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Side 赤
次第にホームに並ぶ人が増えてきた。俺たちも立ち上がり、その列に加わる。
やがて後続の電車がやってきた。ホームにかかる屋根から出るとき、降る雨がスーツの肩をわずかに濡らす。
優先座席は一つだけ空いている。俺は「どうぞ」と彼に譲った。
「いや、僕は大丈夫です」
「でもさっき立ってましたし」
そう言うと、彼は「どうも」と微笑んだ。
今しがた俺たちと一緒に乗り込んだ、制服を着た女子高生たちの笑い声が響く。どうやら学校のイケメンの話で盛り上がっているようだ。
「お勤め先まで、歩くの長いですか?」
俺が唐突に問いかけたからか、目の前に座った彼は困惑した顔でうなずく。
「まあ、それなりには…」
俺は鞄の中を探り、底のほうで息を潜めていた折り畳み傘を確認する。そして、持っていたビニール傘のほうを差し出した。
「よかったら使ってください。声を掛けてくれたお礼です」
彼は傘を手に持っていなかった。駅で待っているときも、夕方に止むそうだと伝えると安堵していたから、たぶん持ってきていない。
「そんな…別に何もしてないのに」
「濡れて風邪引いても危ないですから。特に」
彼はこの言葉に微笑した。やはり上品で、優しさに満ちている。
「そうやってわかってくれるのが、何より嬉しいです」
そして傘を受け取った。
「でも…いいんですか? そちらこそ濡れちゃいますよ」
俺は鞄に入れた折り畳み傘をちらりと見せる。「大丈夫です」
「ならよかった。ありがとうございます」
車内にアナウンスが響き、電車が速度を緩めた。足元が揺れ、とっさに吊り革を持つ手に力を込めた。
駅に着くと、多くの人が降りていって、乗ってくる。
誰かどこに向かっているのか、何のために行くのかなんて知る由もない。たかが乗り物だ。乗っている他人は交わらない。
それでも、俺は今日この名前も知らない男性に手を差し伸べてもらった。話をした。
ほんのちょっとだけだけど、「心」が通じ合った。
「お返ししたほうがいいですよね?」
え、と思わず聞き返した。一瞬何のことかわからなかった。
「この傘です」
「いやいや」と顔の前で手を振る。「ただのコンビニの安物です。持って帰っちゃってください」
「でも…」と彼はつぶやく。「じゃあ、お名前教えてください。もし次どこかで会ったら、お礼を言いたいですから。僕はキョウモトタイガです」
突然に判明した彼の名前に、俺は少し驚く。
珍しい名字だから、すぐに記憶の中に入り込む。でもどんな字を書くのだろうか。
「僕、ジェシーっていいます。カタカナでジェシー」
「そうなんですね」
キョウモトさんは明るい笑顔になった。それにつられて頬が緩む。
「あ、行かなきゃ。じゃあ僕はここで」
着いたのは品川だった。彼の職場はここだろうか。
「ありがとうございました。…キョウモトさん」
ドアをくぐる前に振り返り、
「またどこかで」
そう言って笑った。
ふと窓の外に向けた視線を上げると、雨降る東京のオフィス街は幻想的に白く煙っていた。