【第1話・保温①】
彼女の目の前には渦を巻く黒い煙と燃えさかる激しい炎が立っている。
その様子は黒い獣と赤い獣が互いに食い合っているようだ。
しかしその二頭の獣はどちらかが倒れることも減ることもなく巨大化するばかりだった。
皮膚に熱風が当たりちりちりと焼ける感覚があった。
辺りには火に煽られた熱風とともに血の匂いが漂っていた。
「どうしてこんなことになっちゃったの……」
絞り出した乾ききった呟きは、熱風に掻き消された。
◆◇◆
——3ヶ月前——
高校の授業の後、「バイト」を終えた葛城莉乃は一人で家路についていた。
沈みかけた夕焼けがやけに鬱陶しく感じる。
長く伸びた影が見える。
目の前から歩いてきたのは老人だった。
たっぷりとしたロングコートを羽織っていた。
身なりからしてこの辺りに寝泊まりしているホームレスではないのが分かる。
「どうしたそこの君?酷く元気のない顔をしてる。何か悩みでもあるのかい?」
目が合っていきなり老人がそんなことを言うので莉乃は思わず小さく頷いてしまった。
(お爺さんに心配されるなんて、私どんな顔して歩いてたんだろう)
莉乃は心の中で自分を嘲笑った。
「悩みがあるなら君に近しい人に相談してみるといい、友人や家族、誰かに正直に悩みを打ち明けるんだ」
老人は黄色く濁った歯を見せて微笑んだ。
「相談できる相手がいれば悩みがなくなるものではないですよね」
「それに、私の悩みの種は家族のことなんです……」
「家族が悩み?それは難儀なことだ」
老人の深い皺はそれ自体が何かの幾何学模様に見えた。
「ならば君にも心の拠り所が必要だろう。これをやろう」
老人が手渡してきたのは、鶏の卵よりも少し大きな『卵』に見える。
「それ何ですか……卵?」
「これは君を支える君だけのペットになる『卵』だ。どんなペットが生まれて来るかはお楽しみ」
ペット。そう言われて莉乃の心が動いた。
「私だけのペット……何が生まれるか教えてくれないんですか?」
「秘密だ。これでしばらく人生に楽しみが増えるじゃろう?」
彼女は一からペットを育てたことなんて一度もない。と言うよりもペット自体を飼ったことがなかった。
「必要なら受け取って大事に育ててみるんだ。きっと君にとって欠かせない存在になる」
莉乃は自然に手を出して『卵』を受け取った。
温かくて思ったよりも少しだけ重たい。
生命がその中にあるのを感じ取れた。
「ありがとう……ございます」
莉乃は両手で卵を大事そうに持ちながら頭を下げた。
「礼などいらんよ。君の悩みが消えるなら私は嬉しい」
老人はその場から闇に溶けるように消えていった。
両手でその卵を持っているだけで何だか心が落ち着いていくのを莉乃は確かに感じていた。
◆◇◆
「リノ起きなさい!ご飯できたよ!」
いつもの母の声で莉乃は起こされた。
莉乃の母、綾乃は、毎朝必ず朝食を作る。
莉乃は朝食を摂らないのにだ。
いや、莉乃は朝食だけではなく昼も夜も母が作る料理を食べなかった。
拒食症や小食というわけではない。
母が外出して家にいないときは自分で作って食べた。
とにかく莉乃は母が作った料理を口にしない。
それに半年以上、まともに会話をしていない。
それなのに母は健気にも毎朝、毎食、莉乃のために食事を作る。
気持ちが悪い。
これが莉乃の正直な気持ちだった。
二階の自分の部屋から一階のリビングへ降りると、中学二年生の弟、英人が先に朝食を食べていた。
すでにしっかりと身仕度を整えている。
英人は頭脳明晰で全国でもトップクラスの有名私立中学に通っていた。
性格も明るく穏やか。
少し捻くれた性格の莉乃とは全く違う。
中学一年の後半、一時不登校になったが現在は学校にしっかりと通っている。
成績は常にトップをキープしている。
学校の成績が普通以下の莉乃にとって誇らしい弟だった。
「姉ちゃん今日も朝ご飯食べないの?」
「朝食べないと頭に栄養いかなくて脳が働かないよ、あと身体の発育にも悪いらしいし」
まだ眠気が残っている莉乃を軽口で刺激する。
「うるさいな。あんた最近少し生意気だよ」
「はいはい。ごめんごめん」
莉乃はそのまま出掛けようと思ったが、英人に頼みがあることを思い出した。
もちろん昨夜、老人から受け取った『卵』の件だ。
「英人、今日学校終わったらすぐに帰って来て。ちょっと話しがあるから」
「珍しいね、いつも帰りの遅い姉ちゃんが僕に早く帰って来いだなんて」
「ありがと 何かあったら連絡して」
それだけ言って莉乃は靴を履いた。
「莉乃いってらっしゃい!車に気をつけるのよ!」
母の耳障りな声を掻き消すように強く玄関のドアを閉める。
五月の終わり、重い湿度が身体にしがみつく。
梅雨の始まりだ。
莉乃は家の門と玄関の間をバカみたいに遅い速度で移動していたカタツムリを、右足で踏み潰した。
「ペリ」っと、気色の悪い音がした。
「あぁ、今日の授業が早く終わって欲しいな……」
莉乃は学生鞄をじっと見つめる。
ハンドタオルに包み、中に入れた『卵』のことを想像する。
莉乃はすでにあの『卵』のことで頭がいっぱいになっていた。
莉乃は駅までの道のりを早足で歩く。
彼女が母と口をきかなくなったのには理由があった。
約一年前、葛城家は最悪の状態に陥った。
ある日突然、弟の英人が不登校になった。
理由は不明だった。
莉乃と英人は年が二つしか離れておらず仲も良い。
特に心の距離感もなかった。だからこそ不思議だった。
イジメが原因かと思い、莉乃は英人に聞いたが答えはNOだった。
だが、莉乃にはもう一つ考えられる理由があった。
その理由とは有名私立中学に入ったためのストレス。
不登校になる前の英人はかなりナイーブになっていたのを莉乃は知っていた。
結果的に英人は学校に無事復帰したが、彼が不登校の期間に、父親の貴臣が失踪して行方不明になった。
大好きで仲の良かった父親が突然いなくなってしまった。
何らかの事件や事故に巻き込まれた可能性もあるので、警察に捜索願も出したが、手掛かりは得られなかった。
警察の調べでは、父親の貴臣には仕事でもプライベートもトラブルもなく、借金も女性の影もなかった。
母の綾乃は、息子の不登校と夫の謎の失踪で精神的におかしくなった。
綾乃は現実から逃げるように数ヶ月の間、自分の部屋に引きこもった。
その間、英人の世話は莉乃がしていた。
母はしばらくしてなんとか精神状態を以前のように戻すことができた。
同時期に英人も学校に行くようになった。
英人は久しぶりに学校へ行く日「僕もしっかりしなきゃ」と言ったので、安心した莉乃は英人の前で少し泣いた。
だが問題があった。
莉乃は大事なときに無気力だった母を許すことができなかった。
父親の失踪は、もしかしたら母に何か理由があるのではないかとも思っていた。
母の不貞や借金だったり子供が知らない秘密がそこにある気がした。
理由は父親が失踪したとき、母は動揺もしておらず悲しそうでもなかったからだ。
ただ呆然としているだけだった。
警察の質問にも答えず、莉乃や英人ともコミュニケーションを取ることも拒否していたように見えた。
莉乃はそんな母に強い不信感を抱いた。
大好きな父がいなくなったのはきっと母に理由がある。
莉乃はそんな考えを捨てきれず、気づけば母と全く口をきかなくなっていた。
だが、そんな莉乃に母は必ず優しい言葉をかけてくる。
莉乃はその行為に無性にイラついた。
「高校を卒業して早く家を出たい」
毎日そんなことを考えていた。
◆◇◆
学校の授業はいつにも増して頭に入ってこなかった。
父親がいなくなった当時、警察の調べでは「事件に巻き込まれたとは考えにくい」ということだった。
つまりは家族を捨て何処かへ消えてしまった可能性が高いと言われてしまった。
「莉乃!今からカラオケ行かない?」
声をかけてきたのは福原優斗。
莉乃が密かに思いを寄せているクラスメイトだった。
優斗の方も、莉乃に好意を寄せている気がする。
が、莉乃は彼の気持ちを確かめたことはない。
「ごめん。今日は早く家に帰らなきゃだから」
「マジか~!この前は誘った時はバイトだったし今日は家の用事か」
「仕方ないの、うちの家の事情知っているでしょ?」
「ちぇッ。それは分かっているけどさ」
優斗は莉乃の父親がいなくなったのを知っている。
優斗だけではなくクラスや同じ学年の子達も知っていた。
中学校での同級生も何人かいるのでその子達が話を拡散したのだろう。
最初はいろんな人が心配して声をかけてくれたが、時間が経つにつれほとんど忘れられた。
優斗は莉乃が母と不仲なのを知らない。
「もしかしてデートの約束?」
莉乃と優斗の間に入ってきたのは、小学生からの親友の瀧川可奈子だった。
明るく可愛くて昔から学校の人気者。
父親が失踪したときも私のことを一番親身になって支えてくれたのも彼女だった。
「今日は私に予定があります。まっすぐ家に帰ります!」
「だってさ」
優斗が学生鞄を持った。
「優斗落ち込んでるの?そんなにリノのことが気になる?」
「おい、可奈子からかうなよ!」
「別に本当のことだからいいじゃん!」
可奈子の言葉に照れる優斗の表情が嬉しかった。
最寄りの駅まで三人一緒に帰ることにした。
夕方の商店街は人の数が多い。
前から自転車で二人乗りしている中学生が来た。
莉乃は先に横を避けたがハンドル操作を誤ったのか、バランスを崩したその自転車が軽く彼女の学生鞄にぶつかった。
「ちょっとっ!気をつけて!」
「あ、すいません……」
「二人乗りするのは勝手だけどちゃんと前見て運転して!」
怒鳴る私を見て優斗と可奈子は驚いた表情をしていた。
「ちょっとぶつかっただけじゃん!」
「やなオンナー!」
遠ざかりながら莉乃に文句を言う中学生の声が耳に入ってきた。嫌な気分だった。
「どうしたのよリノ、大声出して。結構強くぶつかったの?」
「そんな怒らなくてもなぁ?確かにあのガキ達が悪いけどよ」
普段の莉乃であれば全く気にしなかっただろう。
だが今日は違う。
学生鞄の中にはあの『卵』が入っている。
不注意で割られたらたまらない。
「ご、ごめん……何か思わず怒鳴っちゃった」
「そうなの?優斗、リノ怒ると怖いぞー!もしも付き合ったら絶対に浮気しない方がいいよ」
「うん、確かに怖そうだ」
駅に到着し莉乃たちは別れた。
揺れる電車の中では鞄を抱いていた。
車窓から見える斜陽が眩しかったので目を閉じて少し眠ることにした。
もしかしたら、うたた寝で父さんに会えるかもしれないと考えながら。
◆◇◆
家に着いた。
玄関を開ける。母の靴はない。
母は薬剤師のパートをしているのでこの時間は家にいない。
英人の靴があった。
英人の革靴には汚れ一つついていない。英人はいつかこんなことを言っていた。
「全員が勉強ができる学校に行っていると勉強以外のところにも気を配る必要があるんだ、身嗜みとか、挨拶とかさ」
莉乃は考えもなしに「何で?」と聞いた。
「だってテストは100点以上取れないんだ。全員が100点取ったらどうやって優劣をつけるの?難しいよね?だから先生に分かりやすい評価基準を足してやるんだ。そうすれば100点同士でも相手に勝てる」
「なんか生意気、それにそんなの楽しい?」
「楽しいわけないじゃん、でも負けないためにはそれが必要なの」
これを聞いて生まれて初めて莉乃は自分がたいして頭が良くなくて良かったと思った。
英人の部屋の前に着いた。軽くノックする。
「英人いる?」
「いるよ、カギ開いてる」
扉を開けると英人は勉強机に向かっていた。
「話って何?」
「勉強してたの?またテスト?あんたの通っている学校って本当にテストばっかりね」
「中二になってまで中学校のテスト勉強はしないよ、うちの高校の三年生レベルの問題をしているの」
「ふーん、そう。あんた随分偉そうね?」
「偉くはない、ただの中学生。ただ頭がもの凄くいいだけ」
「ぷっ!なにそれ!」
「ぷっ!ふははは!」
莉乃は英人が好きだった。
可愛い弟で今となっては唯一心が許せる家族。
生意気なのも莉乃の前だけで、外では頭が良いだけの普通の男の子。
だからこそ莉乃は英人に相談したかった。
(私だけではきっと『卵』を育てられない。英人の力を借りないと……)
◆◇◆
「姉ちゃん何それ、卵だよね?」
莉乃は学生鞄からハンドタオルに包んだ卵を取り出した。
薄茶色の殻に大小の斑点が特徴的で一般的な鶏の卵よりも一回り大きい。
英人は卵を見て深いため息をついた。
「朝から嫌な予感がしてたんだ」
「お姉ちゃんが僕に相談ってことは……もしかして、それ育てる気?」
「うん!」
莉乃は満面の笑顔を弟に見せた。
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