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相沢蒼依
霞
父は図書寮に仕える官吏だった。
いまどき音物などが嫌いで、厳格な人だった。だから出世はしていないけど、母は父よりも少しだけ良い家柄だったようで、家は作法を重んじ、それなりに暮らせていた。
私は三人きょうだいの一番上で、下の二人の面倒をよく見た。家の手伝いも作法に則ってきちんとこなした。母から頼られ、父には褒められ、たぶんしっかり者に分けられていたと思う。
だけど末の子は向こう見ずでむらっ気がひどく、私は心配してよく諫めた。作法を教えても聞く耳を持ってくれない困った子。けど笑った顔はどこに出しても恥ずかしくない、愛くるしい男子だった。
やがて私の年が十を数えた頃。
目の前で、末の子がならず者に刺し殺された。
小さな路で隠れ遊びをして遊んでいたときだった。見るからに風体の良くない男が通りかかり、末の子の友を蹴飛ばした。よせばいいのに末の子は友を守ろうと突っかかり、男が持っていた刃物で刺された。止めに入る間もなかった。
私は泣き、怒った。
頭の中で、感情がなにかの輪郭を結んだのを感じた。気が付くと額の皮膚を突き破り、めきめき音を鳴らして尖った骨が生えてきた。腕や足もひどく軋んで血筋が膨らみ、異様な力が湧いてくる。
いけないものが目覚めた気がした。
なぜか男を殺せる確信が燃えていて、私を突き動かした。
もっと末の子を強く諫めていれば。よくない者に対する作法を叩き込んでおけば。悔しさを拳に込め、私は男を何発も殴打した。何発も何発も。
幸か不幸か男は死なず、事情が鑑みられて私にお咎めはなかった。
いまから考えたら、父が裏で手を回したんだと思う。たぶん厭うていた音物などを使って。放っておいても大事には至らない咎……、それどころかならず者を捕らえた功績すら賜れたかもしれないが、家の者から鬼女が出たのだ。公になどできるはずがない。
私は屋敷の奥に小屋をこしらえられ、そこに監置された。
なにかと頼ってくれた母も、たまにやってきて褒めてくれる父も、もう寄ってはこなかった。無言の下人が狭間から飯を運んで来るだけだ。
真ん中の弟がたまに話しに来てくれるのが慰みだったが、やがて成長して彼も来なくなった。鬼女に対する作法なのだろう。世間の目に晒されては父母も辛い。仕方ないと言い聞かせた。そうすることでしか、自分を保てなかった。
私は心の中に末の子をこしらえ、彼と話をしてときを過ごした。助けられず許して欲しい。作法を教えられずごめんなさいと何度も虚像に向かって頭を下げた。
虚像はずっとしかめ面のままで、そうして何年も月日が過ぎた。
このままこの小屋で果てるのか。それが鬼女の作法か。
そう覚悟をしていたがある日いきなり、重く閉ざされていた小屋の戸が開いた。巻き上がる埃に久しぶりに感じる外からの風。幼い頃は当たり前に感じていた新鮮なものが、私の肌を甘く撫でた。
「なるほど、立派なツノだ」
陽の光と共に薄暗い小屋に現れた男は、丸みを帯びた口調で言った。逆光になってはっきり分からなかったが、それでも蒼々と輝く瞳ははっきりと見て取れた。
「夏場なのに涼しい小屋だね。そなたの呪か?」
小屋を見回す男。ツノが生えた私を、まるで怖がらず、汚らわしいという仕草も見せなかった。あまつさえ優しい笑みを目元に湛え、私に手を伸べた。
「私が怖くはありませんか? 鬼女への作法は要らないのでしょうか?」
「まったく思わん。母もそうだったからね、私はそなたたちが情の深い者だと知っている。私はそなたの弟から頼まれて参った者だ」
男はさらに口角を上げた。男の背後には、すっかり大きく立派になった弟がいた。
「父君には内緒で、姉上をこの陰陽師に頼みました。どうか、これだけしかできない自分を許してください。あと――」
弟は涙を浮かべ、笑みを浮かべた。
「幸せになって」
私は弟の言葉にゆっくりと頷き、そしてその陰陽師から坤鬼舎について説明を受け誘われた。
心に居をこしらえる末の子にどうしようかとお伺いを立てると、彼はどこに出しても恥ずかしくないあの笑みを浮かべてくれた。
坤鬼舎に住まうと霞と名付けられ、私は自分に言い聞かせるように晴明さまを愛した。ここにいる以上は、それが作法だと心得ていたから。
やがて自らへの暗示が事成ったのか、私は歓びをもって晴明さまを夫君と意識して愛した。けど、問題もある。
最近入ってきた末の妹、夜火。
むらっ気、無作法、危なっかしさ、全てが死んだあの子にそっくり。
坤鬼舎の務めはいつも危険を伴う。
私は、あの子を……。
※
疲れ過ぎたのか、その日は夢と現の境がずっと曖昧だった。
微睡の中で、亜鐘姉さまがなにかと面倒を見てくれたのは覚えている。他の姉さまたちも……、陸燈姉さまや、あのときあんなにわたしを叱った霞姉さまでさえ様子を見に来てくれていたようで、なんとなくぼんやり受け答えをした記憶があるようなないような……。元々、忘れん坊の夜火の二つ名をほしいままにしていたしていたわたしなので、こんな有様ならなおさらだ。
逆に忘れたくてもできないのが、罪の意識だった。
晴明さまを殺しかけ、姉さまたちも手にかけ、赤ん坊の穢悪を祓った。
大事なものを、居場所を……。
手をぐっぱと握る。まだ消えない感触。こんなわたしでも、晴明さまはかばってくださった。あのとき、彼はどんな気持ちだったろう。考えると涙が溢れる。
ごめんなさい。
何度目かの謝罪を心で述べ、ごろんと横向きになった。ふと、この体勢で赤ん坊をお腹に抱えたことを思い出す。
穢悪だった。だから祓った。間違いは犯していない、はず。
だけど、この罪の意識はなんだろう。
一日限りの思い出。穀粉を煮溶かした湯を不味そうに飲み、排泄もちゃんとしていた。明日は近くの集落の誰かに、もらい乳を頼める人がいるか探そうと話し合っていた。霞姉さまがあのとき、集落を回っていたのはそのためだ。あの子からは怨の気配も覚えず、疑いもなく人の子だと信じていたのに……。
生まれ変わって、生きたかったんだろうなあ。そう言っていたし。
なのに……。
と、ここで泣き虫の夜火の目頭が熱くなり、考えが途切れる。その先に思いを走らせるのは、どうしても恐ろしかった。
晴明さま。
ひどいことをしておいてムシがいいんですけど、あなたの声がいま欲しいです。
翌日。
なんとか床を上げ、わたしは局の中央で座し、考えを馳せていた。
わたしが犯したことの沙汰は、たぶん今日受けるだろう。
刑を待つようで心は疲れていたけど、晴明さまや姉さまたちをこの手で危険に晒した罰だ。
そしてそれだけでなく、なんとなく自分自身の体に妙な違和も感じていた。
魚の小骨が喉に引っかかるような……。
なんだろう。呪がなんとなくおかしい感じ?
ちょっと試しに髪を伸ばしてみる。けど――
「ウソでしょ……?」
「では魚の穢悪について、合評したいと思う」
残照に烏の泣き声が滲む頃、坤鬼舎の面々は主殿に集まり、わたしたちは板間に正座して頭を垂れていた。
まず上座に晴明さま。彼に対峙するように陸燈姉さま。そのうしろに、わたしを含む他の鬼女たち。
わたしは床に指をつき木目を見ながら、恐怖に震えていた。
もちろん失態は自覚している。晴明さまや姉さまに手をかけた咎は、穢悪を祓った功の何倍も大きい。たぶんここを追われる。
でもなんとか坤鬼舎の外……、モリの小屋にでも置いて欲しいと、晴明さまや姉さまたちのお情けに縋ろうと考えていた。床にツノを擦り付けてでもそうお願いするつもりだった。
穏やか……、とは言えないけど、わたしにとってここは、やっと見付けた居場所なのだ。スケを探す役目も残っている。
日々の雑用で構わない。良い衣も駄賃もいらない。穢悪の清祓には、もう役に立たないのかもしれないけど……。
「ま、手強い穢悪だったな」
晴明さまが朗らかに口火を切った。冷や汗が背を伝う。
「あれほどのは見たことがなかった。もしあのまま都に行かれでもしたら、この坤鬼舎の存亡に関わるところだ。事前に止められたので、まあ良しだ、良し」
あぐらをかく晴明さまはぽんと膝を打ち、
「ところで亜鐘」
山なりの目線で、わたしの隣の亜鐘姉さまを呼ぶ。
「気配がまったくなかったと聞くが、その前兆を思わせるものも感じなかったのか? 赤ん坊があれだけ近くにいながら」
「……お許しください。これまでの穢悪とはまるで種類が異なり……」
「いいんだ。他の鬼女も分からなかったようだし。しかし原因は考えておいてくれ。お前の呪が通じないとなると、これから同じような穢悪と会敵したときが大変だ」
「必ず」
「あとは」
晴明さまはしゃんと背を伸ばし、神妙な顔をした。
「みなも気付いていると思う。あれだけの穢悪だ。洪水による怨とこれまで溜まっていた怨とが身を合わせたのだと考えたが、どうやら違う」
「違う?」
命恋姉さまがキョトンとした。
彼女は穢悪へのカンが、少し鈍い。
「違うようだ。以前から高まっている怨が消えていない。あれだけの怨が端にすらならなかった。都からどこかへ流れて高まりつつある怨、考えていたよりなお、恐ろしい穢悪になるかもしれん。そして……、たぶん決壊が間近だ」
「うそ……」
顔をしかめる命恋姉さまに、
「このまま霧散もないとは言えんが、願いに縋るのは止そう。――あとお前たち」
晴明さまは苦笑いを浮かべてから、ぐるりとこちらを見回す。
そうして次の言葉まで、たっぷりと間を取った。重要ななにかを仰ると、わたしたちに分からせるための間だと思った。
いよいよ、わたしに沙汰が下される。
板間につく手が震える。なんとか、なんとか……。
「すまなかったな」
神妙な声を、晴明さまは出した。
それは覚悟していた言葉とまるで違った。
「災いのあとは穢悪が出やすいと知ってはいたが、あれだけ強いのがいきなりは経験がなかった。備えを怠った私の失態だ。責の全ては私にある。許して欲しい」
「そんな!」
わたしは勢いよく頭を上げた。
「か、か、か、かばってくれなくても! かばってくれなくても大丈夫です! 覚悟はしてきました!」
「落ちつけ、夜火」
「落ち着いてます!」
と、言いながら声が裏返った。恥ずかしいけど、真顔と勢いで押し通す。
「隙を突かれて窮地を招いたこと、晴明さまを……手にかけたこと……、山を散々な有様にしたこと、赤ん坊をこれからも坤鬼舎で育てようと言い出したこと、全てわたしに責があります! 最後は覚えがなくなるくらい暴れ回って……」
「赤ん坊、育てるつもりだったの?」
晴明さまは緩く笑んだ。
「ま、いいよ。夜火に責がないとは言わないけどね、それを言い出したらこの場にいる誰もが、なにかしらの形でそうなる。とりあえずお座りなさい」
「でも」
「いいから」
青やかな目を鋭くして、晴明さまはわたしを見た。主人然とした風格を感じる、逆らうことが憚られる眼差しだった。
「座りなさい」
「――……御意に」
圧を孕むお命じに従い板間に座る。亜鐘姉さまが隣から、わたしの膝に手を添えてくれた。涙が出そうだった。
「坤鬼舎はね」
晴明さまは鬼女たちを見回し、ゆっくりとした口調で話し始めた。
「私が責任を持つお前たちの家だ。理もなく舎の主を追放する愚を誰が犯そう。責なんか全部、私にかぶせちゃっていいからね、お前たちは次の務めをどう果たすか考えなさい。この家はお前たちの務めがもたらす禄で保たれてるんだから」
「わたし、たち……」
わたしたちの家……。
どこか宿を借りている心地で、これまでを過ごしていた。
噛み締めるように心の中で言葉を繰り返し反芻する。甘美で、温かい響きだった。
「こう言えば陳腐に聞こえるかもしれないが、私は鬼女に自信と誇りを持たせることが坤鬼舎の使命だと考えている。お前たちだけじゃなくて、全ての鬼女の。そのためにすする泥なら喜んで飲み干してやろう。――夜火」
「は、はははい」
わたしは震える声で返事をした。胸に迫るなにかに、必死に抗っていた。
「お前は転んでしまったが、私はそこに興味はない。私の関心は、立ち上がろうとするお前の姿だ。期待している」
※
合評が終わり、わたしはまだ心地の整理が付かないでいた。
様々な感情が入り混じり、すぐになにかを考える余裕がないのだ。
晴明さまの言葉は胸にじんじんと染み込んでいたけど、それよりもお側を離れなくていいという安心感に、いまにも頬が濡れてしまいそうだった。
だけど泣くのはまだ。せめて局に戻ってから……。
くちびるを噛んで我慢し、局の戸が並ぶ中廊を歩く。
すると一足先に戻っていた亜鐘姉さまが局から現れ、
「大丈夫だった?」
労わるように、わたしを覗き込んだ。
いつもいつも心配かけて面目ない気持ち。
「ちょっと涙が出そうですけど、……まだ大丈夫です。坤鬼舎にもいられそうで、わたし嬉しくて……」
「よかったわね。わたしも、あなたとは仲良くしていたいもの」
亜鐘姉さまはにっこりと笑むと、
「さ、じゃあ急がなきゃ。晴明さまがお話あるって。また明日ね」
足早に主殿の方へ向かって行った。
あんな事態を目にしたばかりだけど、いやに機嫌がいい。
まあこの間は少し危うさも感じたし、快いのはいいことだ。それよりもいまは自分の方がちょっと……。
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