テラーノベル
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午後の終わりを告げるチャイムが鳴り響き、現代文の斎藤先生がゆっくりと教卓の荷物をまとめ始める。その瞬間、隣で石像のように固まっていた工くんが、弾かれたように机をガタッ!と離した。
「……ま、前原! お前、お前なぁっ!」
椅子を引く勢いが良すぎて、後ろの席の生徒がビクッとしている。そんなのお構いなしに、工くんは顔を真っ赤にして私に詰め寄ってきた。
「なーに? 工くん。教科書見せてくれて、ありがとね~」
「ありがとうじゃない! 距離がっ、近すぎるんだよ! お前、自覚あるのか!? 俺はバレー部のエースになる男だぞ、こんなところで……っ、心臓に悪いだろ!」
「心臓に悪い」なんて、正直すぎて可愛すぎる。
私はわざと小首を傾げて、机に残された彼の教科書を指先でトントンと叩いた。
「えー。工くんが『もっと寄ってもいい』って言ったんじゃん。優しさじゃなかったの?」
「それは……っ! 見えなかったら困ると思っただけで! まさか肩まで……あ、あんなに……っ」
工くんは言葉に詰まり、自分の右肩を左手でぎゅっと押さえた。まるで、まだ私の体温が残っているのを確かめるみたいに。
「……前原さんは、あれか。誰にでもあんなふうに、……くっついて、惑わせるのか?」
少しだけ声を低くして、拗ねたように視線を逸らす。からかうつもりが、予想外に「男の子」らしい鋭い瞳とぶつかって、今度は私の心臓が少しだけ跳ねた。
(……あ、これ以上は、彼が壊れちゃうかな)
「……ふふ、どうだろうね? でも、工くんの教科書が見やすかったのは本当だよ。明日も忘れたら、また見せてくれる?」
悪戯っぽく笑って顔を覗き込むと、彼は「っ……!」と言葉にならない声を漏らして、逃げるようにカバンを掴んだ。
「……忘れ物なんてするな! バカ! 次はっ、ちゃんと持ってこい!」
そう言い捨てて教室を飛び出していく背中。
でも、その耳たぶは隠しきれないほど真っ赤なままで。
私は彼のいなくなった隣の席を見つめながら、小さく独り言をつぶやいた。
「……次は、なにをしようかな~」
翌朝。教室に入ると、案の定、工くんは自分の席で手鏡と格闘していた。
1ミリ単位で前髪を整えるその表情は、コートの上にいる時と同じくらい真剣だ。
「……工くん、おはよう。今日も絶好調だね、その直角」
後ろからひょいと顔を出すと、工くんは鏡を落としそうになりながら飛び上がった。
「なっ、前原!……おはよう!直角じゃないと言ってるだろ、これは……」
「黄金比、でしょ? 知ってるよ」
私は彼の隣の席に座り、わざとじーっと至近距離で彼のおでこを見つめる。
「……でもさ、今日ちょっとだけ、右側が0.5ミリくらい……浮いてる、かも?」
冗談だ浮いてなんかいない
「な、なんだと!? どこだ!? 指さしてくれ、前原!」
必死な顔で顔を突き出してくる工くん。私は「ここかなぁ」なんて言いながら、彼の前髪に触れるか触れないかの距離まで指を近づけた。
「あー……。もしかして、寝癖? 可愛いね」
「ね、寝癖だと!? 俺がそんな失態を……っ、うわああああ!」
頭を抱えてパニックになる工くん。その時、教室の入り口から低くて冷ややかな声が響いた。
「……朝っぱらからうるせえぞ、五色」
現れたのは、バレー部の先輩であり、私たちの隣のクラスにいる白布賢二郎さんだ。彼は手に持ったプリントの束をパサリと工くんの机に置いた。
「白布さん! おはようございます!……あの、俺の前髪、浮いてますか!?」
「知らねーよ。それより、昨日の日誌。書き忘れがあるぞ」
白布くんは心底興味なさそうに言い放つと、ふいにつぶらな瞳を私に向けた。
「……前原だっけ」
「はい。おはようございます、白布先輩」
「あんまりこいつを玩具にすんな。ただでさえキャパが狭いんだから、これ以上バカになると困る」
「バカって言わないでくださいよ!」と喚く工くんを無視して、白布くんは少しだけ口角を上げた。
「……まあ、五色がここまで真っ赤になってるのは、バレー部でも見たことないけどな」
「えっ!?」と固まる工くん。白布くんはそのまま「じゃあな」と、嵐のように去っていった。
「……前原。今の、どういう意味だ……?」
「さあ? 『工くんは分かりやすくて可愛い』って意味じゃない?」
私はクスクス笑いながら、カバンから現代文の教科書を取り出した。
「今日は、教科書忘れてないから。……残念だった?」
「っ……! 別に、残念じゃない! 集中できるから、むしろ助かる……!」
そう言って前を向いた工くんの背中は、昨日よりもずっと、落ち着きなく揺れていた。
コメント
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いたずらだねぇw