「もうー!京介さん!それならそうと言ってくれないとぉ!」
芳子は、京介へ召集令状が来た為に、近所のおかみさん達が、急遽支援金を集めてくれたのだと思いこみ、男爵家の人間として世に手本を見せるべく、京介を立派に送り出そうとしたらしい。
とんだ恥をかいたと、芳子は、京介の家の居間で、不機嫌そうに口を尖らせていた。
「恥も何も!私は、出兵することになってしまって、これからどうすれば良いのですか」
岩崎は、苛つきながらも、兄の手前、怒るわけにもいかず、芳子の言葉に、堪えに堪えている。
「……それに、この金をどうすれば……」
例のザルには、小銭どころか、かなりの紙幣、通行人からの支援金が入っていた。
「月子さんと二人で使いなさい。京介が出兵しても、困らない為の善意なのだから」
くくく、と、肩を揺らしながら、男爵は笑いを噛み締めている。
「兄上まで!」
「まあ、京介、芳子だよ?いつもの事じゃないか。それに、近頃は、ちらほら召集令状、赤紙が、送られて来ているようだぞ。そんなに、シベリアに人が必要なのだろうか?これは、日本の戦いではなく、あくまでも、同盟国の意を受けた、警備、のはずなのだが。実際は、どうなっているのだろう?」
少しばかり不満げな男爵の側から、芳子が口をだす。
「だから、月子さんじゃないの!このままだと、京介さんは、出兵することになってしまうわ!だって、家長でもなく、家を次ぐ必要のない次男でしょ?月子さんと祝言を挙げたら、家長になるから、家を守らなければならない。と、なると、召集も免れるじゃない?」
確かに、戸主たる家の長、そして、家を継ぐ者は、召集対象から外される。
芳子は、月子を見ながらうんうんと、頷いている。
「芳子、滅多な事を言うんじゃない。それでは召集逃れの、非国民扱いをされてしまうぞ……」
男爵の注意に、芳子も、はっとして、たちまちシュンとなった。
「いや、まあ、そこのところは、義姉上《あねうえ》だけではなく、皆、胸の内は、一緒なのでしょうけれど……」
岩崎も、事が事だけに、濁した物言いをした。
「まあ、今は深刻になる必要もないでしょう?出兵する訳ではないのですから」
岩崎は、続けて言うと、明るい話とは言えない内容に顔を曇らせている月子を、ちらりと見た。
「うん、そうだ。むしろ、笑い話だよ。が……、京介、この集まった金をどうする?やはり、西条家へ持って行くか……」
男爵も、ザルを見ながら、困っていた。
「兄上?」
「ああ、二代目がな……」
明け方近くに、二代目が、血相を変えて西条家の火事を知らせに来たのだと男爵は言った。
「西条家、日本橋と我が屋敷は距離があるからね、火事を知らせる半鐘の音も聞こえない。何事かと思ったのだが、二代目の話に、まあ、取りあえず朝一番で、京介、お前の所へと……」
月子の着物も、女中達が徹夜で寸法直しした。どのみち、京介の家へ出向く必要があったのだと、男爵は言った。
「まあ、まさか、あんな事に巻き込まれるとは思わなかったがなぁ……」
男爵の、愚痴りに、はあ、と、返事とも、ため息ともつかないものを岩崎は返す。
「で、これは、岩崎男爵家からの見舞金だ」
言いながら、男爵は、内ポケットをまさぐると、厚みのある茶封筒を取り出した。
「兄上?!」
「これを持って行きなさい。あちらも、お困り、ではあるだろうが、店は無事。まあ、そう困りきってはおられないはず……しかし、さすがに、全焼となると……」
「でも、あの御屋敷が、蝋燭の火だけで、全部燃えてしまうものなのかしら?」
芳子が、少し不思議そうに言った。
「ああ、そこんとこは、わかりませんがね、なんでも、仏壇の蝋燭の火の不始末が、出火原因のようですけど?」
大家だから勝手に上がったと、二代目が、仏頂面で居間の入り口に立っている。
もちろん、岩崎とは目を合わそうともせずに。
「京さんが、出兵するとか、近所のおかみさん達が、騒いでるんですけど?!」
二代目は、一体全体どうなっているのかと、亀屋の女将に、走らされたらしいが、
「岩崎の旦那がいて助かったですよ。話がわかる人間がいるんですからねぇ」
と、嫌みたらしく言った。
もちろん、岩崎は、二代目の言葉に、今にも飛びかかりそうな勢いになっている。
しかし、皆の手前ということなのか、そっぽを向いて、必死に堪えているように見えた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!