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馬車は、夜の闇を裂くように進んでいた。
窓の外は、黒い森。
ところどころに残る雪。
王都の灯りは、もう見えない。
向かいに座るアルヴェインは、ほとんど口を開かなかった。
リゼットもまた、何を訊けばいいのか分からないまま、膝の上で手を重ねていた。
助けられた。
それは間違いない。
でも――
なぜ助けたのか。
なぜ自分を連れ出したのか。
その理由までは、まだ分からない。
やがて馬車が大きく揺れ、ゆっくり速度を落とした。
「旦那様、到着しました」
御者の声が外から響く。
アルヴェインが短く答える。
「ああ」
扉が開いた瞬間、冷たい空気が流れ込んできた。
リゼットは外へ降りる。
目の前には、石造りの大きな屋敷がそびえていた。
華やかさはない。
けれど無骨で、静かで、雪の中でもびくともしない強さがある。
玄関には数人の使用人が並んでいた。
その顔に浮かんでいるのは歓迎ではなく、明らかな困惑だった。
無理もない。
夜更けに突然、辺境伯が女を連れて帰ってきた。
しかも相手は、つい数時間前まで王城で断罪されていた令嬢なのだから。
「お帰りなさいませ、アルヴェイン様」
年配の女性が一歩前へ出る。
侍女長らしいその女性に、アルヴェインは淡々と言った。
「部屋を一つ用意しろ」
「……客室でよろしいでしょうか」
「ああ。今夜からこの者は屋敷に滞在する」
一瞬だけ、使用人たちの視線がリゼットに集まる。
探るような目。
警戒する目。
好奇心を隠しきれない目。
侍女長はそれ以上何も言わず、一礼した。
「承知いたしました」
屋敷の中は、しんと静かだった。
長い廊下。
磨かれた床。
冷たい色の壁。
飾りは少ないのに、隅々まで整っている。
きちんと手入れされた場所だ。
でも同時に、どこか息を潜めた家でもあった。
人が少ないからなのか。
それとも、この屋敷そのものが何かに耐えているように見えるからなのか。
客室の前で、アルヴェインが足を止めた。
「話がある」
侍女長が無言で扉を開ける。
二人が中へ入ると、彼女は静かに下がった。
室内に残るのは、暖炉の火の音だけ。
温かいはずなのに、リゼットの肩の緊張はほどけない。
アルヴェインは部屋の中央に立ったまま言った。
「お前をここへ連れてきたのは、気まぐれではない」
やはり、と思った。
リゼットはまっすぐ彼を見る。
「理由を伺ってもよろしいですか」
「王都に置けば、お前はそのまま罪人にされる。まずはそれを避けた」
「……ありがとうございます」
「だが、それだけでもない」
灰色の瞳が、まっすぐこちらを射抜く。
「お前は毒と薬に詳しいな」
「薬草学と毒理は学んでいました」
「ならば都合がいい」
都合がいい。
その言葉に、胸が少しだけ冷える。
でも、不思議と不快ではなかった。
少なくとも、必要だから置かれるのなら、
意味もなく切り捨てられるよりはずっといい。
「しばらくのあいだ、ここで私の妻を演じてもらう」
リゼットは一瞬、言葉を失った。
「……はい?」
「表向きは契約花嫁だ」
アルヴェインは淡々と続ける。
「王都から余計な干渉を受けないための体裁でもある」
「妻、ですか」
「形式だけだ」
あまりにも平然と言うので、かえってこちらの動揺だけが浮いてしまう。
「なぜ、そこまで」
「未婚の女を理由もなく屋敷に置けば、噂が増える。お前にとっても不利だ」
それは理屈としては正しかった。
正しい。
でも、簡単には飲み込めない。
「私に拒否権はありますか」
アルヴェインは少しだけ黙った。
それから言う。
「ある」
リゼットは目を瞬く。
命令ではなかった。
選ばせる声音だった。
王都では、選ぶことすら許されなかったのに。
「嫌なら、別の保護先を考える」
その言葉を聞いて、リゼットは初めて少しだけ息をついた。
少なくとも、この人は最初から自分を駒として押しつける気ではないらしい。
「……お受けします」
「そうか」
「ですが、条件があります」
アルヴェインの眉が、わずかに動く。
「私をただ匿うだけではなく、断罪の真相を調べること。その機会を、私にもください」
「当然だ」
即答だった。
「私も、あれをただの毒殺未遂とは思っていない」
リゼットは思わず息を止める。
やはり、この人も気づいていた。
「殿下の前では言えませんでしたが、あの症状は不自然でした。毒だけではありません」
「ああ」
短い返答。
それだけで十分だった。
この人には、説明が通じる。
そう思った瞬間だった。
ふいに、アルヴェインの呼吸が浅くなる。
リゼットは眉をひそめた。
「……辺境伯?」
彼は片手で胸元を押さえる。
肩が強張る。
呼吸が乱れる。
顔色がみるみる悪くなる。
「下がれ」
低い声。
だがそれは命令というより、押し殺したうめき声に近かった。
次の瞬間。
彼の首筋に、黒い線のようなものが浮かび上がる。
リゼットは目を見開いた。
黒い紋様。
皮膚の下を這うように、首から頬へ広がっていく。
「来るな……!」
アルヴェインは壁に手をついた。
その声には、さっきまでの冷たさがない。
余裕を失い、ただ耐えている人の声だった。
扉が勢いよく開く。
「アルヴェイン様!」
侍女長が飛び込んでくる。
彼の様子を見た瞬間、その顔色が変わった。
「また……!」
その一言で、これが初めてではないと分かった。
侍女長は机の引き出しから小瓶を取り出す。
だがアルヴェインは、それを乱暴に払いのけた。
瓶が床に落ち、割れる。
「旦那様!」
「触るな……!」
リゼットは反射的にしゃがみこみ、床に散った液体の匂いを嗅いだ。
苦い鎮静薬。
だが薄い。
しかも、効き方が表面だけだ。
これでは間に合わない。
アルヴェインは膝をついた。
黒い紋様はさらに広がっていく。
見た目は呪いだった。
でも、リゼットの目には違うものが見えていた。
発作の前の硬直。
脈の乱れ。
皮膚反応の広がり方。
そして薬が効かない反応。
違う。
これは、ただの呪いではない。
「失礼します」
侍女長が止める前に、リゼットはアルヴェインのそばへ膝をついた。
「何を――」
「黙ってください」
思わず強い声が出る。
侍女長が息をのむ。
リゼットはアルヴェインの手首に触れた。
熱い。
異常なほどに。
脈を測る。
速い。
でも、ただ速いのではない。
何かに引っ張られるように乱れている。
「……離れろ」
「離れません」
そのまま、首筋の黒い紋様を目で追う。
線の出方が均一すぎる。
自然に蝕む呪いなら、もっと乱れる。
もっと崩れた広がり方をするはずだ。
なのに、これは違う。
整いすぎている。
「辺境伯、いつからですか」
「答える……必要はない」
「あります」
リゼットは言い切る。
「これは呪いに見えます。でも、呪いだけではありません」
部屋の空気が止まった。
侍女長が目を見開く。
「何ですって……」
「症状が整いすぎています。発作の出方も、皮膚の反応も、脈の乱れも。誰かが“そう見えるように作った症状”に近い」
アルヴェインの目が、初めてはっきりと揺れた。
苦痛の中でも、その言葉だけは聞き逃さなかったらしい。
「……何を言っている」
「断言はまだできません。でも――」
リゼットは黒い紋様を見据える。
「これは、ただの呪いではありません」
侍女長の手から、布が落ちた。
暖炉の火が、小さく鳴る。
誰もすぐには声を出せなかった。
アルヴェインの荒い呼吸だけが、部屋に響いている。
リゼットはその脈を取りながら、はっきりと確信していた。
王城で見た毒見役の異変。
セレナの袖に残った香り。
そして今、この男の体に刻まれた苦痛。
全部がどこかでつながっている。
そうでなければ、こんなにも“人の手”の気配がするはずがない。
リゼットは静かに顔を上げた。
「私に診せてください」
アルヴェインは答えない。
ただ、汗に濡れた額の奥で、灰色の瞳がまっすぐこちらを見ていた。
警戒。
苛立ち。
痛み。
そして、ほんのわずかな迷い。
やがて彼は、苦しげに息を吐きながら目を閉じた。
それは拒絶ではなかった。
リゼットはその沈黙を了承だと受け取る。
この人は、誰にも頼らず耐えてきたのだろう。
だからこそ、今さら助けを求める方法を知らない。
なら。
知らないなら、こちらが掴みにいけばいい。
「必ず、正体を見つけます」
それは彼に向けた言葉であり、
同時に自分自身への誓いでもあった。
断罪の夜に奪われたものを取り戻すために。
目の前のこの苦痛の意味を暴くために。
王都で終わったはずの自分の人生は、
どうやらここから別の形で始まるらしい。