胸の鼓動が止まないまま、四時間目のチャイムとともに教師が入ってきた。
だけれどドギマギする心は現実を把握していない。なんで僕にそんなラッキーが舞い降りてくると思ったのか。
数分前の僕に言ってやりたい。
その優等生は現代ファンタジーの方がお好みだと。
違う。それだと擦り寄ってるだけじゃないか。だからこう助言するんだ。寝たフリしてやり過ごせ、と。
そんなわけで僕の心は軽いパニックに陥っていて、教師が何をしていたのかは知らない。
辛うじて記憶に残っているのは、文部科学省が──とか、このクラスで──とかの断片的な言葉。
そして、やっと前に向き直った僕の目に飛び込んできたのは、教師が授業中に書くとは思えない言葉。
“異世界”
黒板にでかでかと書かれたそれを見た僕は、そのままこちらを振り返り驚いた表情をしている南野さんと目が合った。
AI。そう呼ばれるものが世界を豊かにしたり、やがて人から仕事を奪うのではなんて危惧されたりしてるのは知ってる。
けれどまさか、異世界を喚べるなんてのは、そんなのは聞いていない──。
「世界的に資源不足が深刻になっている昨今、我が国は他所から資源を調達しようということになった」
僕たちのよく知る教室が、その壁を、窓を、床をむき出しの土塊に変わった中で、教師の言葉とクラスメイトのざわめきが響いていた。
「コンピュータってのはすごいんだな……先生もまさか異世界なんてのがあるなんて……それもこんな機械ひとつで……」
教卓にはたくさんのケーブルやコードが繋がった箱がある。教師は感心したふうに箱をポンポンと叩いているが、僕の頭では状況把握が出来ない。
これは今時のプロジェクトマッピングってやつなのか? でもだとしたら僕たちや机とか、椅子とかが邪魔になるはずだ。
手で触れば土がつく。ひんやりとした感触にわずかなしっとり感。
教師はなんて言ってた? 資源の調達? それで異世界? いやいや……地球によく似た惑星でも見つけてそこから持ってくるとか、ワープするとかの方がよっぽど科学的で現実的だろ。
「そしてこの中学校で行われることになったのは厳正なる抽選の結果で──」
雑誌のキャンペーンみたいなことを言い出した。
「このクラスなのは、多数決っていうか……はは、先生が押しつけられたからっていうか……」
知ってる。気弱なこの教師は僕らのクラスの担任であり、新任で去年まで学生だった一年目だ。
「あとこのクラスでするのは資源の調達じゃなくってだな……その足がかりとなる、異世界で活動するための大前提の調査──」
とても嫌な予感がする。なのに僕の心は高鳴りを隠せない。ずっと南野さんが僕と合った視線を外さないから。それどころか、話が進むほどにその表情に興奮が蓄積され満たされ昂揚していくのが分かるから。
現代ファンタジー好きなのは本当らしい。僕もこれからはそっちにしよう。擦り寄ろう、南野さんの好みに。そこから始まる恋を予感している。
だから僕は、とりあえずやらなきゃならない。
「想像力豊かで柔軟性があり、肉体的にも出来上がり始めつつ、進化の余地を残しているであろう生徒の君たちに、異世界生存プログラムを適用して彼の地の脅威に立ち向かえるか、それを調べるのがこのクラスの役割になった」
教師が謎の箱についたボタンを押したのだろう。
かつては硬いタイルの敷かれた床だった地面が、その中央から隆起し、みんなが座る椅子も机も押し退けていく。
前の方の席だった南野さんは僕とは離れたところに押し込められた形で、クラスの机も椅子もが移動させられ円形に囲む形で中央に空間を作っている。
乱雑に散らかった机やらの下敷きになったり挟まれたりした生徒もいたけど、怪我はしていないらしい。
そうなる気がした僕を含めて何人かは机の上に避難していたりしたけど、その先はまだ読めない。
口々に興奮の声や不安な声を上げるクラスメイトたちも僕と同じく隆起したままの地面を眺めている。
「説明書によると──あそこからモンスターが生まれてくるから倒してくれってことらしい」
「倒すって……そんな武器もないのにっ」
子どもらしく僕らはある意味で現状に対応出来ている。すなわち現実に起こる非現実を受け入れる柔軟さ。それは実際のところ大人たちの目論み通りなんだろう。
「だからこその異世界生存プログラムなんだ、そうだ。君たちの全員、とはいかないらしいけど、適応出来る子には専用の武器とスキルが付与されるらしいから、なにか体に異変とか感じた子はモンスターと戦ってほしい」
「異変って! そんなのわかんないっ」
「先生も分からないよっ。だけどもう起動しちゃったからぁ、何とかしてくれよぉ」
「先生が泣くなんて……」
カオスだ。よく分からないシステムを起動させる機械を、よく分からずに与えられて使わなければならないなんて、大人は大変だ。
「見て! 地面が……切り離されて……っ」
隆起した地面は天井に届きそうなほどになる手前で、地面側も細くなっていき、クラスメイト女子が言うように切り離されて形を変え、球体になっていく。
そして土色のボコボコした表面が綺麗にならされ、半透明に薄くなっていけば、教師の言ってたモンスターのお出ましだ。
「スライム……くそデカいのを除けば、間違いなくスライムだ」
「ちょ、かわいいっ。みんなで写真とろーっ、絶対バズるからっ」
カシャカシャと鳴り響くシャッター音。大人たちの考えた適応とは少し違うと思うけど、こんな状況でよくやるものだ。
分かってる。僕も南野さんも。ここで調子に乗ってはしゃぐやつが最初に犠牲になるんだってことは。あばよ、クラスメイト女子。名前も知らないリア充女子。
そう心の中でクールに決めた僕だったけど、実際にはそんな残酷なことにはならず、むしろ活躍の場を失うことになっていた。
はしゃぐ女子の背に近づき、その軟体を伸ばして踏み潰そうとでもしていたのか。しかしスライムのその先の行動を見ることはなかった。
「くらえ、このっ!」
横あいからの強烈な衝撃に、スライムはその巨体を壁に打ち付けて派手に飛び散った。
「あれは……!」
「サッカー部の古林くんっ」
「へへっ……なんかよ、上履きが知らないスパイクに変わってたからもしかしたらって」
古林くんのことは知っている。僕と同じ小学校の出身で一年生のころから地元のサッカークラブに所属しているゴールキーパーで全国にも出ている実力者。その脚力は自陣のゴールから相手のゴールまでノーバンで届けるほどだとか。
その古林に武器が与えられたらしい。元々の脚力に加えて異世界向けの武器らしいスパイクと何らかのスキルもあるんだろう。大きくて重そうなスライムをまるでサッカーボールを蹴るみたいに軽く力強く壁に叩きつけた。
さっきまでスライムを背景に自撮りしていた女子たちがこぞって囲んでいる。腕に巻き付いたり抱きついたりして……思えば古林は小学生の頃からモテモテだった。キーパーなのにひとりでドリブルしてゴールしたりして体育の授業でサッカーがあったときはあいつ一人でヒーローだったな。だから僕はサッカーが嫌いだ。
そうして勝利のムードに湧く彼らの足元がまた大きく揺れて膨らんでいく。
慌てて逃げて転がる古林と女子たちに乾いた笑いを漏らしたのは僕だけではなかった。
「気をつけろっ、まだまだ現れるぞ!」
僕に負けないほどの隅っこで机の陰に伏せながら叫ぶ担任教師はなんなんだろう。
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