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横に広いテーブルの反対側半分が鉄板であり、向こう側にいるシェフが小気味よい音を立ててターナーでプライドガーリックを作る。煙があがり、食欲をそそる。見ているだけでよだれが出てくる。
真正面で見ている詠史は、完全に見入っている。詠史を挟んで反対側に座る広岡さんも、釘付けの様子。ふたりとも身を乗り出して見入っているさまがなんだか親子のようで微笑ましい。
週末を迎え、三人で鉄板焼きのお店にやってきた。ここは、横浜のホテルの高層階にあるお店で、以前、知人の結婚式の帰りに同じフロアのバーに立ち寄ったことがきっかけで知って、料理も美味しく、星を散りばめたような夜景が綺麗で、親子揃ってお気に入りのお店となった。瀟洒なシャンデリアが輝くラグジュアリーな空間はいるだけで幸せになれる。
千葉から横浜は決して近くはないが、いまは、京浜東北線や横須賀線もあるし、一時間程度で行ける。詠史のお誕生日など、スペシャルイベントの際に連れて行くお店だ。
手際よくシェフが一旦ガーリックを避けると今度は肉を焼く。じゅうう、といかにも食欲を煽る音が響き、視覚でも聴覚でも癒やされている。美味しい香りと煙が立ち上り、カウンターの向こうにいるシェフはまるでマジシャンだ。
……広岡さんも、気に入ってくれるといいな……。ママなのに。まだ離婚できていないのに、そんなことを思うなんていけないんだよね。分かっている……けども。
夫はわたしが苦しんでいる時期に、浮気を重ねた。確たる証拠はないが、これから集めようとしているさなかだ。わたしがいま、隙を見せればやつは乗るはず。
だってわたしが妊娠中も、産後鬱になったときも、果てにはわたしがコロナ鬱になったときでさえも、わたしのことを労ってくれなかった。その罪は重いし、許すつもりもない。立派な、離婚の材料となりうる。
幸いにしてわたしは苦しみながらも当時夫にされた数々の仕打ちを日記につけているし、それらも証拠とはなりうる。
さてせっかく鉄板焼きの高級店に来て考えることがこれなのかと。なんだか切ない気持ちになる。あの男や一族から自由にならない限り、一生わたしは鷹取に縛られて生きていくのだ。詠史を連れて、かつ、事前に夫に伝えて彼が拒否したので浮気には認定されないだろうが、……にしても、夫は結婚して以来、わたしのことを奴隷のように扱ってきた。まぁ、水萌たちの話を聞く限りは、そうした扱いは珍しいものではないらしいが。
兼業主婦なのに毎朝わたしが弁当を作っていたし。家事はすべてわたし。出産して退院したときには家がゴミ屋敷のようになって唖然とした。手伝いに来た義母は、あらあらともちゃんたらやぁねえ、と笑っていて、片付けることもなく、スルーした。勿論わたしに対しては一言もない。
……ああ、いやだ。
こんな素敵なところに来てまで忌まわしいことを思い返すのか。結婚とは、地獄だ。もし……。
結婚した相手が、才我さんだったならば。こんな苦しみを味わわずに済んだのだろうか。
「ママ見て。美味しそうー」
息子の声ではっと我にかえる。潮の香りがするなと思ったら、ちょうどシェフが伊勢海老を調理しているところだった。縦半分に切られた伊勢海老の身がまっしろで目に眩しい。食欲をそそる。
それからシェフはガーリックライスを調理し(ガーリックライスも詠史のお気に入りだ)、みんなでお食事となった。
* * *
「マイクラかぁ。懐かしいねえ」と目を細める才我さん。「ぼくがちょうど社会人になりたてくらいの頃に流行ったなぁ」
マイクラを知っているのが意外だった。わたしは、息子の詠史がハマるまで知らなかった。
マイクラとは、マインクラフトというゲームの略だ。元々はパソコンゲームだったらしい。いまは、スマホでも出来るが、パソコン版だとMODという、キャラクターとかをインストール出来る機能もあって。詠史の誕生日に買ってあげた。……わたしの財布からだけれどね。
「鷹取さんは、マイクラはするの?」
「いえわたしは全然……」と美味しいステーキ肉を咀嚼して、「操作が難しくって。まったく出来ないんです。何回かトライしましたが、くるくる回転して酔ってしまって。何度海でおぼれたことか……」
「ははは。そっか」才我さんになら笑われてもいやじゃない。それどころか、そんな素敵な笑顔を向けられて胸がきゅん……としてしまうの。ディープキスを交わしたのはつい先週のこと。「一緒にプレイするお友達はいるの?」
「何人か」
「詠史くん、伊勢海老好きなの?」
「今日は特別です」とわたしは片目を瞑って見せた。「普段は手が出せませんが。……でも、なかなか行けないお店ですから」
「そんな大切な場所に呼んでくださりありがとうございます」気取ったお辞儀をする才我さん。彼も、ウィンクをしてきた。「詠史くんさえよかったら、またこのお店に来よう。今度はおじさんが奢るから」
「やったぁ」
「こら詠史。本当にもう……」
「ねえ母さん。足はもう大丈夫なの?」食事をしながらもまっすぐに詠史が見てくる。わたしは微笑み、全然大丈夫、と答えた。
「詠史は歯磨きも済ませて待っていてくれたんだよね。……改めまして。広岡さん。本当に、ありがとうございました」
「いや、ぼくが見つけなくとも、中島さんや山崎さんが見つけてくれていたさ。怪我が軽かったのが不幸中の幸いかな」
わたしは、まだ、誰がわたしに嘘をついたのかを、誰にも言っていない。ある意味、これは切り札になると思ったのだ。
《《彼女》》は、わたしを行方不明にさせたかった。才我さんの言う通りなら、仕掛けたのはあのひとなのかもしれない。
そしてあのひとが、……ひょっとしたら、夫の浮気に関係しているかもしれない。そんな偶然などありえるのか? しかし、わたしが水面下で準備したこのタイミングで罠を仕掛けるとは。偶然とは思えない。
なので、ある程度泳がせて、様子見をすることにした。才我さんには悪いが、彼に近づいて、《《彼女》》がどう動くのかも、見ものだ。
先週のキャンプで、詠史は、丘の上には行っていないと言う。これは後から本人に確認した。
ならば、彼女が嘘をついたということだ。果たしてそんなことをしてあのひとにどんなメリットがあるというのか。念のため、あのひとのSNSをチェックし、わたしと関わった人間に繋がりはないのか。調べている途中である。
あのひとはSNSが大好き。自分も大好きなのだろう。結構頻繁に投稿していて、別に、興味も憧れもない相手の得意げなSNSを毎日チェックするのは苦痛でもあるが。ここは動かねば仕方あるまい。
表面上は楽しく食事をしつつ。執念深い別のわたしが、思考を巡らせていた。
* * *
「わぁ。綺麗。ねえ母さん、あっち見てきていい?」
疑うことのない息子の無邪気な姿を見ていると罪悪の念に駆られる。笑顔で行ってらっしゃい、と告げる。
走らないの、と言ったらやや早足で詠史は、展望台の広い窓に貼り付くようにして夜景を眺めている。ここまで来るのは、……長かった……。
本当は、夫の浮気が怪しいと思えた時点で動きたかったのだが。産後鬱もひどく、とてもそんな余裕などなかった。育休を終えて職場復帰をしたらしたで、毎日が目まぐるしく、なにか調べる余裕などとてもなかったから。夜泣きもあって頻回授乳でもうヘトヘトだった。
小学三年生になった辺りで詠史がひとりでお留守番出来るようになった。鍵やケータイを紛失することもなくなり、また、わたしのコロナ鬱も回復に向かっていたから、徐々に、仕事を探すなど、将来のことを考え始めた。
一時は起き上がることさえ困難で、本当に、どうなるものかと思ったけれど。無事に、ほぼフルタイムの仕事に戻れ、普通の主婦として生活が出来るようになり。……ひょっとしたら、わたしの人生はもっと選択肢が豊富なのではないか、と思い始めた。
鷹取と結婚していても、詠史は虐げられる。父親は育児に不参加。わたしは鷹取の家でいびられる。
ならば、結婚している意味自体がないのではないか?
ここちよくカンパニーに入っていろんな人間を見てきて視野が広がった気がする。男女問わず、独身者も珍しくはないし、なにをあんなに結婚にこだわっていたのかと、以前の自分の焦りが愚かしくさえ思えてくる。
結婚という病魔に。
してみて初めて分かることはある。過去の自分を悔いてはいない。しかし、前向きに将来のことを考えてみると、自分で稼ぐ能力をほぼ得られたいまとなっては。鷹取に拘る必要はない。
離婚はライフステージにおける高ストレスの要素として知られてはいる。だが……。果たして、鷹取の一族にいいようにいたぶられているいまの状況がよいと思えるのか? 詠史の発言を振り返るに、答えは瞭然だ。
ならば。……準備を。
勇気を持って香車を前に進めよう。後戻りは出来ないが、後悔なんかしていない。
わたしの人生は誰のものでもない、わたしの人生。
仮に犠牲にすることがあったとしたら、ただひとりのため。愛する我が子を。我が子に害を与える存在を絶対に看過できない。
「有香子ちゃん。……色々考えているようだけれど、あまり、思い詰めないようにね」わたしのこころを読んだかのように、才我さんは言う。「どんなことがあっても。ぼくは、詠史くんときみの味方だから。
色々落ち着いたら、ぼくとのことを、真剣に考えてみて欲しい」
「分かった」と頷いたわたしは、
「決戦はクリスマスイヴ。……それまで、色々と証拠を集めたい。それから、新しい住居探しも」
「いきなりぼくのところに転がり込むのはまずいか」先手必勝。先を読んで、あなたは言う。「詠史くんは? 引っ越すのなら、……S区はいいところだよ。治安もよいし、公立学校も学力が高い。……あの蒔田一臣も住んでいるし、ついでにぼくも」
「そうだね。考えてみる。
……今度、午後半取って街を見てみようと思うわ。あなたってちとふなが近くだっけ?」
ナチュラルに、恋人同士のように話せている。そのことに満足を覚える。
「ああ。なんなら、……案内するよ」
わたしはあなたの目を見た。やはり、ある感情が光っているように思えた。
「……一人にするわ。せっかくの魅力的なご提案だけど、ごめんなさい」とわたしは謝った。「まだ、不必要に、つけいる隙を与えたくはないから」
「分かった。……決戦の舞台にぼくの協力と出席は必要?」
すべてを見透かしたかのようなあなたの提案に満足気にわたしは微笑み、
「ええ。お願い致します」
かくして駒を前へと進めた。
*