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「お前、何照れてんの」
対して凪は、眉をひそめた。整った顔をしてる、肉体美でもあると散々褒めてやったのに、なにを今更照れることがあるのだと不思議でならなかった。
「いや、まさかこのタイミングで言われるとは……」
口元を手で覆って言う千紘に片眉を上げた凪は「ふーん。褒められ慣れてそうなお前でも照れたりすんのな」と言った。
「え? 好きな人に褒められたら普通照れない?」
「ああ……うん、そうかも。って、お前ここ店内……」
凪は呆れたように言う。自然に会話していたが、ここは千紘の職場であり、2人はあくまでも美容師と客なのだ。
それなのに好きだのデートの約束だの、褒められて赤面だの、周りのスタッフや客から見たらおかしな光景である。
凪自身も数ヶ月前には顔見知りであったことすら隠したかったし、ドライヤーの音に頼って会話をしたことも、声をひそめたこともあったというのに、今自然と千紘と会話をしていることに驚いた。
「もう他のスタッフも俺たち仲良しだって知ってるもん」
千紘は眉を下げて目を潤ませて、子犬のような顔で凪を見た。たった今、赤面していたかと思うとすぐにコロッと表情が変わる。
「仲良しってなんだよ。仲良くなんかないだろ」
「えー、さっきアシスタントの子に仲良しですねって言われたよ」
「誰だよ、そのアシスタント。どうしたら仲良く見えるんだよ」
「まあ、特別扱いしてるしね」
「特別扱い? ……成田ブースに入れないとか?」
凪は、ははっと笑う。凪が通されるのは、いつも米山が担当していた時と同じ千紘の客以外が使用している席と同じだ。
凪は一度も成田ブースに入ったことがなかった。
「成田ブースって言うのやめてよね。俺、その呼び方好きじゃないんだから」
「でも他のスタッフは皆そう呼んでる」
「そうね……」
千紘がうーん、と考えながら前屈みになると凪の耳元で「あそこは俺が芋洗い式にカットするのを他のお客さんに見せないためにあるんだ」と冗談ぽく言えば、凪はおかしそうにぶはっと吹き出した。
翌日、凪は待ち合わせ場所で千紘から連絡が来るのを待っていた。あんなに頑なに教えなかった連絡先も、お互いのスマートフォンの中に入っている。
DMができないようにアカウントはブロックして削除してしまったし、店に迎えに行くのは嫌だった。一度千紘との待ち合わせ前に客から延長を迫られて遅刻したことがあった。
今日は延長できないと言ってあったのだが、金を払うのは自分なのだからと駄々をこねられ30分だけ許した。しかし、いつまで経っても服を着ようとせず、ホテル代の会計も渋ってなんだかんだ1時間の延長となったのだ。
次の予約が入っていると言っても嫉妬されるし、友達だと言ってもプライベートの女じゃないかと疑われる。実際延長代はしっかり払ってはくれるので、時間さえあればありがたい客なのだが、予定がある時には非常に面倒である。
次が仕事じゃなくてよかったと思いつつも、さすがの凪も千紘のことが気にかかった。いくら嫌いだと騒いでも、長時間待たせるのは気が引けた。
仕方ない、遅れるって連絡しとくか……そう思ってようやく連絡先を消してしまったことを思い出した。ご飯だけ、そう約束して一度連絡先を交換した後、解散する時に千紘にも消させたのだ。調子に乗って必要以上に連絡されるのは迷惑だったからだ。
毎回、会う約束を口頭でした時だけまた教えるようにすれば、手間はあるが普段から連絡されることはないし……と考えていた。
嫌だと渋っていた千紘だったが、また美容院に行くからその時に、なんて話してしょんぼりしながら千紘は凪の連絡先を削除した。
次の約束をし、時間も待ち合わせ場所も決めたものの、連絡先はそのままにしてしまった。
結局30分以上遅刻した凪。千紘は全く連絡も取れないまま大人しく待ち合わせ場所でずっと凪のことを待っていた。
もしかしたらすっぽかされたかもしれない。そう思っても不思議ではない関係性だった。にもかかわらず、千紘は凪のことを信じてずっと待っていた。
そのお詫びもあって再び連絡先を教えた。それからは凪も消すことはなかったし、千紘に消させることもしなかった。
たまに連絡がくることにも慣れてきた。そんな中での今日は、なんだか普段通り友達と待ち合わせしているような平穏な時間に思えた。
凪もきっちり入っていた仕事をこなし、疲労を体に感じながらじっと待つ。こんな時に、千紘を待たせていた事を思い出すなんて、自分があの時の千紘になった気分にでもなったのか? と疑問に思う。
けれどすぐに凪のズボンのポケットで震えるスマートフォン。
『もう着くよー』
たった一言そう届いて、凪はふっと頬を緩めた。待ち合わせ時間ピッタリに届いたメッセージ。数分の遅刻は遅刻にならないか。そんなふうに思いながら、スタンプ1つだけ返した。
「ごめん凪、おまたせ」
すぐに姿を現した千紘は、はあはあと息を切らせていた。
「なに、走ってきたの?」
「うん、待たせたら悪いと思って」
呼吸を整える千紘は苦しそうだ。まあ、遅刻したヤツがのんびり歩いて平然と手を挙げてやってきたら苛立ちはするだろうな、と凪は思う。しかし、以前散々待たせた前科があるため、そんなに急がなくても……と寛容になれた。
「俺、前にすげぇ待たせたし」
「ん? ああ、前ね。俺はいいよ。待つの嫌いじゃないし、待ってる時間もわくわくして楽しいし」
千紘はそう言って本当に楽しそうに笑う。待つのが嫌いな凪にとっては、千紘の言葉は全く理解できなかった。
「……やっぱりお前、変わってんな」
「変わってないって。好きな人と待ち合わせしてたら、どんな時間も楽しいんだよ」
にっこりと笑う千紘を見て、凪は千紘が女性だったらよかったのに……と無意識に思った。26という年齢になった今、無知で無経験なことの方が多かった10代のように素直に気持ちを表現する人間を見ることが少なくなった。
凪自身は昔から警戒心が強く、無闇に他人に心を開くことはなかったが、それでも10代でできた彼女は素直で、嬉しいことも不安も何でも口にするような子が多かった。
それがこの年齢になると、駆け引きだったり、疑惑だったりでお互い心の内を話すことは徐々になくなる。女性も経験を経て賢くなり、疑い深くなる。
嘘でもいいから、千紘のように前向きな言葉を言ってのければ相手は気を悪くしたりはしない。お互いにそれができたらきっと喧嘩はしない。ただ、その配慮を継続することはとても難しくて時にストレスがかかる。
なんでも思ったことを言える間柄などと称して、ただの文句をつらつらと投げ合うことで、関係性に亀裂が生じる。
凪はもうそんな面倒な恋愛などごめんだった。