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第四章「人間界(後編)」
由美が卒業してから、三年の月日が流れていた。「パンでやねん」で働き始めた頃の由美は、朝早く起きる事が出来ず、遅刻する毎日だったが、今ではほとんど遅刻する事はなくなった。最初の頃はパンを棚に並べたり、レジを打ったり、サンドイッチを作ったりと、簡単な仕事しか任されていなかったが、最近では生地をこねて発酵させ、焼き上げるまでを任されるようになり始めた。たまに発酵時間を間違えて、生地をダメにしてしまう事もあったが、焼き時間を間違えて、その日の食パンを全て炭に変えてしまう沙耶のおかげで、由美の失敗は、あまり目立ってはいなかった。日々成長していく由美の事を祐一は優しく守っていた。浜太郎は、事ある毎に「徳を稼ぐ事をもっと考えたほうがええ」と祐一に促してきたが、祐一の中では正直徳などどうでもよかった。祐一の頭の中には、高校を卒業して大工になろうと働いていた時に言われた「金を追うな。金は後から付いて来る」という親方の言葉が今でも頭に焼きついていた。「徳は後から付いて来る」そう自分に言い聞かせ、由美を守る為に徳を惜しまずに使っていた。気が付くと、いつの間にか祐一の携帯に映し出される徳の数は、浜太郎の持つ徳の数を超えていた。
「沙耶、由美ちゃん。今日は俺、先上がらしてもらうな。店の片づけ頼んだで」沙耶の父はそう言うとエプロンを外し、そそくさと店の外へと出ていった。
「はーい」
「お疲れ様でーす」
店の掃除を済ませた由美と沙耶は、着替えを済ませると、明かりを落とし、店の裏口から外に出た。路地に置かれた室外機は、ゴウゴウと熱風を放ち、夏の暑さに拍車をかける。川のほうから「涼しくなあれ」とヒグラシの声が聞こえてくる。空には大盛りのソフトクリームが浮かび、ゴロゴロと近づいて来る怒った音と、まとわりついて来る重たい空気が、うるさかった蝉たちを黙らせ始めた。
「いやぁ、外は暑いねぇ」『ほんまやな。この暑さ、異常やで』
「おじさん最近、帰るの早いね」『そうですね。お! あそこのビルだいぶ出来てきましたね。そろそろ内装やり始めるのかな』
「なんか阪神の試合があるんだって」『沙耶も早く帰り。試合始まってまうがな』
「夏は、お客さん少ないからいいけどね」『足場もばれて、仮囲い外したんだな』
さっきまでバグダッドを思わせるような騒音を立てていた工事現場は静かになり、前の道路は打ち水でもしたかのように濡れている。
「今日は、これから翔太君とデートなんでしょ?」『そうなんか?』
「うん。何か大事な話があるからって、翔太いつもと違う感じだったんだよね」『そうなんですよね・・・』祐一は、肩を落とした。
「それってもしかして、プロポーズされるんじゃないの?」『きっとそうやな』
「どうかなぁ。そうなったら嬉しいんだけど、お母さん一人になっちゃうしなぁ」『そうだぞ由美、やめときなさい』
『なんや、まだそんなんなんか。長いこと付きおうとるんやから、そろそろ認めてやってもええやろ。うちの沙耶なんて、ええ男も見つけんと、いつまでもプラプラしよってからに、困ったもんやで、ほんま』
『いやぁ、確かに頑張ってクロス屋として独立したみたいだし、由美の事も大切にしてくれてるから、翔太のヤツの事は、僕も認めてるんですけどね』
『ほんなら、ええやんか』
『結婚となると、それ以外の事が色々と・・・』
祐一は、道端で枯れかけている雑草を見つめた。
「それより沙耶。今日はバイクで来たんでしょ? 帰り気を付けなよ。あんた、いっつもボーッとしてるんだから」
「何よ由美、お父さんみたいな事言って。大丈夫だって。遊びに行くときも電車より速いし、チカンもいないから、ぜったいバイクのほうがいいよ。由美もバイク買えば? 一緒に風と友達になろうよ」『アホか、こいつ』
「えー、あたしは、いいよう。お金貯めて、車買うよ」『沙耶ちゃん今、凄いセリフをサラッと言いましたね』
沙耶がバイクのシートを開け、ヘルメットを取り出すと、突然浜太郎の首に掛けられていた携帯から、アラームの音が鳴り響いた。
『え? これ、何の音ですか?』
『あ、俺の携帯や。なんやろ? ちょっと俺、天界に戻るわ』
『僕も一緒に行きますよ』
祐一は携帯を開き、慌てる浜太郎の後を追って天界へ戻った。
浜太郎は、未来の映し出されたモニターを真剣な表情で見つめている。
「どうですか?」
「10分後に沙耶がバイクで、そこの工事現場に突っ込むみたいやな。こいつ、また信号無視しとるで」
祐一は、浜太郎のモニターを覗いた。沙耶はステップから足を踏み外し、思わずアクセルをひねってしまったようだ。バイクから落ちた沙耶は、現場のマンホールに落っこちてしまった。
「怪我は、大丈夫なんですか?」
「ええと、なんや、足を骨折するみたいやな。これ、ほんまかいな、ホールインワンやんけ」
「じゃあ、すぐに助けないと」
浜太郎は画面を見ながら顎に手をやり、何やら考え込んでいる。
「う~ん。ま、助けんでええやろ」
「え? 何でですか」
祐一は、再びモニターを覗き込んだ。
「だってほら、複雑骨折で全治半年って出てますよ」
「まぁ、仕方ないやろ」
素っ気ない態度をとる浜太郎に、祐一は腹が立った。
「仕方なくねーだろ! 沙耶ちゃん、可哀相じゃねーか! 何で、助けてやらないんだよ! あんた、沙耶ちゃんの守護霊だろ!」
祐一が感情を露わにすると、浜太郎は小指で耳をほじった。
「落ち着けて。ほんま相変わらず、すぐ感情的になるやっちゃな。タメ口になっとるし。ええか、沙耶はな、親にあかんて言われとんのに勝手にバイクなんか買おてやな。しかも、常に緊張感を持って運転せえへんから、こないな事になるんや。今朝かてこいつ、ボーッと運転しとって、三回も信号見落として無視しとんやで。うち一回は、歩行者とぶつかりそうになっとったしな。それでもまた懲りんと、信号よう見んで、こないなしょうもない事故起こすんやからな。ここで助けても、また同じ事しよるやろ。少しは痛い目みんと分からへんねん。これは、ええ薬や」
「でもこれ、信号無視するのは、わざとじゃないですよ」
祐一は、繰り返し映し出される映像を見ながら、モニターを指差した。
「ええんや、運命管理センターが沙耶の行いを正す為にそうしたんや。人でも跳ねへんでよかったで、ほんま」
「でも、全治半年って、何もここまで痛い目に合わせなくても・・・」
『事故発生5分前です』
モニターの脇に付いているスピーカーから、アナウンスと共に警告音が発せられ始める。
「あ、あと5分しかない。早く助けてあげて下さいよ」
「わからんやっちゃの。ほれ」
浜太郎は『救う』のボタンを押した。
「見てみい。助けるには、こないに徳がかかるやないか。こんなん無理やて、あかんあかん」浜太郎は、臭い匂いを追い払うかのように顔の前で手を振った。
「そう言う問題じゃないだろ! 早く『実行』ボタン押せよ!」
祐一は再び感情を露にし、浜太郎にボタンを押すよう訴えるが、浜太郎はただ目をつむり首を横に振るだけで、祐一の言う事を全く聞こうとはしない。
『事故発生1分前です』
警報音の間隔が短くなった。
「ほら! 早く押せよ!」
「押さへんて」
「いいから押せって!」
祐一は、浜太郎の手首をつかみ、組んでいる腕を力ずくでほどいた。
「やめえて、手離せや」
「早く押せって!」
「嫌やて」
『30秒前です』
祐一の感情を煽るかの様に、警報音の間隔が無くなり、モニターが赤く点滅し始める。
「やばい! 早くしろ!」
「嫌や!」
「このヤロウ。押せっ!」
「あかん!」
『10秒前、9、8、7・・・』
祐一の行動をあざ笑うかのように、赤い点滅に合わせ、機械が秒読みをはじめる。
「あ! 沙耶ちゃん! 危ない!」
「やめーてっ!」
由美に別れを告げた沙耶は、勢いよく発進したバイクから足を踏み外し、アクセルをひねった。
「沙耶! 危ない!」
由美が叫ぶと、沙耶の乗ったバイクは赤信号を無視し、道路を横切り、現場のAバリをぶち壊し、タイルが半分貼られたビルの壁に激突した。壁にぶつかる寸前で、バイクから振り落とされた沙耶の体は、カラーコーンをなぎ倒し、口を開けたマンホールに、その半身を食べられている。
由美は車の往来を確認しながら、慌てて道路を渡ると「ちょっと沙耶! 大丈夫!」と叫びながら、マンホールに飲み込まれかけている沙耶の元へと駆け寄った。
「痛たた・・・」沙耶はゆっくりと体を起こした。
「沙耶。大丈夫?」駆け寄った由美は、沙耶の肩に手をやり、肩を揺らした。
「え、う、うん。なんとかね」
「よかったぁ。あ、血が出てるよ」
砂の付いた沙耶のヒザやヒジからは、血がにじみ出ている。
「うん、ちょっと擦り剥いただけだよ」沙耶は血のにじむヒザに手をやった。
「ほかにケガは無いの?」
「うん、多分、大丈夫」
「まったくもう。だから、気を付けてって言ったじゃん」由美は大きく息を吐くと、怒った口調になった。
「ごめ~ん」沙耶はヒザを抑えながら立ち上がると、ビルのほうを向いた。
「あーっ! 私のバイクが・・・」
「あーあ、完全に壊れてるね」
「そんなぁ、まだローン残ってるのにぃ」
祐一と浜太郎は、モニターで沙耶の無事を確認していた。
「間に合った。よかったぁ」
祐一は、モニターを見ながら、顔の険をほぐした。
「よかったや、あらへんがな。お前、何してくれとんねん。あ~あ、せっかく貯めた徳が減ってもうたがな」浜太郎はモニターに縋り付いた。
「まあまあ、いいじゃないですか、徳なんて」
「ひとつもよくないわ! て、あれ? 半分しか減ってへん。何でや?」
浜太郎は、不思議そうにモニターを見つめた。
「あ! そうか! よかったぁ」
「ね、助けてよかったでしょ」
「そうやないがな。お前、自分の徳よう見てみいや」
「自分の徳?」
なんの事だかよくわからない祐一は、自分のモニターを覗いた。
「あれ? 減ってる・・・」
「せやろ。お前、ボタン押す時、俺と一緒に押してもうたもんな。せやから、お前の徳も、沙耶を助けるのに必要な徳の半分を持っていかれてもうたんや」
「へえ、これってそいう仕組みになってるんですか」
「へえって。お前、自分の徳が減ってもうたのに、何とも思えへんのか?」
「だって、沙耶ちゃん助けたかったし。助かったんなら、徳なんてどうでもいいですよ」
祐一は、モニターに映る二人の姿を笑顔で見つめた。浜太郎は、何故か複雑な表情を浮かべ、祐一のことを見つめていた。
事故を見ていたスーツの男が、脇に抱えていた上着からスマホを取出し電話をかけると、程なくして救急車がやって来た。大した怪我はなかったが「念の為に病院へ」と救急隊員に促がされた沙耶は、浜太郎と共に救急車の後部へと乗り込んだ。
「沙耶、ホントに大丈夫? やっぱり、あたしも一緒に行くよ」
「大丈夫だってば。帰りはお父さんに迎えに来てもらうから、心配いらないよ。それより、翔太君待ってるんでしょ。早く行ってあげなよ」
「う、うん」
『あーあ、また野球選手への夢が、遠なってもうたがな』浜太郎は、携帯を見つめながら口を尖らせた。
『まあまあ、また頑張って貯めればいいじゃないですか』
『何、他人事みたいに言うとんねん! お前が余計な事さらすから、こうなったんやろが!』
『す、すみません』
祐一は、小さい事に腹を立てる浜太郎に対し、一応あやまった。
『まったく、すまんじゃ済まんっちゅうねん。せや、これから翔太のとこ行くんやろ。感情的になって、爺さんの首絞めへんように気を付けなあかんで! わかったな! 大切なのは、平常心やぞ! 平常心!』
『わかってますって。どうして毎回、二回言うのかな』
ブツブツと文句をたれ続ける浜太郎を遮るかのように救急隊員がドアを閉めると、沙耶と浜太郎を乗せた救急車は再びサイレンを鳴らし始め、病院へと向って行った。
沙耶を見送った由美は、スマホを取り出した。翔太の番号が表示され数回コールすると、充電するのを忘れていたスマホのバッテリーが切れた。
「あー、もう!」
由美はスマホをしまうと、急いで翔太との待ち合わせ場所へと向かっていく。どんよりとした雲と、ゴロゴロという音が、由美の背中を追ってくる。
由美は待ち合わせ場所である駅前の噴水に着くと、人込みの中で背伸びをしながら翔太の姿を捜し始めた。涼しいミストをまき散らす噴水の反対側に翔太の姿を見つけると、由美は汗を流しながら、翔太の元へと駆け寄っていく。
「翔太! 遅れてごめん!」
「よう、遅いかったな、携帯つながらないし、心配したぞ。何かあったのか?」
『遅かったのう。何か、あったのか?』
『ええ、まぁちょっと』
「実は、沙耶が・・・」
祐一が、お爺さんに事の経緯を話し始めると、由美も翔太に、沙耶が事故を起こした事を話し始めた。引き離したと思った雲と音が、徐々に追いついてくる。
「で、沙耶は大丈夫なのか?」
「うん、擦り傷程度で済んだみたい」
「そっか、よかった。だけど、それだけの事故で擦り傷だけなんて、沙耶って運がいいんだな」
「だよねぇ、あたしもそう思った。目の前で見てて、もう絶対大ケガだって思ったもん」
『そんな事があったのか。お前さん、なかなかいいやつじゃのう。じゃが、あまりそういう事は、せんほうがいいぞ。他の者が真似して、徳の貸し借りでもし始めたら困るからのう。お前さんと違って、悪い事を考える守護霊も中にはおるんじゃからの』
『はぁ、そうですね』
「それで、大事な話って何?」由美が翔太に尋ねた。
『そうだ! 何だ?』祐一は、由美と共に翔太の顔を見上げた。
「ん、まあ、後でな。とりあえず、メシでも食いに行くか」
「えー、何よ。ちょっと待ってよぉ」
『えー、何だよ。ちょっと待てよぉ』
言葉を濁し、駅のロータリーへと向かう翔太の背中を由美と祐一は追った。
追いついて来た雲と音に引き連れられてきた光が、暗くなった空をストロボのように照らし始めると、熱くなった地面を一気に冷やそうと、大勢の雨粒達が一斉に空から舞い降りて来た。
「うわ、降って来た」
由美が頭の上に手をやると、翔太は由美の後ろへ回り、覆い被さるように身をかがませた。
『うお! 何すんだよ。気持ち悪いな、お前』
祐一は携帯の保留を押し、由美の背中から離れた。
『う~ん、冷たいのう』お爺さんは翔太の背中にしがみついてる。
『まったく、なんで・・・』
二人の姿を見た祐一は、出しかけた言葉を止めた。翔太は、由美を雨から守りながら、屋根に脚立の乗った白い軽の1BOXのドアを開け、助手席に由美を乗せた。翔太が慌てて運転席へと乗り込むと、祐一は道具が満載されているツーシーターになった車の中へと乗り込んだ。翔太は、建設会社の名前の入ったタオルのビニールを破くと、それを由美に手渡した。
「これ使えよ」
「ありがとう。翔太のは?」
由美がそう言うと、翔太は頭に巻いていたタオルを取り、それで顔を拭いた。翔太が車のエンジンを掛け、視界を遮る雨粒達を「退いて下さい」とワイパー達が撥ね飛ばすと、FMのかかった車が発進する。
『なんだかこいつ、今日は妙に無口だな。ねえ、翔太のやつ、いったい何を言うつもりなんですかね? 翔太から、何か聞いてないですか?』祐一は、お爺さんに尋ねた。
『相変わらずの、アホじゃのう。守護霊と会話が出来る訳が、ないじゃろが』
『それは、そうですけど』
『まぁ、おなごに言う大事な話なんてもんは、昔から大体相場は決まっとるじゃろうがのう』
『あ! もしかして、別れ話ですかね?』
『はいはい、そうじゃな』
何かを悟ったのか、いつもはお喋りな由美も沈黙を保っている。祐一が眉間に力を入れていると、ラジオから昔好きだった歌が流れ始めた。
『サマードリームか、嫌な歌が流れるな。空気読めよ』
ワイパーの動きがゆっくりになり、カチカチとウインカーが点滅すると、車はガシャガシャと音を立てた。揺れる車が道路から逸れると、翔太は小さなイタリアンレストランの駐車場に車を停めた。
「翔太、ここって予約しないとダメじゃなかった?」
「ん、うん。まあな」
車から降りた翔太はスライドドアを開け、後ろに掛かっていた安っぽいジャケットをハンガーから外すと、それを身に着けた。
翔太が敷居の高そうな店の扉を開けると、扉についていたベルが音を立て、二人は店に入った。店内には四人掛けの四角いテーブル席が四つ並び、アンティークの家具や、優しい間接照明の明かりが、不安と緊張が絡み合った祐一の気持ちを落ち着かせた。
二人は、めかし込んだ老夫婦の座る席の隣の席へと案内される。席に着いた二人は食前酒を勧められ、由美はグラスワインを頼み、翔太は水を頼んだのだが、翔太はメニューを見つめ、料理を頼むと「やっぱり僕にもワインを」と、珍しくアルコールを頼んだ。
『おいおい、お前、車だろ』
『まあ、まあ』
二人のグラスに、ワインが注がれ、洒落た料理が給仕され始める。二人は仕事の話や友達の話などを楽しそうにしているが、いつもと違い、どこかぎこちない。お爺さんは、翔太の後ろで珍しい料理に喜んでいるが、祐一の目には、全てが怪しく映っていた。歯がゆい時間が、もどかしく流れるのに対し、料理の味もワインの味も、いつの間にか祐一の記憶から消え去って行く。わざとらしさを感じさせるような空気の中で、全てをひっくり返したいと思う祐一の心を流れるBGMと大人な店の雰囲気が羽交締めにする。食べ終えた食器が引かれ、テーブルにデザートが添えられると、ぎこちなく動く翔太の右手が、ジャケットのポケットへと伸びていく。
『もったいぶってないで、早く出せよ!』
祐一がそう言うと、翔太は想像通りの物をテーブルの上に置いた。由美は、わざとらしく驚きながら箱を開けると、取り出したリングを指にはめた。祐一の心に、由美の喜びが伝わってくる。涙を流す由美の後ろで祐一は、お爺さんのしょぼい顔を見つめながら、由美とは異なる感情を抱きながら涙を流していた。
『これからは、このジジイと毎日一緒か・・・』
『今、何か言ったか?』
レストランを出た翔太は、車に戻るとジャケットを脱ぎ、座席に置いてあったタオルを首にかけた。二人は手を繋ぎ、夜空に浮かぶ月を見ながら、翔太の酔いを醒ます為に、隣にある公園へと歩いて行った。雨はすっかり上がったようだが、重たくなった空気には、ホコリの匂いが混じっている。時計台の前に置かれたベンチの前に来ると、翔太は首にかけていたタオルで濡れたベンチを拭いた。二人は寄り添う様にそのベンチに座った。
『翔太、あんまり近づくな』
『まあまあ、いいじゃないか』
『あら、久しぶりね』
祐一が、しょぼいお爺さんから身を逸らしていると、向かいのベンチに座っていた女が声をかけてきた。
『何じゃ? 知り合いか?』
『あ! あの時の地縛霊さん。という事は、ここはあの時の公園か・・・』
祐一は周りを見回した。
『何じゃ、あんた地縛霊なのか?』
『そうよ。私は、昔この公園で・・・』
『その話は、もう聞きましたから』
『あらそう。話したかったのに、残念ね』
残念がる地縛霊の女に、翔太の背中から離れたお爺さんが、近づいて行く。
『お嬢さん。どんな事情があるにせよ、いつまでもこんな所におってはいかんぞ。ちゃんと、成仏しないとじゃな・・・』
お爺さんは、いつものようにダラダラと説教を始めた。
『あれさえ無ければな・・・』
祐一は、これからの事を思い、大きくため息をついた。
『何よいきなり、うるさいジジイね。あんた、死神か何か?』
『いや、そうではないが』
『だったら、いちいち説教しないでよ! 私の事は放っといて!』
『やれやれ』
お爺さんは、呆れた顔で地縛霊の女のことを見つめたが、地縛霊の女は、そんな事は全く気にも留めずに、ベンチで寄り添う由美と翔太の姿を羨ましそうに見つめている。
『いいわねぇ、ずいぶん仲の良さそうなカップルね。本当なら、私もこの二人と同じようになれたはずなのに。羨ましいわぁ。ん? うらやましい? うらめましい、うらめしい。う~ら~め~し~や~』
地縛霊の女は突然前かがみになると、ブランと両手を前に出した。そして顔を髪の毛で覆うと、髪の毛の隙間から、うらめしそうに由美と翔太のことを見つめた。
『うお! ちょ、ちょっと!』
その姿を見た祐一は恐怖のあまり慄いた。
地縛霊の女は、ゆっくりと姿勢を正すと、両手で髪をかきわけ、舌を出した。
『冗談よ。ビックリした? そんな顔しちゃって、可愛いわね』
『たちが悪いのう』
『あなた達二人も、付き合ってるの? お似合いね』
『そんな訳ねーだろ! どこが、お似合いなんだよ!』
『こいつも、いいかげんアホじゃな』
『今、何か言った?』
地縛霊の女は鋭い目つきで、お爺さんを睨みつけた。
『い、いやいや』
『だけどこの二人、デートするなら他の場所に行ったほうがいいわよ』
『どうしてじゃな?』
『この公園、最近夜になると変な連中がたむろしてるのよ』
『変な連中って? 不良の事ですか?』
『そうよ。ほら、来たわ』
祐一が、地縛霊の女が目をやる方を見ると、チャラチャラとだらしない格好をした3人の若い男が、公園の中へと入って来た。
「いたいた、あれだべ」
「アキラ、今日は俺が先な」
「俺、二番目でいいっす」
若い男達は横並びで歩きながら、こっちへと近づいて来る。面倒くさい事になる前に早く逃げろと思った祐一は、おもむろに携帯を開いた。しかし、祐一は携帯を見つめると少し迷い「保留」のボタンを押し、携帯を閉じた。
これ見よがしに見せるタトゥー、何を刻みたいのかよくわからないが、そういうものは心や頭に刻むものだろう。自らの愚かさを吐露しているようなヤツらは勝手に痛い目にあうもの。祐一は自らの経験から、そのことを知っていた。
『あら、今日は、いつもの憑りつかれてる女の子は一緒じゃないのね』
「こんばんわ~。ずいぶんいい雰囲気だね~」
「こんな所で青カンですか?」
「俺達も混ぜてくれよ、俺、金玉重くなっちゃってさ」
男達は、いかにもなセリフを吐きながら近づいてくる。祐一は男達の守護霊を睨みつけたが、守護霊達は素知らぬ顔をしている。金髪の男が由美に近づき声をかけると、翔太はベンチから立ち上がった。
「お、カッコいいねぇ、三人相手に勝てるのかなぁ」
「そんじゃ、貯まったストレスも解消させてもらおうかな」
「このクソ暑いのに、面倒くせぇな」
ポキポキと指を鳴らす、リーダー格っぽい短髪の男が、翔太の顔を殴った。怒った由美が立ち上がると、翔太は由美を背中に回した。チビの男が無抵抗の翔太の足を蹴る。翔太がチビの体を押し飛ばすと、金髪の男が翔太の脇腹を殴り、翔太が金髪の相手をしようとすると、短髪が翔太の顔を殴った。
『うわ、痛そうね』地縛霊の女は肩目を閉じた。
『ダメだな、あいつ。こういう時は一番強そうなヤツを集中して殴らないと。そいつさえ倒しちゃえば、他のヤツは手を出してこなくなるのに。そのガタイで本気で殴れば大抵のヤツには勝てるだろうに』
『う~む、喧嘩などした事がないからのう』
『青春なのねぇ』地縛霊の女は、うっとりとした表情を浮かべた。
『由美のやつも、きゃーきゃー言ってないで早く逃げろよ。お前が、足手まといなんだって。あ、ほら、またいいの食らった。そんなんじゃ由美の事守れないぞ』
『まあまあ。わしから見ると、翔太は必死に由美ちゃんの事を守ろうとしておるように見えるがのう』
『そうね、あの子カッコいいわね』
『わしの孫じゃからのう』
『お爺さんに似なくて、よかったわね』
『どういう意味じゃ』お爺さんは眉を顰めた。
確かに翔太は、必死に由美の事を守ろうとしている。だが、相手に勝てなければ結局は由美の事を守る事はできない。ピンチを嗅ぎ付けた正義のヒーローが突然やって来て助けてくれるわけでも、人気のない公園に、たまたま通りかかった人が通報してくれて、素早く警察が来てくれるわけでもない。現実は、そんなに甘くはないという事を祐一は知っていた。
『お前さん、いつになく冷静じゃのう』
『ええ、まあ。いつまでも感情的になって怒ってばかりじゃいられないですよ』
『よしよし、成長したんじゃな』
祐一の心は、秋の風景のように穏やかだった。静かに流れる小川の向こうには、刈り取られた稲が乾いた田んぼに吊るされ、日向で横になる猫は、大きくあくびをしている。そんな気持ちでいる祐一は、冷静に目の前で起こっている事を見ていた。
男達の攻撃を耐えていた翔太が、ついに倒れる。お爺さんの携帯のアラームは鳴らない。倒れた翔太を短髪が押さえつけ、早く由美をさらえと他の二人に促すと、二人は嫌がる由美の腕と髪の毛をつかみ、由美の体を引きずり始めた。
『あれ、このままじゃ、まずくねえか』
『あの女の子、さらわれちゃうわね』
不安に思った祐一は、携帯を手に取り見つめた。
『確かにまずいのう』
『でも、アラームが鳴らないから、大丈夫ですよね?』
そう尋ねた祐一の顔を、お爺さんはキョトンとした顔で見つめた。
『大丈夫って、何がじゃ?』
『いや、だから。アラームが鳴らないってことは、このまま由美がさらわれて、輪姦されたりしないって事ですよね?』
『アホか、お前は。神様じゃないんだから、そんな事、わしが知るわけないじゃろうが。それに、携帯のアラームというのは、大ケガをするとか、命に影響を及ぼすとか、、そういう危険が迫って来た時にしか鳴らんもんなんじゃぞ。お前さん、そんなことも知らんのか』
祐一の心が、一気に冬へと変わった。小川は凍りつき、灰色の空が落とす白い粉を吹き荒れる冷たい風が、田んぼへと叩きつける。冷たく積もった雪の上には、一羽のカラスの躯が横たわっている。冷静さを失った祐一は、慌てて携帯を開いた。
『これ、この状況を回避するには、どうしたらいいんですか?』祐一はあたふたと携帯を弄りながら、お爺さんに尋ねた。
『う~ん、「救う」は、アラームが鳴った時にしか使えんし、「勘」も、この状況ではのう。成り行きに任せるしかないんじゃないのかねぇ』
『そんな・・・』
祐一は、未だかつてないほどに頭を働かせたが、この状況を打破する方法が見つからない。祐一は、男達の守護霊を昔の自分に戻り、睨みつけた。
『おい、お前ら。お前らのこのクズ共、今すぐ何とかしろや。三代祟るぞ! このヤロウ!』
虚しい行為だという事はわかっていた。だが、祐一には他にどうする事もできなかった。祐一が、ドスを聞かせた声で守護霊達を威嚇すると、守護霊達はこっちを向いた。
『そんなこと言われても、こいつら罰を当てても、ちっとも徳を積もうとしないんだよ。なあ?』
『そうそう、もうこれ以上徳を使うの勿体ないし、いいかげん守護霊放棄しようかって思ってるんだよな』
『もう面倒くさいから「放棄」ボタンをポチッと押しちゃいますか』
『そうだな』
『そうするか』
いい加減な態度をとる守護霊達は、自分達の首に掛かっている携帯を手にした。
『まあ悪いけど、そう言う事だからさ。後は自分でなんとかして・・・』
睨み続ける祐一に、適当な言葉を言いかけた短髪の守護霊は、ポッカリと口を開き、上を向いた。
『いいかげんにせんかっ! こやつらを正しい道に導いてやるのが、お前ら守護霊の役目じゃろうが! 何が放棄じゃ! しっかり導かんか!』
祐一の背中を押すかのような衝撃と共に、地響きにも似た迫力のある太い声が、守護霊達を怒鳴りつけた。引きつった顔で祐一の後ろを見上げる守護霊達は慌てて携帯を開くと、震える手でボタンを押した。すると、公園の公衆便所から、冴えない顔のわりに、なかなかいい体つきをした男が、お腹を擦りながら出てきた。冴えない男はこちらの状況に気付くと、甲高い声で怒鳴りながら、のたのたと駆け寄って来る。
「お前ら、なにやってんだ!」
祐一は、後が気になり振り向いた。だがそこには、しょぼい顔のお爺さんと、地縛霊の女が澄ました顔でベンチに寄り添っているだけで、さっきの声の主はいない。
『そうだったんだ』
『内緒じゃぞ』
冴えない男は、由美を引きずっている金髪とチビを威嚇しながら近づいていく。
「なんだ、このデブ。関係ねぇヤツはすっこんでろよ!」
額から汗を流す金髪は、近づいてくる冴えない男に殴りかかった。冴えない男は金髪のパンチを払いながら金髪の手首をつかみ、素早く間接を決める。
「痛ぇ!」
手首をひねられた金髪は、顔を歪めながら地面に膝をついた。チビは一瞬怯んだ様子を見せたが、由美の髪を放すと、冴えない男に飛び蹴りをする。冴えない男は、片手で金髪の間接を決めたまま、もう片方の手でチビの足首をつかむと、一気に頭の上まで持ち上げて足を放した。チビは地面に顔面を強打し、顔を抑えてのた打ち回る。
『強いな、こいつ』
『痛そうじゃのう』
『デブのくせに、なかなかやるわね。だけどあれは、誰か教えてあげたほうがいいわね』
冴えない男の守護霊は、こっちを見ると、背中から離れ、祐一達の元へと、やってきた。
『いつも、お宅のベンチで弁当を食べさせてもらって、すみませんね』
『こいつ、強いわねぇ。弁当好きな、ただのデブじゃなかったのね』
『実はこいつ、少林寺拳法をやってまして、有段者なんですよ』
『人は、見かけに寄らんもんじゃのう』
「テメー、いい加減にしろよ!」
短髪は立ち上がり、額の汗を拭うと、冴えない男に近づいていく。冴えない男は、金髪の背中に重そうな拳を落とすと、金髪の手を放した。金髪は息が出来ないのか、苦しそうに地面に転がっている。冴えない男が、近づいてくる短髪のほうに体を向けると、短髪は冴えない男の顔を殴ると見せかけ、膝に蹴りを入れた。汗だくになった冴えない男が、顔を歪めて膝を落とす。
『こいつ、喧嘩慣れしてんな』
『キャー、負けるなデブゴン!』
短髪は、間髪入れずに冴えない男のアゴを狙ってパンチを出した。冴えない男は左手でパンチを避けながら右の肩を引いた。バランスを崩した短髪の顔面に、冴えない男の正拳突きがジャストミートする。
『うわ、前歯いったな』
短髪の男の汗と白い歯が、街燈に集まる虫達の間をすり抜けていく。短髪は、何とか倒れずに持ち堪えようとしたが、眼球を揺らすと膝を震わせ、地面に崩れ落ちた。冴えない男は、倒れた短髪の脇腹に蹴りを入れ続ける。
『完全に、ノックアウトだな』
『これこれ、やり過ぎじゃろう』
『この状況を見たら、仕方ないですよ。昔の自分を思い出してしまったんでしょう』
『昔の自分て、何なのよ』
『この子にも、過去に色々とあったんですよ。でも、確かにこれはやり過ぎかな』
冴えない男の守護霊は、携帯を開くとボタンを押した。すると、公園の入り口にパトカーが停まった。パトカーから下りて来た警察官は、路上に止まっていたシャコタンの車の運転席を覗き込んだ。警察官は車の中にいる人間と、何やら話をしているようだ。しばらくすると、シャコタンの車は走り去っていった。警察官はこちらの様子に気付くと、公園の中へと入ってくる。警察官の姿に気付いた金髪は、慌てて立ち上がり逃げ出した。
「テメー、訴えてやるからな」
短髪は立ち上がりながら、冴えない男にダサいセリフを吐いた。
「アキラ先輩やばいっすよ、俺ら葉っぱ持っちゃってますよ。早く逃げましょうよ」
チビが短髪に促すと、二人は慌てて夜の闇へと、トンズラをかました。
由美達は、やって来た警察官に事情を聴かれる。冴えない男は溢れる汗を拭いながら息を整えている。警察官は、被害届を出すようにと、由美達に促したが「そんなつもりはない」と翔太が言うと、気を付けて帰るようにと促し、去っていった。遠くに救急車のサイレンが聞こえると、警察官の乗ったパトカーは赤色灯を点け、サイレンを鳴らしながら走り去っていった。
「ありがとうございました」
翔太が、冴えない男に礼を言うと、冴えない男は右手を上げた。
『こいつ、少しチャカってるな』
「あの・・・」
由美が何かを言いかけると、冴えない男は「仕事があるから」と言い、背を向けた。冴えない男は、その背中に哀愁を漂わせながら、公園の外へと、社会の窓を開けたまま去って行った。
「翔太、大丈夫?」
「由美のほうこそ、大丈夫か?」
「全然大丈夫だよ。でも、あの人強かったねぇ」
「そうだな。俺も空手でも習いにいこうかな」
お互いを心配し合い、寄り添う由美と翔太の姿を地縛霊の女は、ベンチに座りながら羨ましそうに見つめている。
『いいわねぇ、本当に羨ましいわ。ん? うらやましい? うらめましい、うらめしい・・・。う~ら~め~し~・・・』
『それは、もういいですって』
祐一は、冷めた口調で言った。
『つまんないの!』
地縛霊の女は、ふて腐れた態度をした。そんな地縛霊の女に、お爺さんは近づくと、声をかけた。
『あんた、ここにどのくらいおるんじゃ?』
『そうねぇ、かれこれ20年くらい居るかしら』
『20年?』
『そうよ』
『あんたの彼氏さんとやらは、自分が死んだ時、いくつじゃったんじゃ?』
『ええと、51歳かな』
『それじゃあ、あんたの彼はもう、天界に昇っておるかもしれんな』
『え! そうなの? ホントに?』
『まあ、まだ生きておったとしても、わしぐらいの歳にはなっておるじゃろうな』
『げ! マジ? 私、オジンは好きだけど、ジジイは嫌よ!』
お爺さんは、大きなため息をついた『天界に行けば、いい男が沢山おるぞ。もしかすると、運命的な出会いが天界で待っておるかもしれんのう』
『ホント! ホントに?』
地縛霊の女は突然ベンチから離れると、目をキラキラと輝かせながら、お爺さんに詰め寄った。
『あ! ベンチから離れた』祐一は目を丸くした。
『ほ、本当じゃとも』
『私、天界に行くわ! 早く連れて行って!』
『やれやれ、おーい! 死神さーん!』
お爺さんが空に向かって叫ぶと、夜空に浮かぶ雲の隙間から、スゥ~と死神が鎌を片手に降りて来た。
『なんだ? 誰か、俺を呼んだか?』
『今、わしが呼んだんじゃよ』
『んん?』死神は目を細めた『おー! なんだ爺さん、久しぶりだな。お! お前もいたのか、どうだ? 記憶は戻ったのか?』死神は祐一の姿に気付くと、嬉しそうに尋ねた。
『いや、記憶はまだ・・・』
『そんな事はどうでもいいから、このお嬢さんを早いとこ天界に連れて行ってやっておくれ。気が変わりでもしたら、また面倒じゃからな』
『このお嬢さんて。え? マジかよ!』死神は女の顔を見て目を丸くした『よく、この女を説得出来たな。俺が20年かけて説得しても、微動だにしなかったのに』
『そりゃ、あんたの説得の仕方が良くなかったんじゃろ』
『ですね』祐一は頷いた。
『何か、言ったか?』
『いえ、別に』
『まあ、そう言う事なら、とっとと行くか。それ!』
死神は鎌で夜空に浮かぶ雲を切り裂くと、光のエレベーターを呼んだ。
『さあ、行くぞ』
『じゃあ、またねぇ。あら、よく見ると、あんたなかなかいい男ね。私と付き合いなさい!』
地縛霊だった女は、死神の腕に自分の腕を絡ませると、死神に擦り寄った。
『なんだよ、くっつくなよ。この間まで、変な顔って言ってたくせに。だいたい、死神と霊が付き合える訳ねぇだろ』
『何よ、べつにいいじゃない』
二人は光のエレベーターに乗り込むと、天界へと昇って行った。
『やれやれ。やっと昇ったか』
月を見る祐一達の前で、翔太と由美は二人きりになった公園で、いつもの如くいいムードを醸し出し始めた。
「翔太」
「ん?」
由美は、翔太の腕に自分の腕を絡ませた。
「カッコよかったよ。これからも、ちゃんと私を守ってね」
由美はそう言うと、翔太の体を引き寄せ、唇にキスをした。
『あ・・・。まずいのう』お爺さんは、祐一から身を離した。
『ふん。他人に助けられたけど、とりあえず合格にしてやるか』
『あれ? どうしたんじゃ? いつもみたいに、怒らんのか?』お爺さんは、祐一の顔を横から覗き込んだ。
『べつに、キスぐらい、いいんじゃないですか』祐一はお爺さんの顔を横目で見ながら言った。
『おや? やっと、大人になれたようじゃのう』
『やっとって何ですか、やっとって』
『まぁまぁ、そう怒りなさんな』
『それにしても、これからはこのジジイと毎晩一緒にいなきゃいけないのか・・・。やっぱり嫌だなぁ。神様、やっぱり二人を別れさせて下さい』祐一は月を見上げ、祈った。
『今、何か言ったか?』
『いいえ、べつに』
──二ヶ月後。祐一の祈りは、天には届かず、由美と翔太は丘の上の小さな白い教会で結婚式を挙げていた。
独立したばかりの翔太は、少ない貯金を下ろし、この教会を借りたようだ。親しい人間だけを呼んだ質素な式だが、まだ若い二人には相応しい式だと祐一は思っていた。パイプオルガンの音が鳴り響き、チャペルの扉が開かれると、ウエディングドレスに包まれた由美が、晶子に連れられ真っ赤なバージンロードを歩き始める。祐一は、小さな遺影を持つ晶子の隣に浮かんでいた。待っていた翔太の前まで来ると、祐一は由美の肩を抱き「頼んだぞ」と、翔太の顔を見つめた。その後の神父の言葉も、指輪の交換も、歌われる讃美歌も、祐一の記憶にはたいして残らない物だった。
純白に身を包んだ由美が、暖かい日差しを反射しながら眩しく輝いている。二人を祝福する妖精のような花びらが舞う中を由美は幸せそうに微笑みながら進んでいった。
「由美、おめでとう。先、越されちゃったね」沙耶は満面の笑みで由美を見つめた。
「ありがとう、沙耶」由美は沙耶の瞳が潤んでいるのに気づくと、同じように瞳を潤ませた。
『おめでとさん。由美ちゃん綺麗やなぁ』
『おお、浜ちゃん。ありがとのう』お爺さんは翔太の背中から降りてきた。
『ちっとも、めでたくなんかないですよ。なんで、俺がこんなジジイと、毎晩一緒にいなきゃいけないんだよ』祐一は、涙を隠しながら悪態をついた。
『ええやないか、二人で寄り添って寝れば』浜太郎は祐一の肩を叩いた。
『じょ、冗談じゃないですよ! 気持ち悪い!』祐一は眉を顰めると、肩を竦めた。
『よかったわね、祐一さん』トキが優しく微笑んだ。
『ちっともよくないですよ』祐一は口を尖らせた『だいたい由美のやつが、血迷って翔太なんかと結婚するからこんなジジイと・・・』祐一は冷ややかな目でお爺さんの顔を見下ろした『晶子のやつも、ちゃんと反対してればこんな事には・・・』
『何言ってるのよ。確かに最初、由美ちゃんの結婚が決まった時は、晶子寂しそうにしてたけど。その後、翔太さんが一緒に住んでくれるって言った時、晶子とても嬉しそうにしてたじゃない。こんなにいい人は、他にいないわよ。心から祝福してあげなくちゃね』トキは優しい口調で言いながら、祐一の背中を軽く叩いた。
『まぁ、そうなんですけど・・・』祐一は、楽しそうに笑うお爺さんのしょぼい顔を見つめると、大きくため息をついた。
暖かな日差しと、優しい心に包まれた白い小さな教会の前に、由美と翔太を取り囲むように皆が並ぶと、記念撮影が行われた。
「はい。では、記念撮影をしまーす。みなさん、笑って下さーい。では、いきまーす」三脚の上に載ったカメラを覗き込みながら、写真屋のオヤジは見事に禿げ上がった頭を光らせた。
『ほら、笑いぃや』姿勢を正した浜太郎は、祐一の腕を肘で小突いた。
『あ、はい』祐一は体を揺らし、背筋を伸ばした。
『アホか、お前らは。わしらは写らんぞ』そういいながらも、お爺さんも姿勢を正し、少し体を浮かせた。
「はい! チーズ!」カシャッ!
フィルムには、幸せそうに寄り添う二人と、二人の幸せを心から願う仲間達の笑顔が焼き付けられた。
後日、出来上がった写真が二人の元へ届けられたが、棒の様に並んだ祐一達の姿は写ってはいなかった。
──半年後。
「おめでとうございます」
『コングラでーす!』
「え、ホントに?」由美は身を乗り出した。
『え、ホントに?』祐一は目を丸くした。
由美は体調に異変を感じた為、地元では割と評判のいい産婦人科に来ていた。
「はい。安定期に入るまでは気を付けなければいけませんが、今のところ順調に育っていますよ」
『これーで、あなたーも、デッドグランパでーす。しっかりとぉ、プロテクトしてあげてくださーい』
『デッドはいらねーだろ。それより由美。お前ら、いつの間にそんな事を・・・』祐一は由美の背中を見つめた。
『それは、神のみーぞぉ、知るーでーす』
『お前、何者だよ・・・』祐一は、医師の後ろに浮かぶ男を見つめた。
「やったぁ。ありがとうございます」
妊娠した事を知り、由美は跳ね上がりそうなほどに喜んでいる。祐一は、少し複雑な感情を抱きながらも、由美のお腹に宿った小さな命に大きな期待を膨らませた。
診察を終え、病院から出た由美は、そっと両手をお腹に回した。由美は、幸せそうに微笑みながら、ゆっくりと家に向って歩いて行く。
川沿いに並ぶ桜は満開を迎え、その足元にはツクシが可愛い顔を出している。少し前まで寒さを感じさせていた川の流れは、緩やかなせせらぎに変わり、大きな鯉が流れに逆らい力強く泳いでいる。柔らかい日差しの中で「見て見て」と言わんばかりに可愛いチョウチョ達がお遊戯を踊る。優しい黄色に囲まれた川沿いの道をほのぼのとした気持ちで進んでいると、橋を渡ってきた沙耶が由美の元へと駆け寄って来た。由美は産婦人科に行くことをメールで沙耶に知らせていた。
「由美! どうだったの?」『どうやった?』
「うん。赤ちゃんいるって」『だそうです』
祐一は、照れくさく思い、笑った。
「え! ホントに! やったじゃん」『よかったやんけ、やったなぁ』
浜太郎は、嬉しそうに祐一の肩を叩いた。
祐一は、まだ見ぬ孫の姿を思い浮かべ、悩んでいた。まずは何から教えようかと・・・。針先にパンくずや、魚肉ソーセージを付けて、そこの川でオイカワやアブラハヤなどから始めるか。はたまた、もう少し下流に行って、赤虫やミミズを付けて、フナや鯉から始めるのもいい。それとも、まずはもっとシンプルに、ちくわやスルメを付けてザリガニ釣りから始めてみるか。祐一は、流れる川を見つめながら笑顔をこぼしていた。
『ずいぶん嬉しそうやなぁ』
『ええ、初孫ですから。やっぱり孫って相当可愛いんでしょうね』
『せやろなぁ。俺も生きてるうちに孫の顔を拝んだことはないから、ようは分からんがな』
『あ、ごめん。余計な事聞いちゃって・・・』祐一はバツの悪そうな顔をしてうつむいた。
『ええて、祐ちゃんかて同じなんやから。教えたい事を直接伝えられないっちゅうのは、お互い辛い事やな』
祐一は顔を上げ、浜太郎の顔をじっと見つめた。
『何や? どないした?』浜太郎はキョトンとした顔をした。
『いや、孫に釣りを教えたかったんですけど・・・』祐一は目を泳がせた。
『そんなん、無理やろ』浜太郎は表情を変えずに言った。
わかっていたはずなのに、忘れてしまっていた。そんな祐一の頭に思い浮かんでいた楽しい光景は、浜太郎の一言でガラガラと音を立てて崩れ落ちた。
『自分、よっぽど釣りが好きなんやな。釣りの話すると、いつも目を輝かせとるもんな。翔太はどうなんや、あいつは釣りせえへんのか?』
『たまーに、仕事仲間と船でキス釣りとか行ってるみたいですけど、ビギナーですね』祐一は、道の端に引かれた白線を見ていた。
『それでも釣りするんならええやんか』
『でも、船は人によっては酔うし、金もかかるから。それに船だと釣れて当たり前と言うか、想像力というか駆け引きみたいなものが、丘釣りとはまた違うんだよなぁ』細い茎の先に付いたタンポポの花が揺れると、クスクスと笑っているように見えた。
『なんやようわからんけど、船でも丘でも、孫が釣りして喜ぶ姿が見れんのやったら、どっちでもええやんけ』
『そうですね、贅沢言ったらダメですよね』祐一はタンポポに話しかけるように言った。
『まあでも、由美ちゃんも一緒に行かんと、その姿は見れへんけどな』
祐一は顔を上げ、眉を顰めると、再び浜太郎の顔を見つめた。
『何や? どないした?』浜太郎は、またキョトンとした顔をした。
由美は釣りには全く興味がなく、一緒に行くことなど考えられなかった。祐一の崩れ落ちた想像のカケラを何者かが粉々に踏み潰していく。
『何で暗い顔しとんねん』
『いや、だって』
『可愛い孫が生まれるんやから、もっと前向きにいかなあかんで、前向きに!』
『なんで同じ事を2回言うんですか』祐一は、口を尖らせうつむいた。
『そうかぁ、由美ちゃんもお母さんかぁ、早いもんやのう。沙耶、お前もいつまでもプラプラしよらんと、早よう結婚せなあかんで!』浜太郎は笑顔で話す沙耶の背中に向かって言った。
『ところで、浜ちゃん。由美のお腹の子には、もう魂が入っているんですかね?』
『んー、まだちゃうか。まだ、安定期過ぎとらんのやろ?』
『ああ、何だかそんな様な事、さっき先生が言ってましたね』
『安定期過ぎるまでは、まだ器が小さすぎて、魂は入れられへんのや』
『へえ・・・』
『とりあえず安定期に入るまでは、しっかりと由美ちゃんの事、守らなあかんで』
『はい!』
祐一が、真面目な顔で心に固く誓うと、突然祐一の携帯からアラームの音が鳴り響いた。
『なんや、なんや?』浜太郎は慌てた様子で自分の携帯を握ったが、自分の携帯が鳴っているのではないと気付くと、祐一の携帯を見つめた。
『あ、俺の携帯だ、何でこんな時に・・・』そう思った祐一は携帯を握りそれを見つめると、おもむろに携帯を開いた。
『早よう天界戻って、確認しようや』
祐一の頭の中に、あの時に言われた、お爺さんの言葉が蘇る。
──携帯のアラームというのは、大怪我をするとか、命に係わる危険が迫った時にしか鳴らんもんなんじゃ。
祐一は携帯のボタンを押し、天界へと戻った。
守護霊室へと戻った祐一は、未来の映像を確認した。
「どや? 何が起こるんや」
「え、これは・・・」未来の映像を見た祐一は、表情を固まらせた。
「何や? どないした?」浜太郎は、固まる祐一の横からモニターを覗き込んだ。
「あ! こりゃ、えらいこっちゃ! 由美ちゃん、トラックに撥ねられとるやないか! 怪我はどうなんや? 怪我は?」浜太郎は声を荒げた。
「それが、死亡って・・・」祐一はモニターの前で茫然と浮尽くした。
「死亡ぉ! そんな訳ないやろ! ちょ、どいてみいや」浜太郎は、コウベを垂れ茫然とする祐一の体を押した「あ、ほんまや」浜太郎は眉間に入れた力を緩めると、祐一の隣で同じように浮き尽くした。
顔を上げた祐一は意を決し『救う』のボタンを押すと、迷わず『実行』のボタンに手を掛けた。
「ちょ、ちょ、お前何してんねん!」浜太郎は、慌てて祐一の腕をつかんだ。
「助けるに、決まってるじゃないですか!」
「助けるって。そんな事したら、お前昆虫になってまうんやぞ!」
「だからなんですか! それで、由美と子供が助かるんだったら本望ですよ」祐一は、浜太郎の手を振り解こうとした。
「ちょ、待てって」浜太郎は祐一の腕を必死に止めた「落ち着いてよう考えぇや。死ぬ言うても、魂そのものが消滅してしまうわけやないんやで。天界に戻ってくれば、由美ちゃんと会う事も、話しをする事も出来るんやで」
「だけどそれじゃあ、お腹の子はどうなっちゃうんですか? それに、残された翔太や晶子は?」
強く尋ねた祐一の目を浜太郎は真剣な眼差しで見つめた。
「それも運命なんやて。何かしらの理由があって起こる事なんやて」
祐一は浜太郎の真剣な態度に押され、腕に入れていた力を抜いた。そして浜太郎から目を逸らし、浜太郎の言葉を理解出来るのかと、自分の心に問いかけた。
「・・・。やっぱり無理だ」
「ちょ、待ちぃって!」
祐一は、浜太郎の手を振り払い、力強く『実行』のボタンを押した。しかし、目の前に置かれた機械は、何も反応しない。
「あれ? なんだよこれ、どうなってんだ」
祐一は『実行』のボタンを連打するが、いくらボタンを押しても、機械は全く反応しなかった。
「何や? 故障でもしたんか?」身を逸らしていた浜太郎が、モニターを覗き込んだ「あ! ちょ、これ見てみい! これ、全然徳が足りひんねん」
祐一は眉を顰め浜太郎の顔を見ると、モニターに視線を移した。
「足りないって、どういう事ですか?」
「由美ちゃん一人助けるんやったら、多少徳が足らんかっても、昆虫を2回やるとかの条件付きで、徳を天界が貸してくれるんやけどな、この場合、二人の命を助ける事になるから、あまりに徳が足りなさすぎるんや」
「じゃ、じゃあ、いったいどうすればいいんですか?」
「諦めるか、誰かに一緒にボタンを押してもらうかやな」
祐一は、浜太郎の顔をじいっと見つめた。
「浜ちゃん・・・」
浜太郎は一瞬目を丸くすると、慌てた様子で祐一から顔を逸らした。
「あかん、あかん。いくらなんでも、それは無理やて。そんな事したら、俺まで昆虫になってまうがな。そ、そうや! 爺さんに頼んでみいや! 爺さんなら一緒にボタン押してくれるやろ、身内なんやしな。急いで連絡せえや!」
「でも、近くにいないから、呼んでも間に合いませんよ」
「大丈夫やて、事情話して同時に携帯のボタン押してもらえばええんやて」
『事故発生5分前です』
アナウンスと共に、警告音が鳴り始める。
「5分前やで、早よしいや!」
「は、はい!」
浜太郎に急かされた祐一は、慌てて机に備えられていた受話器を取り、お爺さんに電話を掛けた。耳に当てた受話器から呼び出しの音が5回程鳴ると、受話器の向こうからマシンガンを連射するような音と共に、お爺さんの声が聞こえてきた。
「もしもーし」
「あ! もしもし、お爺さん!」
「なんじゃ? そんなに慌てて。どうした? まったく、うるさい現場じゃのう」
「実はですね・・・」祐一は、お爺さんに事情を説明した。
「そりゃ、大変な事になったのう」
「だ、だから、一緒にボタンを押して、由美と子供を助けて下さい!」
「え? なんじゃって? よう聞こえなかったわい。もう一度、言ってくれるか?」
「だから! 一緒にボタンを押して下さいよ! もう、時間が無いんですよ!」
「え? 何じゃって? もしもーし? おかしいのう、電波が悪いのかのう。聞こえるかぁ? もしもーし、プツッ! プー、プー、プー・・・」
「もしも、もしもし? もしもーし! あのジジイ、切りやがった・・・」
祐一は、肩を落としながら受話器を下ろした。
『1分前です』
警告音の間隔が短くなった。
「やばい! 浜ちゃん頼む! この通りだ」
祐一は必死に拝みながら浜太郎に頼み込んだが、浜太郎は返事をしない。祐一が顔を上げ、よく見ると、浜太郎の体は透けていた。
裏切られた。祐一は一瞬そう思ったが、よく考えてみれば仕方がないことだった。浜太郎は野球選手に生まれ変わる事を心の底から望んでいたし、ずっと一緒にいたとはいえ、元々は赤の他人なのだから。
『30秒前です』
モニターが赤く点滅し始める。モニターに映る由美は、スマホを弄りながら交差点へと向かって行く。沙耶は歩道にしゃがみ込み、ほどけた靴ひもを結び直している。歩行者用の信号が点滅し始めたが、由美は気付かない。右側から来たトラックが左のウインカーを点滅させる。
『10秒前、9、8、7・・・』
目の前の機械は、無情にも秒読みを始める。祐一には、それを止める術は無い。確かに、このまま何もしなくても、愛する由美に会う事は出来る。自分の想いも、学んだ事も伝える事は出来る。だが、それでは・・・。祐一は、自分の存在する価値は、その程度のものなのかと、ただ茫然と画面を見ながら『実行』のボタンを押し続けていた。そんな祐一の肩に、何かが触れた。祐一は垂れていた頭をゆっくりと持ち上げた。
「浜ちゃん・・・」
「しゃあないな」
浜太郎は苦笑いを浮かべると、祐一の指先にそっと指を乗せた。
勢いよく左折してきたトラックが由美の体を巻き込もうとする。
「由美! 危ない!」その様子に気付いた沙耶は大声で叫んだ。
「え? キャー!」
顔を上げた由美が叫ぶと、トラックのブレーキ音が辺りに鳴り響いた。由美は両手でお腹を守り、その場にしゃがみ込んだ。トラックはタイヤを鳴らしながらその巨体で由美に襲いかかる。
『由美ー!』由美の耳に聞き覚えのある声が聞こえた「え? 誰?」由美は声のする方に目を向けた。
その瞬間、由美の目の間に、両手を広げトラックの前に立ちはだかる祐一の姿が現れた。この時由美は、優しい白い光に包まれると同時に、子供の頃に包まれていた祐一の大きな手の温もりを体中に感じていた。愛情と、安心をタップリと感じさせてくれた、遠い記憶の中にある、あの大きな手の温もりを・・・。
「お父さん・・・」
焼けたゴムの匂いと白い煙が辺りを覆った。歩いていた人々は足を止め、交差点を見つめている。トラックの運転手は、ずれた頭を押さえ、うつむいている。走って来た沙耶がトラックを避け、交差点の中に回り込んだ。由美は横断歩道の真ん中で、腰を抜かしたかのように座り込んでいる。由美の元へと駆け寄った沙耶が、ぐったりとしている由美の体を揺すった。
「由美、大丈夫?」
由美は、ぼんやりとした表情で、沙耶の手を握ると、ゆっくりと立ち上がった。
「沙耶・・・」由美は沙耶の顔をぼうっと見つめた。
「由美、大丈夫なの?」沙耶は今にも泣きだしそうな顔をして尋ねた。
「う、うん」由美は自分のお腹を守りながら答えた。
「よかったぁ」沙耶は肩を落とし、涙を流した。
由美は、かすり傷一つ負ってはいなかった。
涙を流す沙耶の肩を抱いた由美は、目の前に止まっているトラックを見つめている。トラックの前面は、両手を広げる人のような形でへこんでいた。