テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
教室の夕焼けはすでに色を失いかけていた。蛍光灯は点かず、半端な薄明かりの中で、遥の表情はほとんど影になっていた。
日下部は黙ったまま、遥の近くに腰を下ろす。
机と机の隙間。肩がかすかに触れる距離。けれど遥は、逃げようとしなかった。
それがかえって、痛々しかった。
「……なあ。俺、おまえのこと、助けたいって思ってる」
唐突に、けれど意を決した声だった。
遥は、わずかに目を細める。風が止まっていた。
「助けるって……何を?」
「……全部だよ。無理だってわかってるけど……おまえが、そんなふうに思わなくていいようにしたい」
遥は笑わなかった。ただ、ひどく静かに言った。
「……“そんなふう”って、どんなふう?」
「“壊す”とか、“触れたらだめ”とか……そういうの。おまえが思ってること、間違ってるって、俺は──」
「間違ってる?」
遥がかすかに首を傾げた。笑っていない。けれど、怒ってもいなかった。
それが逆に、日下部の胸を締めつけた。
「──あの家で、俺が笑ったら、“誰かが怒った”。俺が話しかけたら、“無視された”。手を伸ばしたら、“叩かれた”。」
「助けてって思ったら、“もっとひどい目”にあった」
「……そういう場所だったんだよ」
日下部は言葉を失う。遥の声音は淡々としていた。
事実だけを切り取るように、無色のまま語られていた。
「それでもさ、俺……おまえといたいって思ってる。触れたいって──」
「……だったら、壊していいよ」
遥の声が、そこで低く落ちた。
それはまるで、すべてを諦めた人間が最後に吐く、残響のようだった。
「“触れたい”って思った瞬間から、それは暴力だ。俺にとっては、そういうもんなんだよ」
「“欲しい”って思った瞬間から、誰かを傷つける。それが俺の人生だった」
日下部はもう、何が正解なのか分からなかった。
慰めの言葉も、否定の言葉も──遥を深く追いつめてしまう気がした。
「……でも、俺……それでも──」
「……何で、そこまでして近づこうとするの?」
遥が、ようやく日下部を見た。
その目には怒りはなく、ただ恐怖と、怯えと、哀しみが混じっていた。
「“正しいこと”をしようとしてくれるのは分かってる。……でも、それが、いちばん苦しいんだよ」
「俺が“間違ってる”って、分かってるからこそ──どうしても、その優しさが、痛くてしかたない」
日下部は、何かを言いかけて、飲み込んだ。
自分がかけたい言葉が、どれも無力だと知ってしまったからだった。
ただ、黙って、遥の肩にそっと触れた。
……その瞬間だった。遥の身体が、ビクリと跳ねる。
反射的に、過去の記憶が皮膚の裏からにじみ出てくる。
「触れられること」は、イコール「支配されること」だった。
誰かの手が伸びてくるたびに、遥の脳裏にはあの“夜”の記憶が蘇る。
──押し付けられた手。耳元で囁かれた嘘。
──黙れば守ると約束されて、黙ったまま壊れていった記憶。
「……ごめん」
日下部が慌てて手を引く。
「違う。いやじゃ、ないんだ。ただ……」
遥は息を吐いた。目を閉じたまま、肩を震わせる。
「……俺が、“それを欲しい”って思ったのが、怖かった」
「“欲しい”って、言ったらだめだって、思ってるのに……」
それは、遥の核心から絞り出された告白だった。
「欲しい」と思っただけで、罪になる。
「欲しい」と言った瞬間に、世界が壊れる。
それが、遥の中にずっとある「倫理」だった。
日下部は、その言葉の重さに言葉を失う。
遥の手を、握ることも、抱きしめることも──今の彼にはできなかった。
ただ、そこにいるしかなかった。
遥もまた、沈黙に身を沈めた。
ほんとうに壊れたくないものは、いつも名前を持たない。
だからこそ、それは言葉にできず、守ることも難しい。
けれど今、二人の間にあったのは、すれ違いの苦しさと、それでも離れられない痛みだった。
※日下部……頑張った。普通ならこっから心が通い始めたりするのだろうけど、遥はそんな甘くない。そのために虐待・いじめ書いてきた(自分では少ないかもと思ってる)。ここで、簡単にくっつける展開も考えたけど……遥に「舐めんな」と言われそうなので……。
こんな話に付き合ってくれてほんとに感激の嵐。