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「母さん……!」
かすれた声で呼びかけると、男と母がほぼ同時にこちらを振り返った。
「あら、柊吾じゃない」
母がのんびりとした声で、屈託のない笑顔を見せる。助けを求める様子もなく、まるで知人と立ち話でもしていたかのような自然さに、違和感が胸を刺した。
(――なんで、そんなに普通なんだ……)
一方、隣に立つ男の視線が、まっすぐに柊吾を捉える。銀縁の眼鏡の奥にある切れ長の瞳には、街灯の光を反射して、底知れない冷ややかさが揺れていた。
「――朝倉、柊吾さん……ですか?」
心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
全身の血の気が、すっと足元へ引き去っていく。
(――なんで、僕の名前を)
初対面のはずの男が、あまりにも当然のように自分の名前を口にした。背筋に冷汗が吹き出し、柊吾は駆け寄りざまに母を背中に庇うようにして割り込んだ。喉の奥がきゅっと締め付けられ、上手く言葉が出てこない。
「驚かせてすみません。このお母様が『柊吾、柊吾』とお名前を呼びながら、夜道を歩いていらっしゃったので」
淡々とした説明に、強張っていた喉から、ようやく掠れた声が絞り出せた。
「……そう、ですか。ご迷惑をおかけしました」
頭を下げながらも、柊吾の警戒心は完全には解けなかった。名前を呼びながら歩いていたという説明そのものは筋が通っている。だが、目の前のこの男から漂う底知れない雰囲気に、どうしても納得しきれない違和感が残る。
「黒瀬さんがね、傘を貸してくれたのよ」
真理子が無邪気に、男の手にある折り畳み傘を指差した。見れば、母さんの肩だけが不自然に濡れていない。誰かに気遣われた跡が、はっきりと残っていた。
「黒瀬、さん……。ありがとうございます」
礼を言いながらも、柊吾の声には自分でも分かるほどの棘が滲んでいた。素直に感謝できない自分に苛立ちながら、母の手をしっかりと握り直す。
「家の近くまで送りしましょうか。お一人だと、また目を離した隙に何かあると危険ですし」
「結構です」
食い気味に、柊吾は答えた。これ以上、見知らぬ他人に自分の領域へ踏み込まれたくない。これ以上、この惨めで破綻した生活の内側を覗かれたくなかった。
だが男は、柊吾の刺々しい拒絶にも眉一つ動かさず、ただ静かに歩調を合わせて隣に並んだ。強引に押し通すわけではない。だが、退く気配も一切ない。
「認知症の方をご自宅で介護されるのは、大変ですよね」
雨の中を歩き出してすぐ、ぽつりと静かに落とされたその一言に、柊吾の中で何かがぶちりと切れた。
「――あなたに、何がわかるんですか」
思わず、声に刃が乗った。梅雨の雨の中、母を挟んで隣を歩く見知らぬ男に向かって、柊吾は胸の奥から煮えたぎる苛立ちを抑えきれなかった。
「何も知らないくせに、簡単に言わないでください」
口にしてしまってから、頭の隅で(大人げない)と自嘲する自分がいた。だが止まらなかった。今日一日、いや、声と歌を失ったこの四年間ずっと一人で押し殺してきたドロドロとした孤独と絶望が、見知らぬ他人の何気ない一言で決壊しかけている。
重い沈黙が落ちる。暗い路地に、ポツポツと傘を打つ雨音だけが、やけに大きく耳の奥に響いた。
「――そうですね。すみません」
しばらくして、男が静かに口を開いた。振り返ると、その表情には、先ほどまでの完璧な微笑みとは違う、どこか寂しげな苦笑いが浮かんでいた。
「わかりますよ、というのは……俺の驕った言い方でした。ただ、少しだけ、覚えがあったものですから」
「……覚え?」
「昔、祖母の介護で、母がどんどん疲れて、苦しんでいくのを見ていました。何をしてやればいいのか分からなくて……。結局、僕は最後まで何もしてやれなかった」
声のトーンが、わずかに低く落ちた。独り言のように、静かに。
「知識さえあれば、母を助けられたかもしれない。ずっと、そう思っています」
その一言に、柊吾の中の尖りきっていた刃がふっと音を立てて鈍った。
(――え)
思いがけない返答に、柊吾は思わず男の横顔を見つめてしまう。濡れた前髪の下、眼鏡の奥の切れ長の目が、どこか遠い過去を見つめているようだった。作り物めいた完璧さの中に、初めて滲んだ本物めいた翳り。
(――この人も、同じような無力感を、知っている……のか……?)
強がりで塗り固めていた警戒の壁に、小さな罅が入っていくのを、柊吾は自分でも認めたくないまま感じていた。
そあふぃー
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コメント
1件
いやもう柊吾くんのピリピリした警戒心と黒瀬さんの静かな圧、どっちもめっちゃ伝わってきたよ…!「あなたに何がわかるんですか」って言い返すシーン、胸がギュッてなった。でも黒瀬さんの「覚えがあった」って返し、あれで一気に空気変わったよね。完璧そうな人の中にも闇があるんだなって思うと、これからどうなるのか気になりすぎる😭💦