彼の名前は拓也。34歳。都心の雑居ビルにある小さな広告代理店で働く、平凡なサラリーマンだった。毎朝7時15分に同じ電鉄に乗り、同じ車両の同じ吊革につかまり、同じ駅で降りる。会社では上司の無茶な指示に耐え、部下のミスをフォローし、残業を重ねる。家に帰れば、狭いワンルームでコンビニ弁当を食べ、ビールを飲み、スマホを眺めて眠る。休日は、洗濯と掃除をして、また月曜日が来る。
拓也は、自分がどこで道を誤ったのか、はっきりとはわからなかった。大学を出て、就職活動で何社か落ちて、ようやく入ったこの会社。最初はやる気に満ちていた。企画が通れば嬉しくて、徹夜だって苦じゃなかった。でも、年月が経つにつれ、企画は上司の名前で通され、徹夜の成果は誰かの手柄になり、給料は上がらず、ただ疲れだけが積もっていった。
恋愛も似たようなものだった。二十代の終わり頃、付き合っていた女性がいた。名前は美咲。優しくて、笑顔がきれいで、拓也の話をちゃんと聞いてくれた。でも、拓也は仕事に追われてデートをキャンセルし続け、彼女の誕生日を忘れ、彼女が泣いても「忙しいんだ」としか言えなかった。ある日、美咲は静かに別れを告げた。「あなたは、もう私を見てくれない」。その言葉が胸に刺さったまま、拓也は誰とも深く関わらなくなった。
三十歳を過ぎて、周りの友人たちは結婚し、子どもができ、マイホームを買い、SNSに幸せそうな写真を上げている。拓也はそれを見て、いいねを押しながら、心のどこかで羨ましくて、でも自分にはもう遅いような気がしていた。鏡を見るたび、目元の皺が増え、髪が薄くなり、表情が固くなっているのがわかった。
ある冬の夜、残業を終えて帰る途中、拓也はふと立ち止まった。雪がちらつき、街灯の下で白く舞っている。誰もいない歩道橋の上から、線路を見下ろす。電車が通り過ぎる音が、胸に響く。あのまま飛び降りたら、楽になれるだろうか。そんな考えが頭をかすめた瞬間、自分でも驚いた。死にたいと思ったことは、これまでなかったのに。
それから、拓也の毎日はさらに色を失っていった。朝起きるのがつらくて、会社に行くのが億劫で、誰とも話したくなくて、ただ時間が過ぎるのを待つだけ。食欲もなくなり、体重が落ち、鏡に映る自分は幽霊のようだった。上司に「最近調子悪そうだな」と言われても、「大丈夫です」と笑ってみせる。でも、心の中では、もう限界だった。
行き詰まりを感じた拓也は、ある日、有給を取って一人で旅に出た。行き先は決まっていなかった。新幹線に乗り、窓の外を眺めているうちに、終点の青森まで来てしまった。そこからフェリーに乗り、北海道へ。冬の北海道は厳しく寒かったが、その冷たさが心地よかった。
小さな港町の民宿に泊まった。宿の主人は老夫婦で、拓也を温かく迎えてくれた。夕食は、獲れたての魚と野菜の煮物。久しぶりに、人の作った温かいご飯を食べた。夜、部屋に戻ると、窓の外に雪が降っていた。静かで、何も考えなくてよい時間が流れていた。
翌朝、拓也は宿の近くの海岸を歩いた。凍てついた波が岸に打ち寄せ、白い息が空に溶ける。遠くに、流氷が見えた。誰もいない砂浜で、拓也は座り込んだ。ポケットからスマホを取り出し、美咲の最後のメッセージを開いた。「幸せになってね」。あれから六年。彼女はもう、誰かと結婚しているかもしれない。
拓也は目を閉じた。風が冷たく、頬を刺す。生きる意味って何だろう。仕事のため? お金のため? 誰かの期待のため? 自分は、何のためにここにいるのか。答えは出なかった。ただ、涙がこぼれた。冷たい風に、すぐに乾いていく。
その時、遠くから小さな足音が聞こえた。目を開けると、一匹の犬が近づいてきていた。雑種で、毛並みは汚れていたが、目は澄んでいた。犬は拓也の前に座り、尻尾を振った。拓也は、恐る恐る手を差し伸べた。犬は鼻をすり寄せ、舐めた。温かかった。
宿に戻ると、主人が言った。「あの子、昔飼っていた犬に似てるんだ。もう亡くなったけど、冬になると時々現れるって、近所で噂になってるよ」。拓也は笑った。そんな話、信じない。でも、心が少し軽くなった。
その夜、拓也は久しぶりに深く眠った。夢の中で、美咲が笑っていた。「頑張ってね」と、優しく言った。
北海道に一週間滞在した。毎日、海を眺め、雪を踏み、宿の老夫婦と話をした。帰る日、主人が小さな包みを渡してくれた。中には、手編みのマフラー。「寒い東京で使ってください」。拓也は、礼を言って受け取った。
東京に戻った拓也は、会社を辞めた。貯金は少しあった。退職金も出た。実家に戻る選択もあったが、拓也はまたあのワンルームに住むことにした。ただ、今度は少し違った。
朝、起きたら散歩をするようになった。近所の公園で、犬を連れた人たちを見る。ときどき、子どもたちが遊んでいる。コンビニ弁当ではなく、自分で簡単な料理を作るようになった。味は下手だったが、自分のために作る行為が、心地よかった。
ある日、公園のベンチで本を読んでいると、隣に老婆が座った。「いい天気ね」と声をかけてきた。拓也は頷いた。老婆は、昔の話を始めた。夫を早くに亡くし、一人で子どもを育て、苦労したこと。でも、今は孫に囲まれて幸せだと言う。「人生って、長いようで短い。でも、諦めなければ、必ずいいことがあるよ」。
拓也は、静かに聞いていた。別れ際、老婆が言った。「あなた、いい目をしてる。きっと大丈夫」。
それから、拓也は少しずつ変わっていった。職業訓練校に通い、以前から興味のあった木工を学んだ。小さな工房を借り、家具や小物を作り始めた。最初は売れなかったが、ネットで販売するうちに、少しずつ注文が入るようになった。特に、子ども用の小さな椅子が人気になった。
ある春の日、拓也は公園でまたあの老婆に会った。ありがとう、と伝えた。老婆は笑って、「私、何もしてないよ」と言った。
今、拓也は三十九歳。工房は少し広くなり、弟子も一人できた。休日は、公園で子どもたちと遊ぶ。まだ結婚はしていないが、気になる女性はいる。工房に注文に来る、シングルマザーの絵本作家だ。彼女の描く絵が、優しくて好きだ。
人生は、まだ続く。行き詰まることも、これからあるかもしれない。でも、今の拓也は知っている。どんなに暗い夜でも、朝は来る。冷たい風が吹いても、温かいものに出会える。諦めなければ、道は開ける。
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