テラーノベル
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150
夜の空気は、張りつめていた。
暖炉の火が揺れる音。
荒い呼吸。
それだけが、部屋に残っている。
リゼットはアルヴェインの手首に触れたまま、脈を数えた。
速い。
不規則。
でも、完全に崩れてはいない。
波がある。
何かに合わせて、引き上げられているような脈だった。
「水を」
リゼットは顔を上げる。
「冷たすぎないものを、すぐに」
侍女長マルタが一瞬ためらう。
「ですが――」
「早く」
強く言うと、マルタはすぐ使用人へ指示を飛ばした。
リゼットは床に散った鎮静薬の匂いをもう一度確かめる。
やはり薄い。
効いても、痛みの輪郭を鈍らせるだけ。
発作そのものの流れには触れていない。
アルヴェインの首筋を見る。
黒い紋様はまだ浮いたままだった。
でも、広がる速さは少しだけ鈍っている。
完全な暴走ではない。
まだ、手を入れる余地がある。
「辺境伯、聞こえますか」
アルヴェインが浅く息を吐く。
「……何だ」
返事がある。
意識ははっきりしている。
「発作の前、毎回起きることはありますか」
「今、聞くのか」
「今だからです」
彼は眉を寄せたまま、苦しげに答える。
「……胸が熱くなる。そのあと首筋だ。視界が狭くなる」
「毎回ですか」
「ほぼ」
マルタが口を挟む。
「夜半前後が多いです。月が満ちる頃は特に」
「……そう」
水が運ばれてくる。
リゼットは布を濡らし、アルヴェインの手首と首元へ当てた。
「そんなことで意味があるのですか」
マルタの声には、まだ疑いがある。
「今は熱の上がり方を鈍らせます」
リゼットは短く答える。
「完全には止まりません。でも、発作の波を読む助けになります」
マルタは黙った。
納得したわけではない。
でも、止めもしなかった。
リゼットはもう一度、黒い紋様を見る。
やっぱり変だ。
見た目は呪いなのに、体の反応が整いすぎている。
まるで手順通りに立ち上がる症状みたいだ。
自然に蝕むものじゃない。
組まれたもの。
「紙とペンはありますか」
「……今ですか?」
「今です」
マルタはあきれたような顔をしながらも、机の筆記具を差し出した。
リゼットは紙を引き寄せ、書き始める。
一、胸部の灼熱感。
二、首筋からの紋様。
三、視界狭窄。
四、脈拍の不整。
五、既存の鎮静薬は表面しか抑えない。
そこまで書いて、手が止まる。
違和感は、もう一つあった。
「辺境伯。発作のあと、眠気は残りますか」
「……あまり、残らない」
やはり。
強い鎮静薬が本当に効いているなら、もっと体に鈍さが残るはずだ。
でも残らない。
つまり、苦痛の表面だけを曇らせている。
「今までの薬を見せてください」
「薬師でもない方に?」
マルタの声が少し強くなる。
「私は薬師です」
リゼットは顔を上げる。
「少なくとも、それを学び、診るために見てきました。必要です」
マルタは迷うようにアルヴェインを見る。
彼は壁にもたれたまま、低く言った。
「見せろ」
その一言で、マルタは棚の奥から木箱を持ってきた。
蓋を開ける。
小瓶が整然と並んでいた。
液薬。
粉薬。
香油。
どれも高価だが、どこか古い。
リゼットは一本ずつ手に取る。
匂いを確かめる。
濃さを見る。
混ざり方を見る。
鎮静。
睡眠。
痛覚鈍麻。
魔力循環の補助。
並びは理にかなっていた。
理にかなっているのに、肝心なところへ届いていない。
「これを組んだ人は、症状を抑えることしか考えていません」
マルタが眉をひそめる。
「それでも、今まで一番効いた薬です」
「ええ」
リゼットは小さくうなずく。
「だからこそ厄介なんです。外から見れば“ちゃんと治療している”ように見える」
マルタの表情が変わる。
警戒が、別の種類の緊張へ変わった。
「あなたは何を疑っているのですか」
リゼットは少しだけ息を吸った。
でも、ここで曖昧にする段階ではない。
「誰かが、辺境伯の症状を“治らない形”に整えている可能性があります」
暖炉の火が、ぱちりと鳴る。
マルタの顔色が変わった。
「……!」
アルヴェインは、しばらく無言だった。
やがて、呼吸が少しだけ落ち着いてくる。
首筋の紋様も、先ほどよりは薄い。
リゼットは布を取り替えながら言った。
「今すぐ根治はできません。でも、次の発作までに仮の処置は試せます」
「仮の処置?」
マルタが聞き返す。
「今の薬は痛みを鈍らせるだけです。次は、発作前の兆候に合わせて順番を変えます」
「そんなことが……」
「効くかは、やってみないと分かりません」
正直にそう言うと、マルタは少し驚いたようだった。
言い切らないのか、とでも思ったのだろう。
でも、分からないことを分かったふりでは扱えない。
「ただ」
リゼットは脈から目を離さずに続けた。
「今までよりはましにできます」
その言葉に、アルヴェインが薄く目を開けた。
「……言い切るな」
「言い切っていません」
「同じだ」
かすれた声。
でもそこに、少しだけいつもの棘が戻っている。
そのことに、リゼットは少しだけ安堵した。
「では訂正します」
彼女は静かに言う。
「ましに“したい”です」
数秒、視線がぶつかる。
やがてアルヴェインは目を閉じた。
「変な女だな」
「よく言われます」
思わずそう返すと、マルタが小さく息をのんだ。
この屋敷で、発作のあとにこんなやり取りをした人はいなかったのかもしれない。
重苦しい沈黙が、ほんの少しだけほどける。
リゼットは薬箱の中の香油瓶を一本、手に取った。
甘い香り。
あの夜、セレナの袖からした匂いに少し似ている。
胸の奥が冷える。
「この香油、誰が用意しているのですか」
マルタが答える。
「王都の調合師です。月ごとに届けられています」
王都。
やはり、そこへ戻る。
リゼットは瓶を光にかざす。
わずかに濁りがある。
香りでごまかされているが、薬効以外の何かが混ざっている気がした。
「これは次回まで使わないでください」
「しかし、旦那様はいつも――」
「お願いします」
きっぱり言う。
マルタはためらう。
そのとき、アルヴェインが低く言った。
「……リゼットの言うとおりにしろ」
リゼットは顔を上げる。
今、名前を呼ばれた。
自然に。
迷いなく。
アルヴェインはまだ消耗していた。
でもその目には、さっきまでの拒絶だけではないものがある。
少なくとも今は、試す価値がある。
そう判断している目だった。
「承知しました」
マルタは頭を下げる。
まだ慎重だ。
でも完全な拒絶ではない。
一歩だけ、進んだ。
リゼットは紙の余白に書き足す。
六、香油の再検証。
七、王都からの定期薬の出所確認。
八、発作前の時刻記録。
書きながら、胸の奥で静かに火が灯る。
断罪の夜に奪われたものを取り返すには、感情だけでは足りない。
証拠がいる。
観察がいる。
積み上げがいる。
それは、自分が一番慣れているやり方だった。
「部屋をもう一つ、薬の作業用に空けましょうか」
マルタの言葉に、リゼットは目を瞬く。
それは小さな変化だった。
でも、信頼の入口としては十分すぎるほど大きかった。
「……お借りできるなら、助かります」
「必要なものも確認いたします」
声色が、少しだけ変わっている。
アルヴェインはゆっくりと壁から体を離した。
まだ立ち上がるのは重そうだが、最悪は越えたらしい。
「無理をなさらないでください」
「お前に命じられる筋合いはない」
「患者は皆そう言います」
アルヴェインがわずかに眉を寄せる。
その顔は、さっきまでよりずっと人間らしかった。
「……患者扱いするな」
「でしたら、治療を拒まないでください」
数秒の沈黙。
やがて彼は、諦めたように息を吐いた。
「次も診ろ」
短い言葉。
命令の形をしているのに、どこか不器用な許可のようだった。
リゼットは小さくうなずく。
「はい」
その返事は、自分でも驚くほどまっすぐだった。
この人を助けたい。
無実を証明するため。
真相を暴くため。
それだけではもう足りない気がしていた。
誰にも頼らず、
苦しみを当然のように抱えて、
助けを求める方法さえ知らなくなってしまったこの人を。
少なくとも、自分は見過ごしたくなかった。
窓の外では、夜の雪が静かに降り続いている。
王都から遠く離れたこの屋敷で、リゼットはようやく知った。
自分の知識が、誰かを救う形を持てるのだと。
そして同時に思う。
王城での断罪と、この呪いめいた症状は、やはり無関係ではない。
ならば必ず辿れる。
奪われた夜の先にある、本当の答えへ。
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