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照り注ぐ日差しに、電車から降りるや否や、颯希は思わず「暑!」と声をあげた。縷籟警軍の黒くて分厚い制服なんて着ていられず、ベルトを外して脱ごうとする颯希を見て、夕が笑う。
「ベルゼ、相変わらず地獄の暑さしてるね〜。」
13ある国のうちの10番目、ベルゼ共和国。時期によって気温が変わる縷籟とは違い、1年を通して非常に暑い地域だ。雨が頻繁に降るため農作物が育ちやすく、ベルゼ共和国は実際にこの世界の食料をかなり支えている。なくてはならない国であることは間違いない、人間にはとても住めたものではないが。
日光から身を守るため、ベルゼ共和国の国民の殆どは、浅黒い肌をしている。彼らはとても友好的で、どこかの島国のように、他国民に卵を投げることなど決してない。豊かな食料というのは人を、国を、柔らかくするのだ。もちろん今回ベルゼを案内してくれる少女も例外ではなく、颯希と夕を視界に捉えた瞬間、彼女はせかせかとその元に駆け寄った。
「こんにちは!」
可愛らしい少女だった。大きく結った三つ編みを右肩に流し、ぱっちりとした目はキラキラと、2人を興味津々に見つめている。赤い花の髪飾りが、黒い髪と肌によく似合っていた。
「ワタシ、ダニエル・ガブリエル。今日、会う、楽しみ、だったです!よろしく!」
たどたどしい縷籟語も、今ばかりは彼女の可愛さの味方をしている。
緊張している颯希の背中をトンと叩いて、夕がダニエルにお辞儀をした。
「帝王の仰せの下に。ボクは縷籟警軍学校210期特待生、田代 夕といいます。」
「えっあっ、帝王の仰せの下に!213期生の雨宮 颯希です!よろしくね、ダニエルちゃん!」
「うん。よろしく!ユウおねいさん、サツキおねいさん。」
ダニエルは嬉しそうに、颯希の手を取る。
「サツキおねいさん、とても、細い、固い、している。綺麗。」
「ありがとう!私は男だから、女性よりかは細いというか、筋肉はあるかも知れないね。」
「えっ、サツキ、おにいさん?」
目をパチパチさせながら颯希の顔を見つめるダニエルに、2人はクスッと笑った。
「ボクもおにーさんだよ。」
「えっ。ユウ、おにいさん!?」
「私はともかく、ユウ先輩は女性にしてはがっちりしてるよ。」
「うん。筋肉、ある、思った。2人とも、おにいさん……。」
ダニエルは恥ずかしそうにはにかんだ。そのまま手をぐっと引かれて、彼女が歩き出したので、2人はニコニコ笑いながらついて行く。
簡易な無人駅から出ると、そこは大きな道路だった。この国だけの独特な形の常緑樹が、緑色の大きな実をつけてずらりと並んでいる。建物の日陰から見える日向がやけに眩しく、空気中には無数の小蝿が飛んでいた。胡椒のような香りが湿気た空気に広がって、縷籟に甘やかされた鼻腔をこれでもかと刺激してくる。
ダニエルに手を引かれながら、颯希はその景色に、くらくらした。縷籟の外に出るのは初めてだ。まるで夢のような浮遊感さえ感じる、暑さのせいもあるだろう。自分の中の好奇心を撫でられて、目を輝かさずにはいられなかった。夕は慣れているのか、いつもの表情を崩すことなく、移りゆく色とりどりの売店をざっと眺めている。
「ユウおにいさん、サツキおにいさん。今日、お仕事、ベルゼのボス、守る。」
「……えっ?ダニエルちゃん今なんて?」
ぼーっとしていたのか、颯希はダニエルに聞き返した。ダニエルは街の向こう、丸い屋根の大きな建物を指さしながら、ゆっくりと話す。
「ルフエ語、難しい。もし、伝わる、ない、ごめんなさい。ベルゼのボス、住んでいる、あそこ、大きな家。殺す手紙、来た、なので、ユウおにいさんとサツキおにいさん、守る。」
「難しいところはベルゼの言葉で平気だよ。おにーさん、流暢には話せないけど、意味はだいたいわかるから。」
「ありがとう!」
ダニエルがベルゼ語で、夕に任務の内容を説明している。颯希にはさっぱりだったが、段々と夕の表情が曇っていくものなので、不安に胸がざわついた。やがて夕が頷きながら、口を開ける。
「連続殺人犯、彼は犯行前に予告状を出すらしい。その予告状が、ベルゼの大統領に届いた。大統領が酷く怯えているらしくて、今回ボクたちはその護衛をするんだって〜。合ってる?ダニエルちゃん。」
「うん、うん。」
「なるほど!……えっ、私、ベルゼの王様を守るんですか!?」
さらっと流してはいけないような気がして、颯希は2人に、大きな声で聞き返した。「守る」……一見それは、犯人を「捕まえる」「殺す」よりも簡単なことに思える。しかし颯希は、特に今、「守る」というものに対して、あまりプラスなイメージを抱いていない。自分の同級生を守って、肩を不自由にした先輩がいるからだ。
ベルゼは決して治安の悪い国ではないが、かと言って縷籟やマモのように、治安の良い国でもない。銃や刃物の取り締まりについても、縷籟人であれば口を揃えて「緩い」と言うだろう。颯希は撃たれるのが怖い。もちろん、王を守るために自らの身を盾にできる自信なんてゼロだ。
「王様じゃなくて大統領だけどね。銃が怖くない人間なんていないよ〜。でも心配しないで、ボクがいれば、必ず五体満足で帰れるから。」
夕は颯希の気も知らず、能天気に笑う。
「そもそもイタズラの可能性が高いからね。そうであってほしい。」
「私もそう思います。こんなイタズラする奴の気が知れませんけど!」
「犯人、嘘じゃない。ワタシの友達、襲われた。」
「えっ!?」
驚いて、ダニエルの方をいっせいに向く。ダニエルはドヤ顔になったかと思うと、胸を張って言った。
「ワタシ、友達守った!犯人、逃げた!だから、今、2人と一緒、行ってる。犯人と話した、あの犯人、嘘つかない。」
「ダニエルちゃん、友達を守ったの。それは……すごいね。」
感心した夕を見て気分を良くしたのか、ダニエルはいっそう口角をあげた。
「大きくなったっら、警察、なる!」
「おお!じゃあ、私たち縷籟警軍と、また仕事できるかもね!」
「うん、うん!サツキおにいさん、一緒仕事、したい!」
キャッキャと盛り上がる2人を見て、夕がくすっと笑う。颯希の見た目も相まって、2人はさながら、恋バナで盛り上がる女児のようだ。
ダニエルがまた、颯希の手を引いて歩き出す。この短時間でここまで打ち解けれるのは、この場全員が柔らかく取っ付きやすい性格だからであろうか。
夕は大統領のいる建物を見上げた。何か良くないことが起こりそうな胸のざわめきは一切なく、代わりに、街ゆく人々の活気溢れる声が、驚くほど綺麗に、頭の中に入ってくる。颯希の初任務はきっと何事もなく終わるだろう、目の前の颯希を見つめながら、夕は深くそう思った。
「……ん?」
「ハスちゃん起きてくるのおっそ!おはよー、お邪魔してます!」
特待4年寮。いつもは徇と自分しかいない時間帯なのにも関わらず、堂々とソファでくつろぐ陸が見えたような気がして、蓮人は目を3回擦った。
「………あっ、こんにちは……。」
見間違いでなければ、空もいる。4年寮でささめと海斗の次に見かけないメンツに、寝起きの回らない頭で困惑していると、聞きなれた声が聞こえた。
「悪いなレント。ツキヤマとホシカワが、いーんちょに勉強教えてほしいって言うもんで。」
「ヒナタくん帰ってくるまで待ってていいって、ジュンちゃんが言ってた〜!」
陸は楽しそうだった。無理もない、4年寮は他の学年の寮よりもだいぶ豪華だ。
徇の声がしたところを覗くと、彼は、キッチンの床に座って焼きそばをすすっていた。その隣に座ると、徇は蓮人に残りの焼きそばと箸を寄越して、そのまま肩に寄っかかる。
「ジュン。ボスはどこ行ってんの?」
「ユウの代わりに保健室。休日とは言え、自習してる奴らもいるからな。」
「あーね。保健室にいんならしばらく帰ってこないんじゃないの?」
「仕事中に押しかけるのも申し訳ないだろ。」
「アイツら2人に押しのけられて、こんなところで麺すすってんだ。」
「ほっとけ。」
蓮人は焼きそばを口に運んだ。相変わらず、徇の飯は美味い。
「麺類、克服したの?」
「不味い。」
「ならなんで焼きそばにしたんだよ。」
「お前にやろうと思ってたんだ。でも起きてこねえから、冷める前に食っちまおうって。食べかけで悪いな。」
「別にいいよ、ジュンだし。俺のために作った飯だって知ると、いつもより美味い。」
「黙って食え。」
「照れてんだ。」
徇は蓮人の方を向いた。相変わらずの顔色の悪さだ、生きているのかさえ怪しい。ただ、薄い白シャツ越しの肩は、確かに温かかった。
「……なあ、元気ないだろ。どうしたんだ?」
「え?俺が?」
「普段のレントは照れてんだ、なんて言わねえよ。どう見ても照れてねえし、カマチョが。」
徇は真剣だった。それに気がついて、蓮人は少しだけ黙ると、確かに、元気の無さそうにため息をつく。
「……夢。」
「またか。オレはどうやって死んだんだ?」
「待てよ、なんか嬉しそうにしてんだろ。変わらず、銃殺だけど。」
「そうか。」
蓮人は食べ終わった皿を流しに置いてから、また徇の隣に座った。
「夢を見る度に、ジュンが当たり前に隣にいてくれるのが、すごく嬉しくなる。」
「お前より先には死なねえから、安心しろよ。」
「俺、ジュンより先に死ぬの?なんか癪だね。」
いつもこんな話をする。次の年には、2人はもう本職の縷籟警軍だ。そうなれば、明日生きている保証なんて、どこにもない。
「最初は、今と何も変わらない日々が続く。でも、いつも気がついたら、みんな死んでんだ。決まってボスが最初に死ぬ、そこからどんどん死んでって、俺だけが生きてて。」
「いーんちょは死なねえだろ。怖がるだけ無駄だよ、死なねえもん、あの人。」
「わかんないよ?チビだし。」
「やめとけ、どこで聞いてるかわかんねえぞ。」
「別に怖くねえよ。チビだし。」
徇は笑った。蓮人のこういうところが好きだ。
「……一緒にいようね、ジュン。」
「恥ずかしい事言うな。そして言わせんな。」
「はは、回りくどい返事だね。」
蓮人も笑った。徇のこういうところが好きだ。
徇がいないと、蓮人は生きていけない。ただ、こうやって笑い合えているうちは、いなくなることはない。今この瞬間、目の前で撃ち抜かれない限り、徇は確かに生きているのだ。その事実が、蓮人にとっては何よりも大切で、同時にとても嬉しかった。
端末を確認すると、何やらメッセージが届いていた。「寮に2年生が来てる、勉強を教えてほしいらしい」……徇からだった。
今気がついた、ごめん!急いで帰る!……そう送信した瞬間、保健室のドアがコンコンと叩かれる。はーい……そう言ってドアを開けると、そこには桜人が立っていた。
「どうした?怪我?」
「ヒナタ先輩。相談したい事が、あって。お時間平気ですか?」
「ああ、平気だよ。何でも言いなさい。」
ごめん、やっぱもうちょいかかる、待ってて。灯向はそう再送信してから、桜人に向き直る。
桜人は少し恥ずかしそうに、話し始めた。
「本当は兄さんに直接話したかった……というか、話したのですが、殴られてしまったので。相談というか、ぼくからの、お願いというか。」
嫌な予感がした。灯向は表情を崩さずに、先を促す。
「ぼく……兄さんには縷籟警軍をやめて、家に戻ってきてほしいんです。その事を伝えてほしくて。」
……そんな事だろうと思った。蓮人はそう簡単に人を殴らない。蓮人の事情を1番詳しく知っているだろうに、このことを彼に直接言ったのなら、殴られて当然だ。桜人には、相手の地雷を踏んででも自分の要望を真っ直ぐ伝えようとするような、あまり良くない素直さがある。
「なるほどね。サクラはどうして、トトに、帰ってきてほしいと思うの?」
「兄さんのことが、好きだからです。」
「2人で警軍にいるのじゃいけない感じ?」
「お父上が、それを許してくださらないんです。」
「なるほど。おれは小城家のことを理解している訳じゃないんだけど、君たちのお父上は、どのように考えているの?」
この質問は正直、興味本位だった。後継に悩んでいるのにも関わらず、蓮人と桜人を取り返そうとしない小城社長のことが、灯向はイマイチ理解できないでいた。
「お父上は、会社はぼくに継がせたいとお考えです。ただ、ぼくは、兄さんに継いでほしいと思ってます。社長という身分は、長男に産まれた兄さんだけの、特別なものなんです。
それをお父上に話したところ、兄さん自体に興味は無いが、会社は代々長男が継いできたものですから、兄さんが継ぐべきだという意見を否定はできないようでした。お父上の方から、ぼくが警軍学校に入り、この1年で兄さんを家に戻るように説得して連れて戻ってくれば、兄さんを社長にするとご提案いただきました。
ぼくは兄さんのことが大好きです。もちろん兄さんの意見も尊重したいと思っている。けれどなにも、世界的大企業の社長という約束された明るい未来があるのに、命の危険がある縷籟警軍に入軍するだなんて、あまりにも先が見えていないように感じます。兄さんには、幸せに、長生きをしてほしいんです。」
「……なるほどね。よくわかった、そういう事ね。」
この前、小城家の執事たちが押し寄せてきた時。蓮人は「親父ならもっと上手く取り返す」と言った。その考えは的中したと言わざるを得ない。桜人を使えば、蓮人が戻る確率は、ぐっと高まるだろう。なんやかんや、蓮人は桜人のことを大切に思っているし、その事は小城家の父がいちばん知っている。
蓮人は恐らく桜人に「警軍になんて入らず、社長として生きてほしい」と思っているのだろう。だから突っぱねて、それでもくっ付いてくるので、殴った。お互いがお互いの未来を案じ、自分の主張を押し付け合った結果、今のような拗れた兄弟関係が出来上がってしまっているのだ、灯向の憶測に過ぎないが。
「トトに言っておくよ。話してくれてありがとう。」
嘘だ。蓮人の前で家庭の話をするべきではない。いくら彼が桜人のことを大事に思っているとは言え、家が嫌いで家出して、縷籟警軍に辿り着いたのもまた事実。家庭環境に大きな差はあれど、蓮人と同じく家が嫌いだった灯向には、彼に「家に戻れ」だなんて、とても言えたものではなかった。それと普通に、蓮人がいなくなったら寂しいから、嫌だ。
どうしたものか……そんなことを考えていると、桜人が再び口を開けた。
「……身の上話をしてもいいですか?深い意味はありません、聞いてほしいんです。
小さい時、ぼくは悪夢にうなされていました。小城家の人間は、みんな度々、原因不明の悪夢を見るんです。ぼくはもう最近は見ていませんが、今でもはっきりと、その夢の内容を覚えています。ある日突然、家から兄さんが消えてしまって、どこにも見当たらない夢でした。それを兄さんに話したら、兄さんは、ぼくを抱いて寝てくれるようになりました。「お兄はここにいるから、安心して寝て、サクラ」。そうやって、ぼくが寝付くまで毎日頭を撫でてくれていました。ぼくは兄さんのことが、自分でも異常に思うくらい、大好きになりました。あの優しさに、ぼくは狂わされたんです。そこから、悪夢は見なくなりました。
その数年後に兄さんが家出した時、ぼくは寂しくて寝れませんでした。ぼくは兄さんに会いたかった。決めたんです、今度はぼくが、兄さんを、なんとしてでも幸せにすると。
……またこの話になってしまいますが、やっぱりぼく、兄さんにとっての最適が縷籟警軍だとは、とても思えません。ヒナタ先輩から言っていただければ、なにかが変わるかも知れない。兄弟喧嘩に巻き込んで申し訳ありませんが、どうか、兄を、説得してはくれないでしょうか。」
座ったまま頭を下げる桜人に、灯向は困った。
ここは頷いて、蓮人には言わない、桜人には無理だったと伝える。これが恐らく誰も傷つけない最善策だ、しかし、今の話を聞いて桜人の気持ちを無下にできるほど、灯向は冷たい人間ではない。心がしんどい時に傍にいてくれた存在のことは、いつまで経っても大切で、愛しく思う。灯向にも、文句ひとつ言わずに色々な面で支えてくれた大親友がいる。彼はいつも、灯向の小さな手を、愛おしそうに握り締めてくれた。死ぬまで忘れることのない、大切な記憶だ。
ずるいと思った。身の上話をすれば、灯向が断れなくなるのを、桜人は恐らく理解しているのだろう。彼は素直だが、こちらが思っているよりもずっと計算高い。蓮人に物を言いたいのなら、彼と1番仲が良く、4年特待で1番信頼のできる徇に話すのが筋だろう。しかし桜人は灯向の元へお願いに来た。どうやら徇は、蓮人が家出をした頃から彼と仲良しらしい。家庭の話は、蓮人には言ってくれないと思ったのだろう。
「……嘘はつきたくないから正直に話そう。おれはその話、トトにするのを、少し躊躇ってる。」
桜人はですよね、とでも言うように苦笑して、次の灯向の言葉を待つ。傷つけないように、誤解を与えないように、灯向は慎重に言葉を選んだ。
「サクラがトトのことを大切に思っているのはすごく伝わったし、ご家庭の事情も考えると、すごく焦る気持ちもわかるんだ。
でもね、今のサクラは、トトのことを想うがあまり、トト自身の気持ちを置いてけぼりにしてしまってるような気がする。例えば、トトはどうして家に帰りたくないのか、どんな家だったら帰りたいと思うのか。そういう、トトの事情もちゃんと考えてやらないと、トトは余計にサクラのことを突っぱねちゃうと思うよ。」
桜人は少し照れくさそうにしながら、頷いた。耐えた、灯向は心の中で安堵のため息を着く。
「ありがとうございました、ヒナタ先輩。」
「ううん、気にしないで。トトにも、いけるとこまで聞いとくね。」
「ありがとうございます……!とても助かります。」
「いいんだよ、頼って。」
桜人はペコペコしながら、保健室を出ていった。扉が閉まったところで、灯向の顔からすっと笑顔が消える。
(……トトには、帰ってほしくない。)
桜人には言わなかった。蓮人の優しさに狂わされた人間は、何も、桜人だけではないと。蓮人はとんだ沼男だ、徇を見れば、彼がいかに人の心を掴むのに長けているのか伺える。灯向は蓮人のことをただの友人と見ているが、果たして徇はどうだろうか、蓮人に向けている感情は友情だけか?灯向と徇はそれなりに仲が良いが、それでも、彼が蓮人にいつもするあの顔を、灯向に見せてくれたことは一度も無い。
桜人には蓮人が必要だ。しかしそれと同じように、徇にも蓮人が必要である。完全に私情だが、桜人と徇なら、徇の気持ちを優先してやりたい。蓮人もきっとそう言う。
桜人との約束は守る。蓮人にはしっかり家の事について訊く。ただし帰す気は一切ない、蓮人は我々、縷籟警軍のものだ。
窓の外。夏の長い日にてらされて、緑色に輝く葉をつけて堂々と並んでいる桜の木を見つめていたら、ふと2年生のことを思い出した。
「やべ。」
夕は泊まり込みと言っていたか。ならば持ち物はまだ片付けなくても良いか……灯向は保健室を閉めて、手ぶらのまま、4年寮に急いだ。
続く