コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
次の日の朝。
スタジオの鍵を開ける音が、やけに大きく響いた。
「……」
涼ちゃんは誰もいない室内を一瞬だけ見渡す。
元貴も、若井も、まだ来ていない。
それを確認して、ほんの少しだけ息を吐いた。
(今なら……)
機材の電源を入れ、キーボードの前に座る。
ケースからヘッドフォンを取り出し、ケーブルを差し込む。
カチッ。
耳を塞ぐと、外の世界が一気に遠のいた。
スタジオの空気も、人の気配も、全部遮断される。
鍵盤に指を置く。
――ポロン。
小さな音。
ヘッドフォンの中だけで鳴る、涼ちゃんだけの音。
指が、自然に動き出す。
昨日までの重さが嘘みたいに、
旋律が流れていく。
(……やっぱり、弾ける)
安心と同時に、胸がちくりとする。
誰にも聴かれないから、
評価も、役割も、期待もない。
ただ、音だけ。
少し強く弾いてみる。
弱く、ためらうようにも。
ヘッドフォン越しの音は、正直だった。
誤魔化しも、遠慮もない。
(この時間だけでいい)
涼ちゃんは目を閉じる。
誰かの顔が浮かびそうになると、
すぐに鍵盤を見る。
今は、
「キーボード担当」じゃなくていい。
「メンバー」でもなくていい。
ただ、
音を出している人間でいられる。
――カチャ。
遠くで、ドアが開く音がした。
でも、ヘッドフォンの中では、
音楽がすべてを覆い隠していた。
涼ちゃんは、まだ気づかない。
その背中を、
これから誰が見るのか。
静かな朝のスタジオで、
鍵盤の音だけが、続いていた。