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マインツとは一度だけ一線を越えたことがある。
それは「酒の勢い」と言ってしまえば終わる話だが、俺にとっては今でも心の奥深くにのしかかる罪の記憶だった。
15世紀の会合の後ことだ。あの日は俺もあいつも珍しくペースが早く、簡単にモーゼルワインが1瓶空いた。2瓶目の最後の一杯に差し掛かったとき、ただ”そういう雰囲気”になってしまい、そのまま手を取り、覆い被さり、そして__
「貴方の好きにして良いですよ。」
マインツにそう言われ、やめ時を見失ってしまった。
俺は何の遠慮もなく、配慮もなく、貪るようにあいつを抱き続けた。
翌朝、隣に眠るマインツと、その身体に残る無数の”痕”を見た時のあの血の気の引く感覚、
越えてしまった。
心の中で引いていた一本の線。大司教区として、選帝侯領として、侵してはならない線を越えてしまったことを思い出し、一瞬頭が回らなくなった。
そうこうしているうちに、マインツが目を覚ます。
掛ける言葉に悩んでいる間に、ただいつも通りの笑顔で「おはようございます。」とだけ言われた。
ベッドから起き上がることで見えるようになった色の変わった部分達。全て、自分がマインツを穢してしまった罪の証に見えた。
「どうかしましたか?」
俺の視線に気づいたのか、マインツが問う。
「その…悪かった。昨日、色々と…」
何に対する懺悔か不明瞭な謝罪文が口から出る。しかし、
「別に、気にしなくて良いのですよ。」
と、マインツは全てを受け入れ気にしていないかのようにサラッと返事をした。あいつの気遣いだった。
そのままマインツは身支度を始めた。情事の痕の散る肌がカソックで隠される。
つられて俺も身支度を始める。散らばっていた服を拾い、軽く埃をはたいて着る。
暫くの間、互いに無言のまま、昨夜のことなぞ気にしていない風に身支度を整えた。
最後、ストラを整えながら
「この事は、無かった事にしましょう。」
と、マインツが言った。ただ、いつも通りの調子、優しい声色だった。後悔でも、何でも無い。
「あぁ。」
上手い返事が出るでもなく、ただ、そう返す他無かった。
――
「__ねぇ、トリーア、話聞いてます?」
マインツの声でハッと現実に帰る。
つい昔のことを思い出しているうちに、あの時の情景に浸っていたようだ。
「あぁ、悪い。少し考え事をしていた。」
そう言って誤魔化すと、マインツは「私を差し置き考え事とは、余程の重大事案なんでしょうね。」と拗ねたように口をへの字に曲げ、そっぽをむいて頬杖をついた。
「悪かったから。別にお前をほったらかしにしたいわけじゃない。」
「またそう言って。折角久しぶりの水入らずの晩酌だというのに。」
#イタリア→フランス
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犬狼鳥(けんろうちょう)・黒子
「悪かったって。お前のこと考えてたんだ。許してくれ。」
「なら仕方がないですね。許して差し上げましょう。」
そう言って、こいつはへにゃりと表情を崩し、幼い子供のように笑ってみせた。
「なぁ、お前酔ってるだろ。コロコロ表情変えやがって。」
「まだ酔ってませんよ。ふふ、トリーアは心配性です。」
「酔っ払いはそう言うんだ。もうやめとけ。」
「やです、まだ飲みます。だって折角上物を掴んできたんですよ。」
仕方がないので「だめだ、明日に響く。」とワイン瓶を取り上げると、「ひどいですー」と間延びした声で机に突っ伏した。
ドイツ連邦共和国が出来て早くも20年が経とうとしている。
ナポレオンによる戦争で消えたはずの俺は、なぜかこうして二度目の生を享受していた。
最初こそ何がどうなっているのか全く分からなかったが、ともあれ今はマインツ、プファルツ(今は北部に出張していて居ないが)と共に「ラインラント=プファルツ州」として暮らしている。
「…ふふ、今は自由で良いですね。こうやって貴方と沢山お話して、ワインを沢山飲めるのですから。」
ワイン瓶を棚に仕舞っていると、ふとマインツが呟いた。
「昔はお互いもっと沢山のものを背負い込んでいましたから。こうやって自堕落に飲んでいられる今の世バンザイです。」
「お前なぁ、流石にだらけ過ぎだぞ。」
酔いにより口が軽くなっているのか、思考が緩んでいるのかまでは分からないが、いつになく調子のことをいうマインツに、俺は酔い冷ましにと冷水の入ったコップを差し出す。
マインツはそれを「ありがとうございます」と礼をして受け取り、コクリと一口つけてから置いて微笑した。
窓から差し込む月に照らされていたからか、俺にはその一連の所作があまりにも美しく、無防備に映った。
まるで”あの夜”のような雰囲気を纏う奴に、俺は釘付けになった。
「何ですか、トリーア。私の顔に何か付いていますか。」
「いや、何でもない。」
「ふふ、素直に見惚れていたと言えばいいのに。」
いつの間にやら、マインツは椅子から立ち上がり距離を詰めている。あまりにも自然だったから気づくのが遅れたのだろう。
対応に困っていると、手が取られ、そのまま頬へと導かれた。
「私はトリーアが好きです。こうやって大きな手で、私のことを気にかけてくれて、こうして無防備を晒しても優しく包み込んでくれますから。」
やめろ、やめてくれ。
思った以上に俺は欲深く、良からぬことを考える男だ。
何とか心を静めようと必死に耐えるうちに、またこいつは俺の胸元へと身を寄せることで追撃をかけてくる。
心臓が高鳴る。
「ねぇ、トリーア。久しぶりに、しませんか?“あの夜”だけでは、淋しいのです。」
聞こえたその言葉。
その言葉のおかげで、ハッと俺は我に返ることが出来た。
「駄目だ、マインツ。」
「え…?」
予想外の返しだったのだろう、豆鉄砲を食らったようにきょとんとするマインツを、ひょいと抱き上げてそのままベッドに寝かせた。
「お前は今酔っている。そんな状態でお前を抱くなんてことはできない。」
「そんな…」
「お前がちゃんとシラフの時に頼んできたら、考えてやる。だから今日はもう寝ろ。」
そう言ってからマインツの額に口づけを落とし、そのまま俺は部屋を後にした。
扉を閉めてすぐ、俺はもたれかかるようにしてずるずると座り込んだ。
「シラフの時に頼んできたら」なんて、聖人君子みたいなことを言う資格は俺にはないというのに。
手のひらに残るマインツの熱を見て、乾いた笑いをこぼす。
完全に俺のエゴだ。
「マインツをこんな形で汚したくない」という、俺の罪深いエゴ。
それでもまた、「酒のせい」にして記憶から逃げる羽目になるよりはマシだと信じたい。
何とか現実逃避をするような歩調で部屋に戻り、倒れ込むようにしてベッドに潜り込んだ。
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む容赦のない日光に叩き起こされる。
昨晩ああやってあいつの想いを(あいつは酔っていたとはいえ)無下にしてしまった手前、どういう顔をして会いに行けばいいか分からない。
「あ、おはようございます。トリーア。」
流れるようにしてリビングにたどり着くと、昨夜の酔っ払いではない、いつもの飄々とした様子のマインツがコーヒーを淹れていた。
「ああ、おはよう。」
そうとだけ返し、広間にあるソファに腰掛けた。
ほろ苦い香りが鼻腔を突き抜け、最後に残っていた眠たさを払う。
まるで、昨夜のやりとりがなかったかのように時間が過ぎる。
「…昨晩は申し訳ございませんでした。」
申し訳なさそうに、マインツがコーヒーの入ったカップをコトリと前の机に置いた。
「お酒が入っていたとはいえ、貴方を困らせるようなことばかりしてしまいました。」
自身の分のコーヒーも淹れ終えると、俺の隣にそっと足を揃えて座る。
またしばらくの沈黙。
お互い、どういう風に接したら良いのか分からないといった状況だ。
沈黙に耐えかねて、コーヒーを一口飲んだとき、マインツが衝撃的な一言を発した。
「その…いつなら、抱いていただけますか?」
思わず口に含んだコーヒーを吹き出しかける。ゴホゴホと咽るのを何とか鎮めて、「どういう意味だ?」と何とか尋ねた。
「ほら…昨日、『シラフの時に頼んできたら考えてやる』と仰っていたじゃないですか。」
「なので今、こうして尋ねておこうと思いまして…」
こいつはまだ酔っているのだろうか?いや、流石にそれは無い。ということは素でこれを尋ねてきているということだ。
「お前…本気か?」
マインツの顔をちらりと見てみる。すると、その顔は今にも湯気を出して倒れてしまうのではという程真っ赤に染まっていた。
「本気です。昨晩のあれは確かにお酒の勢いというものですが、想いまでもまやかしであったとは言わせません。」
熱に浮かされたように、マインツはまた口を開く。
「”あの夜”に私が『なかったことにしましょう』と言ったのは、罪を背負ったような表情をした貴方にどうか気負わないでほしいと思ったから。私は、一時たりともあの熱を忘れたことも、後悔したこともありません。寧ろ、貴方に求められたことを今でも思い出しては嬉しく思っています。
トリーア、私は本気です。今の世、ただの『マインツ』と『トリーア』になれたからこそ改めて貴方と一つになりたいのです。」
そこまで言い切ると、「遂に言ってしまった」という風に顔を更に赤くし、俯いてしまった。
「…幻滅しましたよね。私は大司教区だった頃から卑しい考えを持って生きてきました。…失格ですよね。」
己を自嘲する、弱々しい声だった。
だからこそ、俺は決意を固めた。
「…そこまで言わせて断るわけにもいかねぇだろ。」
「…え?」
「俺は恋人の告白を、『はいそうですか』で済ませるような奴じゃない。分かった。プファルツは日曜まで帰ってこない。金曜日だ。金曜日の夜予定を空けておけ。ついでに土曜もだ。」
その言葉の意味を脳内で反芻したのだろう。マインツは再び顔に火がついたように赤くなり、言葉を失ったように口を小さく空けてわなわなと震えている。
「今度こそ、無かったことにも何かのせいにもさせない。良いな。」
暫くして、マインツから掠れそうな、しかし確かな声で返事が返ってきた。
「…はい。分かりました。空けて、おきます…」