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さきいか
194
るななっち
106
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昼前のオフィスは、静かな緊張に満ちていた。キーボードの軽やかな打鍵音と、時折鳴る電話のコール。窓から差し込む光が、整然と並ぶデスクの上に淡く広がっている。
その中で、みことはいつも通りの顔でパソコンに向かっていた。
――少しだけ、体が重い。
朝からずっと、そんな感覚があった。頭の奥がじんわりと熱を帯びて、視界がわずかに揺れる。額にはうっすらと汗が滲んでいるのを、自分でも感じていた。
それでも、みことは笑顔を崩さなかった。
「この資料、午後までにまとめておきますね」
同僚にそう声をかけると、普段と変わらない調子で頷く。声も、表情も、いつも通り。誰にも気づかれないように、丁寧に整えた“平常”だった。
――大丈夫。これくらいなら、なんとかなる。
そう思い込もうとするたびに、ふわりと足元が揺れる。
そのときだった。
「みこと」
低く、よく通る声がすぐ近くで響く。
顔を上げると、すちが立っていた。
同じ部署の同期で、そして――恋人。
仕事中は、あくまで距離を保っている。周囲には知られていない関係だからこそ、二人のやり取りはどこか淡々としているはずだった。
けれど、その視線だけは隠せない。
「……顔色、悪い」
「え、そう? 気のせいじゃない?」
みことは軽く笑ってみせる。だがその瞬間、わずかに視界が霞んだ。
すちは、その一瞬を見逃さなかった。
「昼休憩、空けといて」
「え?」
「来て」
短く、それだけ言うと、すちは踵を返した。
有無を言わせない声だった。
・・━━・・━━・・━━・・━━・・
昼休憩。
人の少ない廊下を歩きながら、みことは隣を歩くすちの横顔をちらりと見る。
「どこ行くの?」
「空き部屋」
「え、なんで……」
問いかける間もなく、すちはみことの手を取った。
指先が絡むわけでもなく、ただ手首を軽く引く。それだけなのに、逃げ場を失うような感覚になる。
けれど、みことは抵抗しなかった。
むしろ――少しだけ、安心していた。
ドアを開けると、小さな会議室のような空間が広がる。簡素なテーブルと、壁際に置かれたソファ。
「座って」
「いや、大丈夫やって。ほんまに――」
「いいから」
静かな声だったが、拒否を許さない響きがあった。
みことはしぶしぶソファに腰を下ろす。
その瞬間、ふっと力が抜けた。
「あ……」
体が沈み込むように倒れかける。
すちはすぐにその肩を支え、そのままゆっくりと横にさせた。
「ちょ、ちょっと……!」
「じっとして」
そして、何の迷いもなく、自分の膝を差し出す。
気づけば、みことの頭はすちの膝の上に乗せられていた。
「な、なにこれ……!」
頬が一気に熱くなる。
けれど、起き上がろうとした瞬間――
「動かない」
ぽん、と額を軽く押さえられた。
ひんやりとした手のひらが、熱を測るように触れる。
「……熱あるじゃん」
「ないってば……」
反射的に否定したが、その声は弱かった。
すちは、じっとみことを見下ろしている。
「なんで言わないの」
「……だって、仕事あるし」
「だってじゃない」
ぴし、と軽い音が響いた。
「いたっ」
デコピンだった。
額にじん、とした痛みが残る。
「なんで頼らないの」
静かな声。
怒っているわけでもない。ただ、まっすぐに問いかけてくる。
「……」
言葉が出ない。
みことは唇をきゅっと結んだまま、視線を逸らす。
けれど、すぐにまた額に触れられる。
今度は優しく、撫でるように。
その温もりに触れた瞬間、何かがほどけた。
――ああ、だめだ。
急に、体の重さが何倍にもなった気がした。
さっきまでなんとか保っていた意識が、ゆっくりと沈んでいく。
「……すち」
かすれた声がこぼれる。
自分でも驚くほど、弱い声だった。
気づけば、みことはすちの方へと顔を寄せていた。
無意識に、擦り寄るように。
「……しんどい?」
「……ちょっとだけ」
本当は、ちょっとどころじゃなかった。
けれど、そう言うのが精一杯だった。
すちは何も言わず、みことの髪をゆっくりと撫でる。
一定のリズムで、優しく。
それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……ちゃんと休んで」
「……うん」
素直に頷いてしまう自分に、少しだけ驚く。
さっきまでの意地は、どこかへ消えていた。
まぶたが重い。
視界がぼやけていく。
それでも、最後に見えたのは――
優しく細められた、すちの目だった。
「おやすみ」
小さく、そう囁かれる。
そして、額にそっと触れる感触。
軽い口付けだった。
熱を確かめるような、優しいキス。
「……ん」
かすかな声を漏らしながら、みことは目を閉じる。
膝の上のぬくもりと、髪を撫でる手の感触に包まれて――
そのまま、静かな眠りに落ちていった。
・・━━・・━━・・━━・・━━・・
規則正しい寝息が、静かな空き部屋に小さく響いていた。
みことはすちの膝の上で、すっかり力を抜いて眠っている。ほんのり赤い頬、わずかに開いた唇。いつもはどこか気を張っているその表情も、今は無防備で――ただ穏やかだった。
すちはそんな寝顔をじっと見つめながら、指先でそっと髪を撫で続ける。
「……無理ばっかりして」
小さく呟く声には、ため息のような優しさが混じっていた。
仕事中は、強がって笑って。頼ることもせずに全部抱え込んで――そのくせ、限界になるまで何も言わない。
ほんとに、困った恋人だ。
けれど同時に、それがみことらしいとも思う。
だからこそ。
――どうやって、もっとそばに置こうか。
ふと、そんな考えが浮かぶ。
一緒に暮らせたら、こんなふうに無理をする前に気づけるのに。朝の顔色で、声の調子で、きっとすぐに分かる。
「……同棲、ね」
ぽつりと零して、すちは少しだけ笑った。
簡単に頷く相手じゃないことくらい、よく分かっている。少し頑固で、照れ屋で、変に自立していて。
でも――こうして弱っている姿を見るたびに思う。
守りたい、と。
その気持ちは、きっと隠しきれない。
・・━━・・━━・・━━・・━━・・
それから、しばらく。
時計の針が静かに進み、三十分ほどが過ぎた頃。
「……ん……」
小さな声とともに、みことのまぶたがゆっくりと震えた。
やがて、うっすらと瞳が開く。
「……すちぃ……」
寝ぼけた、甘い声。
呼ばれた名前に、すちは自然と頬を緩める。
「どうしたの?」
覗き込むと、みことはまだ現実と夢の境目にいるような顔で、ぼんやりとすちを見上げていた。
ここが職場だということも、きっと頭から抜け落ちている。
「……ぎゅーして……」
ぽつりと、控えめなお願い。
いつものみことならあまり言わない言葉に、すちは一瞬だけ目を細めた。
「……いいよ」
優しく答えると、すちはみことの体をそっと起こす。
そのまま自分の膝の上に乗せて、向かい合う形に整える。
「ほら」
腕を回すと、みことの体がすとんと収まる。
ぎゅ、と抱きしめる。
背中を、ぽん、ぽん、と一定のリズムで優しく撫でた。
「……んへへ……」
みことは嬉しそうに、ふにゃりと笑う。
そのまま、すちの肩に顔を埋めて、ぎゅっと抱きついた。
力の入らない腕。それでも、確かに伝わってくる温もり。
すちはその頭に頬を寄せるようにして、さらに優しく背中を撫でる。
「……かわいすぎ」
小さく呟く声は、どこまでも柔らかい。
みことは返事の代わりに、くすぐったそうに笑って、さらに身を寄せた。
まるで安心しきった子どものように。
その様子に、すちは胸の奥がじんわりと満たされていくのを感じる。
――やっぱり。
こうして、腕の中にいるのが一番いい。
離したくないと、自然に思う。
「……帰ったら、ちゃんと休ませるから」
聞こえているかも分からないくらいの声で、そっと囁く。
みことは「ん……」と小さく返事をして、さらに力を抜いた。
再び落ちかける意識。
それを包み込むように、すちは静かに抱きしめ続ける。
昼休みの終わりが近づいても、しばらくの間――
二人はそのまま、穏やかな時間の中にいた。
・・━━・・━━・・━━・・━━・・
規則正しかった寝息が、再び深くなっていく。
すちの腕の中で、みことは安心しきったように目を閉じ、もう一度眠りに落ちていた。体温の高い額が肩に触れ、かすかに熱を伝えてくる。
「……ほんと、限界まで頑張るよな」
苦笑混じりに呟きながら、すちはその背中をゆっくりと撫で続ける。
そのときだった。
――コツ、コツ。
廊下から足音が近づいてくる。
規則的で、ためらいのない足取り。
ふと、嫌な予感がした。
すちは顔を上げ、扉の方へ視線を向ける。
――ガチャ。
次の瞬間、ドアノブが回った。
「失礼しま――」
開いた扉の向こうに立っていたのは、みことの上司だった。
一瞬、空気が止まる。
視界に映るのは、ソファの上で密着している二人の姿。
膝の上に座り、抱きしめられているみこと。
どう見ても、ただの“看病”には見えない距離感。
「……っ」
すちは一瞬で状況を理解した。
そして、ほとんど反射的に動く。
「すみません!」
みことの体を素早く抱き上げ、体勢を変える。
ぐったりと力の抜けた体を支えながら、距離を取るように立ち上がった。
「みこと、体調崩してて……休ませてました」
落ち着いた声で説明する。
その腕の中で、みことはうっすらと目を閉じたまま、小さく息をしている。
「熱もあるみたいで……昼休みに様子見てたんです」
嘘は言っていない。
ただ、言っていないことが多すぎるだけだ。
上司は一瞬きょとんとした後、はっと我に返った。
「そ、それは大変じゃないか!」
慌てて部屋の中へ入り、みことの顔を覗き込む。
「顔色も悪いし……無理させちゃったな……」
「いえ、本人が大丈夫って言ってたので……」
すちは控えめに答える。
腕の中のみことは、意識が浅いのか、すちの服をぎゅっと掴んだまま離さない。
その仕草に、思わず視線を落とすが――すぐに上司の声で引き戻される。
「今日はもう無理だね。二人とも早退していい」
「え」
「一人で帰らせるのも心配だろ? 付き添ってやれ」
思いもよらない言葉に、すちは一瞬だけ目を瞬かせた。
だが、すぐに小さく頭を下げる。
「……ありがとうございます」
「いいからいいから、こういう時は遠慮するな。お大事にな」
上司はそう言うと、心配そうな表情のまま部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
しばらくして、静寂が戻る。
「……助かった」
小さく息を吐く。
ぎりぎりだった。
あと数秒遅れていたら、完全に言い訳のきかない状況だったかもしれない。
腕の中のみことを見下ろす。
まだぼんやりとしたまま、すちにしがみついている。
「……帰るよ」
優しく声をかけると、みことは小さく「ん……」と返事をした。
すちは手早く自分のデスクに戻り、必要最低限の荷物をまとめる。
そのまま、みことのデスクへ向かい、鞄を手に取った。
周囲の視線が少し集まるが、上司からの指示が出ている以上、誰も何も言わない。
再び空き部屋へ戻ると、みことはソファに横になったまま、静かに呼吸を繰り返していた。
「みこと、帰るぞ」
声をかけると、うっすらと目を開ける。
「……すち……?」
「うん。立てる?」
問いかけるが、みことはふるりと首を振った。
「……むり……」
か細い声。
それだけで十分だった。
「じゃあ、そのままでいい」
すちはしゃがみ込み、みことに背を向ける。
「ほら、乗って」
少し戸惑いながらも、みことはすちの肩に腕を回す。
そのまま、ゆっくりと背中に体重を預けてきた。
「……よし」
しっかりと抱え上げる。
軽くはないはずなのに、不思議と重さは感じない。
それよりも、背中に伝わる体温の方が気になった。
――やっぱり、熱い。
そのまま、すちは職場を後にする。
廊下を歩き、エレベーターに乗り、外へ出る。
夏の空気が、むわりと肌にまとわりつく。
「タクシー拾うか」
呟くと同時に、ちょうど一台が目の前に滑り込んできた。
後部座席に乗り込み、みことを横に座らせるがすぐにまた肩にもたれかかってくる。
「……すち……」
「ん?」
「……どこいくの……」
半分眠ったままの声。
「俺んち。いい?」
「……ん……」
素直な返事に、すちは小さく笑う。
タクシーが走り出す。
窓の外の景色が流れていく中で、みことの体は完全にすちに預けられていた。
その重みを感じながら、すちはそっと肩を寄せる。
――ちゃんと、看るから。
心の中でそう呟きながら。
やがてタクシーは止まり、二人はすちの家へと向かう。
静かな部屋の中で、ようやく“誰にも邪魔されない看病”が始まるのだった。
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