テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
どこか居心地の悪い沈黙のまま、三人は雨の中を歩き続けた。角を二つ曲がり、見慣れたアパートの外階段が見えてくる頃には、雨脚は少し弱まっていた。
「ここでいいです。……送っていただいて、ありがとうございました」
柊吾は敷地に入る手前で足を止め、深々と頭を下げた。これで終わりにしたい。これ以上、この得体の知れない男と関わりたくない。そう思っていたのに――。
「あら柊吾、お茶でも飲んでいってもらったら? こんな雨の中、傘まで貸してもらったのに。お礼もしないなんて失礼じゃない?」
母が屈託なく提案してくる。柊吾は慌てて母と瑞樹の間に入るように手を出した。
「母さん、もう夜遅いんだから。黒瀬さんにも迷惑がかかるよ」
必死に理由をつけて断り、早くこの場を終わらせようとした、その時だった。
「――そうですね。では、お言葉に甘えて……少しだけ、お邪魔してもいいでしょうか」
「え……」
拒絶されると思っていた黒瀬から返ってきたのは、爽やかで丁寧な、けれどどこか断らせない響きを持った承諾だった。
「そうよ、そうよ! 遠慮なんてしないで上がっていって。ね、いいでしょう?」
母が手放しで歓迎するように黒瀬の背中を促し、柊吾に笑顔を向ける。
とてもじゃないが、ダメだと言える空気でもなく、柊吾は「……じゃあ、こちらです」と小さく案内するほかなかった。
(――なんで、こんな流れに……)
自分の判断力のなさに歯噛みしながら、柊吾は玄関の鍵を開けた。狭い部屋のどんよりとした空気が廊下に漏れ出す。惨めさと恥ずかしさで頬が熱くなるのを感じながら、柊吾は先に立って中へと足を踏み入れた。
「黒瀬さん、ゆっくりしていってね」
そう言いながらキッチンへと向かう母は、どこか楽しそうで嬉しそうだった。
柊吾は複雑な胸中を隠しきれないまま引きつった笑みを浮かべ、仕方なく黒瀬を居間へと案内した。
「へぇ、ここには昔から住んでるんですか?」
「あ、いえ。四年くらい前に引っ越してきたんです。ちょっと、色々とありまして……」
適当に言葉を濁しながら、雑然とした室内へ足を踏み入れた――その直後だった。
柊吾の全身の毛穴という毛穴が一斉に開いた。
万年床の端、畳の目立つ場所に、それは転がっていた。
母を探しに飛び出す直前、焦りのあまり乱暴に放り投げた、大人用のマッサージ器――平たく言えばバイブだ。
(あ、アホか僕はーーーッ!!?!)
血の気が引くどころか、一瞬で全身の血液が逆流する感覚。
隠すことすら忘れていた自分の失態に、心臓が爆発しそうになる。
「えっと……これって……」
黒瀬の視線が、スーッと床の一点に向かって落ちていく。
その眼鏡の奥の目が、疑惑と困惑でわずかに見開かれかけた――次の瞬間。
柊吾の身体が弾けた。
「なっ、なっ! 何でもありませんッ!!」
思考を置き去りにした光速の立ち回り。黒瀬の視線が届くより速く、残像すら残りそうな勢いで床の物体を引っつかむと、背後の自室のドアを力任せに開け放ち、闇に向かって腕を振りかぶった。
――ヴォォンッ!!
弾丸のような速度で飛んで行ったそれは、奥の壁に激突して虚しく転がった。すかさず親の敵のような勢いでバシャンッとドアを叩きつける。
「………………」
静寂。
荒い息を吐きながら、柊吾は固まったまま黒瀬の方を振り返った。
黒瀬は差し伸べかけた手の形のまま硬直し、しばし絶句したあと、引きつった完璧な笑みを浮かべた。
「……あ、素晴らしい反応速度ですね」
「……っ、す、すみません、部屋が散らかってて……!」
顔から火が出そうなどころか全焼する勢いで、柊吾はただただ小さく縮こまるしかなかった。
コメント
1件
あらら、柊吾くんのピンチが痛いほど伝わってきました😂 特にあの♡♡♡隠しのシーン、「ヴォォンッ!!」の効果音と黒瀬さんの「素晴らしい反応速度ですね」が絶妙すぎて笑っちゃいました。でも、その裏で柊吾くんの居心地の悪さや母さんの無邪気さが不気味で…。このほの暗い空気感、かんなさんらしいなって思います。続きがすごく気になる!
そあふぃー
494
28