ヘッドフォンの中で、音はどんどん濁っていった。
最初は、ただのフレーズだった。
いつもの指癖、いつもの流れ。
でも――
途中から、感情が絡まり始める。
昨日の会話。
元貴の強い声。
若井の、あの気まずそうな顔。
既読をつけなかったメッセージ。
「キーボード担当」という言葉。
全部が、一気に押し寄せた。
(うるさい……)
自分の中の声をかき消すように、
涼ちゃんは鍵盤を強く叩いた。
ガン、と低く重たい音。
和音が歪む。
指が、制御を失う。
強く、速く、
押し付けるみたいに鍵盤を叩く。
音楽じゃない。
感情そのものだった。
次の瞬間――
涼ちゃんは、力が抜けたように前に倒れ込み、
そのままキーボードに体を伏せた。
――ドン、と鈍い音。
音は止まる。
ヘッドフォンの中も、急に静かになった。
そのときだった。
後ろのドアが、開いていた。
元貴と若井は、
スタジオに入った瞬間の光景に、言葉を失った。
「……っ」
元貴が息を詰める。
若井は、一歩踏み出しかけて、止まった。
涼ちゃんは動かない。
キーボードに伏せたまま、顔は見えない。
ヘッドフォンは、ずれたまま。
鍵盤のランプだけが、静かに点灯している。
誰も、声をかけられなかった。
時間が、妙に長く感じられる。
時計の秒針の音。
遠くの空調の音。
涼ちゃんの背中は、上下している。
ちゃんと、息はしている。
でも――
今、声をかけたら壊れてしまいそうで。
元貴は、拳を握りしめる。
若井は、視線を逸らし、また戻す。
二人とも、分かっていた。
これは
「練習中のトラブル」なんかじゃない。
涼ちゃんの中で、
何かが限界まで溜まって、
音になって、
そして、崩れ落ちた瞬間だということを。
それでも、
誰も近づけないまま。
静寂だけが、
スタジオに流れ続けていた。
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