取りで進むナオミに、穂乃果は引きずられるようにしてついていく。
彼の手のひらから伝わる熱が、冷えきっていたはずの指先をジリジリと灼いた。
「えっ、ちょっ……待って、ナオミさん……っ」
抵抗も虚しく、重厚な自動ドアが左右に開く。
一歩踏み込んだ先には、外の世界とは切り離された、妖しく甘い静寂が広がっていた。
薄暗いロビー。壁一面を占領する巨大なパネルには、淡く発光する部屋の写真がズラリと並んでいる。天蓋付きのベッドや、不自然なほど大きなジェットバス――どれもが露骨に「男女の情事」を肯定し、誘っているように見えて、穂乃果の視界はチカチカと火花を散らした。
(どどどっ、どうしよう……っ! 私、こういう場所、まだ片手で数えるくらいしか来たことないのに……!と言うか、コレってやっぱりそう言う流れ!?)
無機質なボタンを押すナオミの横顔は、驚くほど冷静で、そして残酷なまでに美しい。
パネルから発せられる光が、彼の琥珀色の瞳を怪しく反射させている。
「……この部屋、広くて寛げそうじゃない」
迷わず選ばれたのは、天蓋付きの大きなベッドが中央に鎮座する、ひときわ豪華なスイートルーム。カチリ、と決定音が響き、機械からカードキーが吐き出される。
「えっ、あ、あの……っ」
制止の声を上げる暇もなく、ナオミはカードキーを手に取ると、再び穂乃果の腰をぐいと引き寄せた。
エレベーターホールまでの短い廊下は、足音を完全に消し去るほどふかふかの絨毯が敷かれ、照明はわざとらしいほど落とされている。
ナオミは一体どういうつもりで此処に来たのだろうか? 本当に、雨宿りして冷えた体を温めるだけ? それとも――……?