柔らかな日差しがカーテンの隙間から差し込む。
遠くから聞こえるような鳥のさえずりが耳に届くと、体を伸ばした。
体も頭も目覚めてくる。
窓を開けると、心地好い風が髪を揺らし、目の前には緑あふれる景色が広がっている。
騒音とは無縁の静寂の中から新しい一日が始まることを実感できる。こういうとき、郊外に家を買って良かったと思える瞬間だ。
深呼吸すると朝の清々しい空気が体に染入るようだ。
今日から個展に出す作品のラストスパート。良いものに仕上がりそうだ。
シャワーを浴びてから朝食の準備でキッチンに行くと、リビングに「今起きたばかり」といった風のルイがいた。
「朝食作っておくからシャワーでも浴びてきたら」
「そうするよ」
ルイは力なく片手をあげると、気怠そうにバスルームへ向かった。
ルイがシャワーを終えると二人で朝食をとった。
今日はエッグフライにソーセージとサラダ。
コーヒーの香りがテーブルを包む。
「今日から個展の仕上げにはいるから」
私が言うと、ソーセージをほおばりながらルイがうなずいた。
仕上げが迫ると、ほとんどアトリエにこもりっきりになる。
「なにかあればインターホンで呼んでよ。すぐに行けるようになるべくリビングにいるから」
「ありがとう。助かる」
作品に集中すると他のことがおろそかになる。
そういうときは家事や一切の家のことをルイに任せっきりになる。
パリでルイと暮らすようになってからは、そういう習慣になっていた。
さあ、体力をつけないと。
「今回はいつにも増してはりきっているね」
朝食をほおばる私を見てルイが微笑みながら言った。
「そうね。楽しくてしょうがないって感じ」
今回は今までの個展とは違う。
ここまでの、私の人生の現時点における集大成。
そして望む未来を手繰り寄せることにつながる。
そう考えると自然とやる気がわき上がってきて、何日でも集中できそうだ。
「そうだ。スクールの時間だけは管理して都度知らせてちょうだい」
「わかった」
スクールだけは外せない。
私が千尋と直接かかわれる貴重な時間だ。
千尋との関りが、今までの制作過程では感じたことのない高揚感を与えてくれる。
リビングに飾ってある中学時代に作った作品に目をやる。
いろいろと思い出す。
私がこれを作っているとき、お母さんはずっと怯えていた。
その恐れと怯えは私の心に伝わってきた。
十分に理解できるのだが、それでも私はこの作品を最後まで作り上げた。
自分の上に垂れてきた蜘蛛の糸を掴む思いで。
思えばあの頃から私は、他人の感情が流れ込んでくるのをシャットアウトする術を心得ていたように思う。
それも千尋の言葉のおかげだった。
中学時代、何度も千尋の家に呼ばれたことがある。
大きくて清潔で温かそうで、私の家とはなにもかも大違いだったことは強く覚えている。
そして千尋は家族に愛されていると感じた。
何度目かの訪問のとき、千尋は小学校時代に母親を事故で亡くして、今は父親と二人で暮らしていると聞かされた。
もともと違う地域に住んでいたが、母親の事故死をきっかけにこちらに引っ越してきたとも。
私はそのことを、千尋の家に招かれた初めて知った。
では今迄、私が行くたびに出されていたケーキは千尋が買っておいてくれたものだったのか。
そのことが嬉しくもあり、負担ではないかと心苦しくも感じた。
その日はとても天気が良くて気持ちのいい日だったと記憶している。
私たち二人は、千尋の家の庭で家庭菜園のトマトを見ていた。
私が庭へ案内されたのはその日が初めてだった。
熱心にトマトを観察してメモに記録をとる千尋。
「千尋はこういうの好きなの?バスケやってるからスポーツ系の趣味かと思ってた」
「バスケとかスポーツ。体を動かすのも好きだけど、こっちのほうが没頭できるの。命を育てるって飽きない。こうしていると嫌なこととか考えないで済む。最初は逃げ場所だったけど、幾重にも柵を作って没頭しているうちに、逃げ場所から私だけの宮殿になったの」
「宮殿?」
「そう。宮殿。一華も作ってみたら?」
そのとき千尋から聞いた宮殿を私なりに構築していった。
お母さんからの恐れを感じるたびに柵を築いていくうちに、私の心は他人の感情に影響を受けることがなくなってきた。
私の大切なものは全てその中にある。
誰にも汚させない。
「宮殿。宮殿。私の宮殿。私だけの宮殿。招待してあげる。ようこそ私だけの宮殿へ」
独り言つと作品に取り掛かるべく席を立った。
昼前になるとルイが声をかけてくれた。
「一華。今日は午後からスクールがあるよ」
「ありがとう。準備するわ」
「彫刻の材料はいつものところに片付けておくから」
「ありがとう」
ルイは材料を乗せてあるトレイに布をかけるとアトリエの奥へ運んで行った。
準備を済ませてスクールへ行く。
家から都心にあるスクールへ行くには時間がかかるが仕方ない。
それでも道が空いていたおかげもあり、30分前には到着できた。
既に来ている講師たちが授業の準備をすませて出迎えてくれる。
その中にいる村重に声をかけた。
「今日は授業が終わったら橋本さんと一緒に私の部屋へきて。終わるころには私から改めて声をかけるから。いい?」
「はい。いったいなんでしょう?」
「いい話だから」
それだけ言うと、私は自分の個室に入っていった。
スクールが終わってから、千尋と講師の村重を別室に呼んだ。
「どうしたんですか先生。スクールが終わってから僕らに残れって」
「ちょっと二人に報告があるの。みんなより先に伝えたくて。私が今度個展を開くのは知ってるわよね。それでね、せっかく個展を開くのだから生徒さんの作品も展示しようと思って」
「生徒の中から上手な作品を選出するのね」
千尋がにこやかに言う。
「いいえ。選出なんてしないわ。全員展示するの」
「へ~そうなんだ……えっ!ちょっと待って!全員って?もしかして私も?」
千尋はとても驚いたようだ。
声がいつもより高い。
「もちろん!私のかわいい教え子の作品もみんなに見てもらうの」
驚いている千尋はいつもに比べて、しぐさや感情に幼さが感じられて可愛い。
「だって私なんてまだ始めたばかりだし上手じゃないし」
「大丈夫よ!千尋は才能あるって!私が保証する!」
「そんなことないって」
千尋は否定するけど、私は全然違う考えを持っていた。
「千尋に足りないのは自信。だから村重君も呼んだのよ。これから個展に出す作品をみんなに作ってもらうから良い作品ができるように手伝ってあげて」
私から見ても千尋は、他の生徒に負けない才能がある。
「は、はい」
「村重先生。よろしくお願いします」
千尋は丁寧にお辞儀をした。
「二人で美術館でも行ってくれば?素敵な絵画を見ることも作品作りに役立つわ。村重君は絵画の知識も豊富だから作品の解説もしてくれるだろうし」そう言って私は机の引き出しからチケットを取り出すと、二人に差し出した。
顔を見合わせる千尋と村重。
「今後のためにも是非行ってみて千尋」
「う、うん」
千尋は若干の戸惑いを見せながらチケットを受け取った。
村重も後に倣う。
「今日は呼び止めてごめんなさい。送って行ってあげたいけど、私これから個展のこととか出版社と打ち合わせがあるから」
「いいの。気にしないで」
千尋は優しく言うと、村重と二人で出て行った。
私は二人が完全にフロアからいなくなるのを見届けてから、急いで部屋に戻りバッグの中にしまっておいた受信機のスイッチを入れる。
さあ、二人はどう出るか?
建物の外に出たような感じの音が聞こえる。
「先生どうぞ」
千尋の声だ。
「えっ!これは」
「私、美術館とか縁がなくて。それに先生だってこんなおばさんと美術館行くなんて嫌でしょうし。彼女さんと行った方が絶対いいですよ。だから私の分のチケット上げます」
千尋は村重に自分の分のチケットをあげようとしているようだ。
私が折角あげたものを。
「いえ。僕は橋本さんと一緒にいて恥ずかしいなんてありません。橋本さんさえ良かったら一緒に行ってほしいくらいです」
村重には千尋がいかに自分に必要な存在か教えておいた。
それがようやく若芽のように吹き出しつつある。
「それは嬉しいんですけど……ねえ?」
探るような千尋の言葉。
「それに彼女とかいませんし……むしろ橋本さんの方こそ結婚しているし……それでも橋本さんが良ければ」
「じゃあ行きましょう!」
千尋は明るく言った。
きっとあの笑顔で言ったに違いない。
「はい」
村重の返事が明るいことからもそれがわかる。
「良かったらこの先にあるファミレスで少し話しません?美術館のこととか」
「でも夕飯の支度とか」
「今日は主人遅いんです。だからちょっと遅れても大丈夫!」
千尋の夫、明は遅くなるのか。
良い傾向だ。
この様子なら千尋は私からのプレゼントを気に入ってくれたようだ。
そう思うと自然と口許が緩んでくる。
そうとわかれば私も行かなくては。
盗聴器は千尋のバッグに仕込んだ。
すぐに見つかるだろうことはわかっている。
地下の駐車場に降りると、車の中にはルイが待っていた。
「待った?」
「まあね」
声をかけるとルイは愛嬌のある笑顔を見せてから車から降りた。
「これ、お願い」
「ああ。任せておいて」
ルイに受信機を渡してから、入れ替わるように車へ乗り込むと目的の場所へ向かった。
出版社との打ち合わせを終えた私は丸ノ内のビジネス街にいた。
大きなビルがいくつもそびえ立つ、その中でもガラス張りのスタイリッシュな外観を持つ超高層ビルの前で、ある人物が出てくるのを待っていた。
一時間ほどしてお目当ての人物が出てくるのを認めると、近付いていった。
「明さん」
声をかけると相手が振り向く。
「小川さん」
千尋の夫、明は驚いた顔をして私を見た。
「今度、個展を開く関係で作品の写真集も出すんです。その打ち合わせで。明さんのお勤め先はこちら?」
ビルを見上げながら聞く。
「ええ。そうだ小川さん。この前は本当にありがとうございました。ろくなお礼もまだできていなくて」
片手をかざして明の話を止めた。
「そんなこといいの。気にしないで。でも、もしどうしてもとおっしゃるなら……明さんは証券会社にお勤めでしたよね?」
「はい」
「実は資産を運用したくて、なにか投資をと思ったのですが、そっちの方の知識が全然なくって。良かったら相談にのってくれませんか?」
「ああ、そういうことでしたらいつでも。力になりますよ」
明はバッグを地面に置くと名刺を差し出してきた。
「今度家に来てください。いろいろと話がしたくて」
「そうですね。そのときは千尋も一緒に」
「いいえ。ビジネスのお話ですから。その間、ずっと千尋を放っておくのも申し訳ないので」
「そうですね。わかりました。では、ご都合のいい日を連絡してください」
「ありがとうございます。ねえ明さん、これから家に帰るのでしょう?私、車で来ているから送っていくわ」
「いえ、そんな悪いですよ」
「いいの。車の中でも話がしたいし。今車を回してくるからここで待っていて」
私が微笑むと困惑したのか、明はあいまいな笑みを見せた。
橋本明。千尋が選んだ男か。
私の中で明に対する興味が膨らんだ。
この男はどういう人間なのか、これからじっくり吟味しないと。