Side 桃
ふと走行音が近づいてきて、顔を上げる。いつの間にか電車が来ていた。
前の人に続いて乗り込むと、彼が「どうぞ」と振り返る。その手の先には優先座席。
「いや、僕は大丈夫です」
首を振ったけど、
「でも、さっき立ってましたし」
優しい彼に少しだけ甘えることにして、「どうも」と席に座った。
さっきよりわずかに雨音が小さくなった。でも彼の高い肩越しに見える窓には、流れる雫が跡をつくっている。
「お勤め先まで、歩くの長いですか?」
ふいに彼が訊いてくる。目を瞬かせて、
「まあ、それなりには」とうなずいた。
彼はおもむろに鞄をまさぐってから、手に持っているビニール傘を差し出してきた。
「よかったら使ってください。声をかけてくれたお礼です」
俺が傘を持っていないということに気づいてくれたんだろう。あまりにも図星で、逆にびっくりする。
「そんな、別に何もしてないのに」
辞そうとしたけど、彼は微笑んでいる。
「濡れて風邪引いても危ないですから。特に」
確かに、俺は、いやどちらも風邪なんか引いちゃったらもうほぼ病院行きだ。これまでも何度かこじらせて肺炎になったことがある。
だからその気遣いは、心に真っ直ぐ届く。
「そうやってわかってくれるのが、何より嬉しいです」
そう言ってありがたく受け取ったけど、彼のほうこそ心配だ。
「でも…いいんですか? そちらこそ濡れちゃいますよ」
すると、彼は鞄の中から折り畳み傘をのぞかせて「大丈夫です」と言う。ああ、それなら安心だ。
「ならよかった。ありがとうございます」
ふいに電車がゆっくりになった。駅につき、乗っていた人が出ていって、入れ替わりにまた乗ってくる。
杖をついた高齢の人がゆっくりと乗車してきた。俺は代わろうかと思ったけど、ほかの席に座っていた若い人が立ち上がって場所を譲る。
俺は視線を前に戻す。目の前に立つ彼のしわのない綺麗なスーツからは、白く細い手がのぞいている。
俺と同じような手。快適な環境を強いられ、守られてきた手だ。
そんなことを考えて視線を落とすと、受け取ったばかりの傘に目が留まる。彼のものを、今持っている。
「お返ししたほうがいいですよね?」
彼は、え、とつぶやいた。
「この傘です」
いやいや、と彼は言う。「ただのコンビニの安物です。持って帰っちゃってください」
「でも…」
そうは言っても、これは俺の所有物じゃない。だけど彼は、にこやかに笑う。いいんですよ、とでも言うように柔らかく。
「じゃあ、お名前教えてください。もし次どこかで会ったら、お礼を言いたいですから。僕は京本大我です」
彼はちょっとびっくりしたように目を見開く。
「僕…ジェシーっていいます。カタカナでジェシー」
「そうなんですね」
最初から感じていた爽やかなハンサムさは、どうやら外国の血のようだった。
すると、「次は品川に止まります」というアナウンスが耳に届く。
「あ、行かなきゃ。じゃあ僕はここで」
立ち上がって、ジェシーさんに会釈する。彼は出張にどこまで行くのだろうか。
「ありがとうございました」
その声に、俺は振り返る。
「またどこかで。…ジェシーさん」
電車から降り立ち、改札を抜けるともらった真っ透明な傘を開く。
五月雨とビル街の匂いを吸い込む。苦しさはもうない。
躍るような雨音の中、また電車が走り抜けていく音がした。
終わり