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茉凪は生徒会室の椅子に座り、手元の書類を眺めていた。窓からの日差しに、眼鏡についた埃が輝いて、とても鬱陶しい。
縷籟警軍学校、生徒会。校内の治安維持や緊急時の生徒の保護、生徒が起こした問題の後始末などを主にしている。通常の学校の生徒会がしているような事、例えば学校行事の企画運営やボランティアなどは、縷籟警軍学校とは縁がない。それにも関わらず“生徒会”という組織だけを残してしまったので、輝かしく名誉ある生徒会に憧れて入会した生徒たちは、来る日も来る日も中身のない面倒事を押し付けられている。
それは学級委員も然りだ。縷籟警軍学校にも一応クラスというものがあり、そのクラスごとに一応代表生徒がいる。その代表生徒の中のさらに代表が、“学級委員長”である灯向になる訳だが、この学級委員は何をしているかと言うと、何もしていない。縷籟警軍学校には長い歴史があり、環境が変わっていく中でその伝統だけが独り歩きした結果、それらは意味のない学園ごっこになってしまった。灯向が学級委員長である事なんて、徇以外に誰が覚えているのであろうか。
そんなわけでいつでも無駄に疲労困憊な茉凪だが、今日だけは少し違った。机に並んでいるのは、割れた窓の修理代の請求書や来期受験生のことについての資料。そして、それらに混じろうとも混ざれないような、小さな文字がびっしりと書かれている、1枚の紙。
茉凪は、その紙と同封されていた小さな手紙に目を移した。綺麗な字で“本日21時、特待4年寮”とだけ書かれている。嫌と言うほど見た、これは徇の字だ。警軍学校に入って4年目になるが、特待生が生徒会を寮に呼びつけた事など1度もない。何があったのか……茉凪は机の紙に視線を戻す。
「…………哆の、犯罪………、……。」
聞き取れないくらいの小声でぶつぶつと音読していくと、中々に面白い事が書かれていて、茉凪は少しだけ目を開いた。
その時、生徒会室の扉が、大きな音を立てて開く。茉凪がそちらを見ると、湊都と海都が、生徒会室にずかずかと入ってくるところだった。
「姐さん、今日は少し楽しそうですね。何かあったんですか?」
2人に見られないほうがいい。そう思った茉凪は机の中に紙と手紙を押し込み、「そうか?何も無い。」ととぼけた。
この2人は何故だか知らないが、特待生のことを異常に嫌っている。茉凪も好きな訳ではないが、とても優秀な生徒たちだと一目置いている。特に4年生は、確かに生徒会に対して友好的ではないし、決して性格の良い人たちではないので、嫌う気持ちもわからなくはないが。
やがて2人は、茉凪の机に寄ってきた。何やら楽しそうな表情だ、2人がこの顔をする時は、大体なにか、茉凪が喜ぶようなものを用意している。
「姐さんに、これ、預けたいんだ。」
2人が差し出したのは、花だった。湊都はニッコリ笑いながら、続ける。
「僕たちのウエポン。でも、いらないから。姐さんが持ってて欲しい、だって僕たちは、姐さんのものだから。」
海都もそれに頷く。茉凪は少し困ったように、その花を見た。百合のような花だった、色は綺麗な黄色が、花弁の先に向かって、白みがかっている。
「ありがとう。大切にする。」
そう言って茉凪は、机の端にあった花瓶に、湊都と海都の花を美しく生けた。
「何の花ですか?」
海都が、2人のウエポンを生ける前から花瓶に飾ってあった、同じく黄色くて可愛らしい花を指す。
「ああ、これは私のウエポン。ロウバイという花だ、本当は木になる花なのだが、実用性がないので、枝を折って飾ってしまった。お前たちの花と同じ、綺麗な黄色をしている、そうだろう?」
その言葉に、湊都と海都は、嬉しそうに頷いた。この2人は嫌味ったらしくて、とても良い性格だとは言えないが、孤児院にいた時から世話をしているのもあり、とても可愛いと思う。茉凪が孤児院を出て警軍に入った後、次の年には湊都が、その次の年には海都までも警軍学校に入ってきて、呆れはしたものの、心の底からの愛くるしさを感じたのを覚えている。
「……そういえば、姐さん。気になっていたことがあって。」
湊都は窓の外を指さした。茉凪と海都がその指の方向を見ると、そこには、大きな鐘がある。
「あの鐘、鳴っているところを見たことがないよ。何のためにあるの?」
「あれは緊急事態の時のための鐘だ。火災などで避難が必要と判断された時、あの鐘が鳴る。長い間使われていないから、今は鳴るのかも知らないが。」
「初めて知りました。これ、きちんと生徒に伝えた方がいいと思います。緊急時、避難が遅れては大変です。」
2人は頷いた。
「あ〜……こういうのは特待生の仕事だ、きっと。一般生徒も特待生の言うことの方が聞き入れやすいだろ。頼んでおく。」
「そうですね。彼らはもう少し学校に貢献をするべきだと、私も常日頃考えていました。」
彼らの仕事はあくまで、学校への貢献ではなく国への貢献だ……喉まで出かけたその言葉を、茉凪は必死に飲み込んだ。
あの鐘が鳴るような事態なんて、縷籟警軍では起こらない……誰もがそう思っている。今までも、この先も、あの鐘には、傷が付いてはならないのだ。
傷1つ無いことにより、むしろ“安心安全”としての象徴かのように。鐘はその色を誇らしげにキラキラと光って、机上の3本の黄色い花を、さらに黄色く照らしているような気がした。
人生でこのような光景に巡り会えるだなんて、子供の頃は思ってもいなかった。警軍学校に入った今でさえ、まさか初任務でこのような経験ができるとは思っておらず、まだ目の前に座る男がかの有名なベルゼ共和国の大統領だなんて信じられない気持ちが強い。
夕と颯希が深々と頭を下げると、大統領は流暢な縷籟語で、2人に優しく微笑みかけた。
「来てくれてありがとうございます、ようこそ。顔を上げてください。むしろ、頭を下げなければいけないのはこちらの方です。なんせあなた達がここに呼ばれたのは、我が国の警察に少々頼りないところがあってのことですので、ハハハ、不甲斐ない。」
これは言葉に甘えて顔を上げたら帰ってから学校に怒られるやつだ、颯希はそう思った。どう答えれば良いのかわからずにいると、それを汲んでくれたのか、夕が口を開く。
「この度はご依頼を賜り、誠にありがとうございます。お目にかかれて大変嬉しく存じます。我々が必ず大統領をお守りいたしますので、どうかご安心ください。」
「ハハハ、本当に、そんなに堅苦しくならずに。でもその言葉が聞けるとこちらとしても安心です。犯人からの予告によると襲撃は明日ですので、日付が変わるまではどうか、ごゆっくりしていてください。幸い、ダニエル少女も、あなた達を気に入っているようですからね。」
部屋のだいぶ遠いところで、ベルゼの警察と手を繋いで話を聞いていたダニエルが、こくこくと頷く。そのまま大統領に促され、大統領官邸を一通り見学してから、3人は客室に通された。
興奮が抜けきらないまま、随分と時間が経った。今までに寝たことのないほどふわふわのベッドに寝っ転がりながらふと壁を向くと、部屋の時計はもうすぐ21時を刺す。
颯希は、自分の隣で寝っ転がっているダニエルの方を向いた。すると彼女はニコッと笑って、体を颯希の方に寄せる。
「……ダニエルちゃん、ダメだよ。私一応異性なんだから、気をつけないと。」
「おにいさん、見た目、男、ちがう。だから、大丈夫。」
「うーん、そうだけどね。」
困ってしまう颯希を見て、夕が微笑んだ。
「サツキくんなら安心だってわかっているから、ダニエルちゃんも心を許してるんだと思うよ。」
その時、夕の服から、着信音が鳴った。突然に大きな音が鳴ったものなので、颯希とダニエルは一瞬ビクッと震えて飛び起きる。誰からだ、まさかもう犯人が侵入して……そんな顔をする2人を見て、夕は謝った。
「ごめんね、驚かせちゃった。ジュンちゃんからだった、平気だよ。少し外で電話してくるから、2人はこの部屋にいてね。寝た方がいいと思うぞ〜。」
日付が変わるまで、あと3時間しかない。確かに寝た方がいい、護衛中に眠くなってしまっては大変だ。流石に日付が変わるきっかりに来るとは思えないが、時間の予告がない以上、明日は1日ずっと大統領につきっきりだ。疲労は少ない方がいい。
「寝よう、ダニエルちゃん。」
「うん、うん。」
颯希は目を閉じた。軍服はとても寝にくい、今すぐに脱いでしまいたい。ベルトが腰の骨に刺さって痛い。
そんな事を思っていたが、しばらくすると眠くなってきた。軍服の寝にくさなど、このふかふかベッドの上では、大した問題では無いのかも知れない。
「おにいさん!起きて!」
甲高い声に、颯希は驚いて飛び起きた。中途半端な睡眠時間がもたらす眠気など忘れてしまうほどに、切羽詰まった様子のダニエルが叫ぶ。
「警報、鳴った!犯人、入ってきた!」
時計を見た。ちょうど0時を指している。
「ユウ先輩は?」
「電話、帰って、ない。」
「わかった。取り敢えず大統領の部屋に向かおう。ダニエルちゃん、私から離れないで。」
「ワタシ、サツキおにいさん、守る!」
ダニエルは颯希の手をぎゅっと握った。颯希が周囲を警戒しながら、急いで部屋を出る。
「ダニエルちゃん。左手じゃなくて右手を握ってくれない?」
「うん。どうして?」
「私のウエポン、左手からしか出せないんだ。」
廊下を走りながら、颯希はダニエルの手を右に持ち替えると、左手を開いて「鉄球!」と叫んだ。
すると次の瞬間、颯希の左手に、何かが現れた。それは2つの大きな金属球を、太い縄の両端に括り付けたような……本人が叫んだとおりの“鉄球”であった。しかし、よく見る武器としての鉄球のような、刺や鎖は付いていない。
ダニエルは息を呑んだ。何それ、かっこいい……とでも言うように、状況を忘れて目を輝かせる。
「ダニエルちゃん!後でちゃんと見せるから、今は走るのに集中しよう!」
颯希からそんな声を掛けられて、ダニエルはハッとしてから頷くと、足をさらに加速させた。
大統領はこの時間まで仕事をしていたようで、昼に挨拶した執務室にいた。室内には大統領を取り囲むようにして大量の警備がしかれていて、颯希たちは部屋の外で、たった1つの入口を見張っていた。
「犯人、どうやって大統領を殺すつもりだろう。そもそも連続強盗殺人犯なんだよね?大統領から盗むものなんてあるのかな……。」
「たとえば、王冠?」
「大統領は王冠持ってないと思うよ、ダニエルちゃん。」
やがて廊下の遠くの方に、夕が見えた。颯希が手を振ると、夕もにっこり笑って振り返す。
「サツキちゃん、ダニエルちゃん。無事だった?」
「はい、無事でした!」
「ごめんね〜、おにーさん、駆けつけるの遅くなっちゃって。ボクがいないのに2人でしっかりここまで来たんだね、偉いよ。」
夕は颯希とダニエルの頭をぽんぽんと撫でると、2人に並んで、扉の前で見張り始めた。
「警報が鳴った以上、犯人はこの官邸内にいる可能性が高い。変装も得意みたいだから、気をつけて。誰であってもここを通しちゃいけない。」
「そういえば、どこの警報が鳴ったんですか?」
「うーん、詳しくはボクも知らないけど、この部屋からは遠いみたい。どちらかと言うと、ボクやサツキちゃんたちの部屋があった方だ。」
颯希は違和感を覚えた。大統領を殺すつもりの人間が、わざわざ遠いところから侵入するのか?外にも大量の警備がいるはずだ。
「この建物の警報って、人力でしたっけ?」
「そうだね。誰かが押さないと鳴らない、つまり犯人は、警備員に姿を目撃されているのかも知れない。」
「大分、非効率的というか……現に姿を現しませんし、何してるんでしょう。」
「ん〜、何してるんだろうね。」
颯希は変な気分になった。先程から、犯人に対するものとは違う、もっと心臓に手を入れて擽られたような、とてつもない違和感に襲われている。何かが変だ、いつもと違う。
その時颯希は、とある可能性を閃いた。間違っている可能性の方が高いだろうが、これが本当であれば全ての犯人の行動に説明がつく。頭に入れておく必要がありそうだ。
何の音沙汰もないまま、時計は午前の3時を指そうとしていた。頭では警戒しているものの、いつ来るのかという緊張感はとっくに心から抜けてしまい、今はただ猛烈に眠い。
「さすがに、遅くないですか?警報が鳴ったのって……何時間前でしたっけ。」
「3時間になるのかなぁ。状況がわからないね。」
そう言いながら、夕は立ち上がった。そして颯希に微笑みかける。
「ボクは中の様子を見てくるから、サツキちゃん、1回ここを任せてもいい?」
颯希は驚いた。しかしそこから冷静になり、ダニエルの手を握ってから、一緒に立ち上がる。カマをかけるなら、ここしかないと思った。
「ユウ先輩、数時間前に自分で言っていたじゃないですか。「誰であっても、ここを通しちゃいけない」って。だから、ダメですよ。」
「えっ?」
夕は心底驚いたような顔をする。
その顔を見て、少し不安になった。間違ってたらどうしよう……でも、この仮説が正しかった場合、夕を……いや、“この男”を、通してしまうと危険だ。疑わしいなら詰めるべきだ、夕はそんなことで怒ったりしない。
「……私、すごく変だと思うんです。ユウ先輩の到着が異様に遅かったり、やけに情報を持っていたり。犯人は変装が得意だとか、警報の鳴った場所とか、一体どこで探られたんですか?
私はてっきり……“本物”のユウ先輩をどこかに拘束した後、貴方がユウ先輩に化けて自分で警報を鳴らし、私たちに紛れ込んだのかと。」
「サツキちゃんはボクを疑ってるの?そりゃあボクは、ルフエ警軍だからね。情報は持っててもおかしくないんじゃない?」
「まあ、そういう事にしてあげても良いですよ。でも言い訳出来ないことが1つあります。私が1番違和感を感じたのは、その呼び方です。
ユウ先輩は、私の事、サツキ“ちゃん”だなんて呼ばない。ごめんなさい、こんな紛らわしい顔をしていて。私が男だってこと、知らなかったですよね……だって貴方は、ユウ先輩じゃないから。」
ダニエルはきょとんとしていた。
「……面白い冗談だね、サツキくん。ごめんね、でも呼び方が安定してなかっただけなんだ。ボクは夕だよ、特待4年の田代夕さ。せめて疑うなら、証拠を提示してほしいな。」
引かない夕に、颯希は強気な態度で言い返す。
「確かに、これらは証拠と呼べるほど十分なものではありません。貴方がユウ先輩ではないと証明できる方法は持ち合わせていないけれど、貴方が自分をタシロ ユウだと証明できる方法はありますよ。
さあ、自慢のペットである、ハムスターのクレピオちゃんを、私たちに出して見せてください。」
夕の顔が、明らかに引き攣った。それからしばらくの沈黙が流れたあと、夕は……いや、男は、にっこり笑う。
「俺は、ルフエ警軍の新人を、ナメてたよ。お前の言う通りだ、俺は警軍なんかじゃない。」
男はマスクを剥がし、軍服を脱いた。平均くらいの背に、目つきが悪い。いかにも犯罪をしていそうな顔だ。
「やっぱりそうでしたか、甘かったですね。素直に投降すれば、痣1つない状態で死ねますが、まあ、投降なんてする訳ありませんか。大統領は殺させませんよ!」
そんなことを言いながら、颯希の心はバクバクだった。どうしよう、奴の正体を暴くのに夢中で、この後のことを全く考慮していなかった。夕がいないのに、この2人で、大統領を守れるのか?そもそも本物の夕は無事なのか?
しかし今、そんなことを考えても仕方がない。颯希とダニエルは扉から離れた。男は懐から銃を取り出して、颯希たちに向ける。
「俺は大統領を狙っていると手紙を出しただろう?あれ、実は嘘なんだ。俺が本当に殺したい奴、いや、殺さなくてはいけない奴は、誰だと思う?」
「そんなもの知りませんよ!」
「お前たちだよ、ルフエ警軍。」
その言葉と共に、扉の前の広間には、大きな銃声が響いた。それと同時に、銃弾が足元に埋まって、煙を立てる。颯希の背中に冷たい汗が流れた。
執務室には全てが聞こえている。しかし扉があかないのは、男が嘘をついている可能性もあるからだろう。大統領の安全は絶対だ、今はこの扉を開けることはできない。
「……ダニエルちゃん。やっぱり、隠れててほしい。これは私たち、警軍の仕事だから。」
ダニエルはその言葉の通り、近くの廊下まで逃げて、角に隠れた。幸い、男がダニエルを気にする様子はない。
颯希は夕にトランシーバーを鳴らした。しかし反応はない、さて、どうしたものか。生きていることを願って、今は室外の警備員が来るまで、どうにか時間を稼ぐしかない。銃相手だ、恐らく10分持たない。
早くしてくれ、そう願いながら、颯希は鉄球を振り回した。これのコントロールは心得ているが、人に使うのは初めてだ。しかしなぜだろうか、一切の躊躇も湧く気がしない。
殺意に似た、また軽蔑にも似た、静かな怒りだった。平気な顔をして、誰かの大切をいとも簡単に奪えるその精神が、どうしても理解できない、理解したくもない。何かを奪ったなら奪われるべきだ、人を殺したならば死ぬべきだ。法典にも、そう書いてある。
こいつを殺すためなら、死ねる気がする。
颯希は鉄球を回しながら、男に走って近づいた。銃弾が頬の横を掠めていく。間違いない、この犯人、銃の扱いには慣れていない。下手くそだ。
しかしそう簡単にやられてくれる訳もなく、男も鉄球を躱しながら、上手く逃げた。右から鉄球を投げれば左に躱され、そちらの方から銃弾が飛んでくる。自分でも信じられないほどに、動きが早く、また正確だった。冷暖房の効いた室内も、2人の熱気で、少し暖かくなってきたような気がする。
しばらく、一進一退の攻防が続いた。しかしここらで、時間がもたらすハンデが伴ってくる。華奢な体をしている上に重いものを振り回している、颯希のスタミナ切れだ。
気がつけば肩で息をしていた。対して男は余裕そうに、銃を構える。
「もう、終わりか?」
銃弾が、颯希の背後にある、執務室の分厚い壁に埋まった。
「……まだ、終わらない。」
口ではそう言ってみるが、限界だ。
体力の限界が来たのか、颯希が男の方を見ながら、その場にへたり込んだ。男は勝ち誇ったような笑みを浮かべると、颯希に静かに歩み寄る……が、突然背後に感じた気配に、驚いて振り返った。
気がついた時にはもう遅い。鈍い音が鳴り、頭に強烈な痛みが走る……立っていられないほどの。男はその場に蹲ると、その余りの痛さに、「うわあああっ!」と情けない悲鳴を上げた。
颯希が声をあげる。
「ユウ先輩!」
「遅くなってごめんね〜。ボクとしたことが、気を失っていたみたい。気がついたらトイレの個室で縛り付けられて、隣にはこれが落ちてたんだ。」
そう言いながら、夕が高らかに掲げたのは鉄パイプだった。颯希がへたり込んだのは、夕が駆けつけた安心によるものだったのだ。
颯希は男に近寄って、少しだけ考えてから、「えいっ」と鉄球を軽く頭にぶつけた。さらに痛そうな男の悲鳴が上がり、それを面白がったのか、今度は足で顔を蹴る。
「わーお。サツキくん、怖い。」
夕は男の拳銃を遠くに蹴り、腕に手錠をかけると、「お〜い、生きてますか。」と頬を叩く。
「君には生きてもらわないと困るんだ〜。ほら、君、縷籟警軍を撲滅するために頑張っている、鄼哆の組織の人間だろう〜?」
「そんな物があるんですか?」
「うん。21時頃、ボクのところにジュンちゃんから電話が来たでしょう?色々調べてくれていたみたいなんだ。そして、まあ色々あって、こいつは吐かせるもの吐かせてから殺したいから、任務では生け捕りにしろよ〜って。」
「えっ、もっと早く言ってくださいよ。追い討ちかけちゃった……。」
「あはは、大丈夫大丈夫〜。そんなに簡単に死なないよ、多分ね。」
次第に安全確認が取れて、執務室の扉が開いた。犯人は救急車で搬送されて行き、大統領は何度も、夕と颯希に頭を下げた。
ユウも頭を鉄パイプで思い切りいかれたらしいが、本人曰く、痛くないそうだ。保健室の先生は怪我しないんだぞ〜、夕はそう言って笑っていたが、両脇を抱えられ、数人がかりでベルゼの医者たちに連行されていった。その間も夕はずっと、「え〜、痛くないですよ〜!」みたいなことをベルゼ語で言っていたと思う。
颯希はそんな夕が診られている間、ダニエルと共に、ベルゼを観光した。縷籟とは全く違う景色の数々に、颯希はベルゼに、大変心を奪われた様子だった。
「将来、ダニエルちゃんが警察になったら、私はベルゼ専門の部署に行こうかな。選べるか、わからないけどね!」
ダニエルは嬉しそうに頷いた。
「約束?」
「うん、私との約束。」
2人は笑いあって、どちらからともなく指切りをする。ぎゅっと結ばれた小指が解ける時、微かに感じた寂しさを、ダニエルはこれからも、ずっと忘れない。
全てを知っているようで何も知らない天の太陽が、いつもと何も変わらない今に、強く優しい光を注いでいた。その温もりに当てられて出来た颯希の影が、ダニエルには、なぜかとても愛おしくて、目に焼き付いて離れなかった。
続く