テラーノベル
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まだ涙が止まらない。
溶けた緊張が涙となり目から川を流してしまって、自分ではどうにもならずに流れ続ける。板間に染みた涙はなかなかの量だ。坤鬼舎にきてから、本当によく泣くようになってしまった。
そしてそんなわたしの背中を、
「そろそろ落ち着きなさいよ」
と、困惑しながらさすってくださる晴明さま。
夕方からひっくひっくとやっていると様子を察して見に来てくれ、ずっと傍らで労わってくれているのだ。面倒臭い女房で心底面目がなかった。
「いやあ、それにしても嬉しいよ、夜火。私の言葉がそんなにお前の胸を打つとはねえ」
晴明さまがわたしの背をさすりながら、うんうんと我褒めする。
「事前に話を考えて練習した甲斐があるってもんだよ。やはり滲み出る貫禄というか威厳は隠しようがない……」
「うう……。じゃなくて、追い出されると思ってたから安心して……」
「そこは『そうです』でいいんだよ。そろそろ泣き止め」
「晴明さまが一人でお喋りの練習してるとこを想像したら、なんだかだんだん治まってきました」
「そいつはいい」
晴明さまは背を撫でていた手で、わたしの頬を軽くつねった。ひどい。
「ま、赤ん坊のこともあるからね、お前は特に心配していた」
「……大丈夫です。赤ん坊、捨てられてたのが、なんか自分と重なってたので。だけど、……穢悪だったんですもんね」
「そうだ」
晴明さまは引き締まった声で答えた。
「しょせんは人間だからね。赤ん坊を装ってお前たちを騙した。夜火が気にしちゃいけない。お前の情は美しい」
わたしをかばってくださっているんだろうか。でもあれは人間の生きたいって気持ちが形を結んだ仕方ない怨だから、そうまで言うと可哀相な気がする。
「それにね、私はお前たちに感謝している」
「わたし、たち?」
「お前と命恋」
「どうしてですか? 命恋姉さまはともかく……」
「これ」
晴明さまはそう言って、袖をまくって腕を見せた。
わたしをかばってえぐれた部分は痕に残り、痛々しく責を訴えかけてくる。命恋姉さまの呪は自然治癒の力を高めるだけで、傷をなかったことにはできない。
「……お許しください。あの、次からは……」
「責めていない。言ったろ? 謝び、慈しんでいる」
晴明さまの言っている意味が分からない。小首を傾げると、彼は袖を戻してわたしの手を取った。晴明さまの体温を感じ、鼓動が一つ跳ねる。
「あの、晴明さま?」
「来い」
晴明さまがわたしの手を引いた。
不意の力に体勢を崩して、引かれた方へよろけてしまう。しかし彼はこの体を抱き止めると、わたしの顔を正面に見た。間近に見る紺碧の眼差しに、鼓動がまた大きく跳ねる。
「う、あの、お、お戯れを……」
「戯れてはいない。今日からの坤鬼舎泊まり、命恋の次はお前の番だ」
彼は強く否定するとわたしの後頭部を支え、そのまま素早くゆっくりと、このくちびるに自分のそれを重ねた。
驚き、胸に響く鼓動がさらにうるさくなる。
四肢に力が入らない。
くちびるから晴明さまが流れ込んでくる。たまらない愛おしさと共に。
二人とも、しばらくそのままだった。
晴明さまは片手でわたしの頭を支え、片手でツノを優しく撫でてくださった。
わたしは全身が溶けていくような、甘く切ない心地に締め付けられた。驚きが消えると、もう抵抗の意志は消えていた。乾いたくちびるが濡れた感触に変化すると、彼はさらに深くわたしの口をこじ開けた。そこから出た自分の声が混じる吐息が、なんだか他人のもののようだった。
「美味いな」
くちびるを放すと、晴明さまはいつものように飄々と笑んだ。
「お前は私が思っていたよりも早く熟れた」
「……本当、に?」
「疑り深いやつだ」
晴明さまは表情そのままで、またわたしのツノをさすった。ごつごつしている骨と皮だけの部分に、彼の柔らかな感触が伝わり背筋が痺れる。胸もいっぱいになり、手は晴明さまの着物を握っていた。
「私は死んでいたかもしれない」
ゆっくりとした時間の中で、晴明さまは耳元に囁く。
「あの、魚の穢悪、を、祓ったときですか?」
「お前に飛び付いたときだな。腕の傷の」
「…………」
やっぱりわたしをかばったときの傷。でも責める口調ではない。わたしは自分の耳を愛撫する晴明さまの指に手を添え、そのまま話を聞いた。
「あのとき魚の光に胸を貫かれたと思ったが、しかし私の反応の方が瞬きほど早かった。いや、瞬きほどもなかったかもね。いずれにしろ生死を分けた一瞬だった」
「それが、わたしや命恋姉さまと……、関係、が?」
息が勝手に荒くなる。頬にもきっと朱が射していて、少し恥ずかしかった。
「あるさ。お前たちは都まで行って、水難に遭った人間を助けたろ」
「……はい」
「穢悪は怨が身を合わせたものだからね。お前たちが人を助けた分、紙一重で私は助かったのかもしれない。だから、感謝だ」
「恐れ多く、身に余るお言葉です……」
「余るものか」
晴明さまは再びくちびるを重ねた。
さらに彼は舌を深く差し込み、しばらくわたしの口の中で優しく踊った。わたしも踊りを供にした。もう驚かなかった。唾液を交換する淫靡な音に、だんだんと支配されていく自分を感じた。
「――私は、迷っている」
くちびるが自然に離れ、晴明さまは鼻がくっつきそうな距離で語った。まったく覚えがないけど、いつの間にか床に横たえられていた。
「晴明さま、が?」
「そうだよ。意外か?」
彼はわたしの顔の横に肘を立て覆い被さり、間近でふふと笑う。
「晴明さまみたいに賢い方でも、お迷いになるんだと思って」
「前も言ったろ? そう振る舞っているだけだ。本当は夜火の前でしか素直になれない、ちっぽけな人間だよ」
晴明さまはわたしの頬を撫で、そしてちょっとだけ真剣な眼差しになった。乱れたままの小袖が恥ずかしかったけど、きっとこのままでいいんだと思い放っておいた。
「私はね」
晴明さまが、わたしから目線を外して口を開いた。
「思うんだ。夜火の人への情が、私の命を繋いだ。これまで私は人を憎しみさえしてきたけど、お前の情に助けられたのであれば、お前に倣うべきではないかと。もしかするとお前は、私にとって干天の慈雨かもしれない」
「人が、憎いのですか?」
「母君が殺された。目の前で無惨にな」
「……そう」
わたしは手を伸ばし、彼の頭を撫でた。失う苦しみや悲しみが、いまなら実感を保って理解できる気がした。
「お可哀想」
「そう。私は可哀想だ。それだけに夜火が分からない。お前はどうして人を助ける? なぜ人を許すのだ? だって迫害されてきただろ? どうしてだ?」
「許す……。んー、許す……」
考えたこともなかった。
許す許さないで言えば、なかなか根に持っているし、あんまり許したくはないかなあ、うん。許したくはないことも多いけど、でも。
「鬼女にも人にも、いい人はいます」
坤鬼舎の姉さまたちや、スケ。悲田院のお坊さんや、都で穢悪を祓ったときに喝采してくれた市井の人々。わたしが嫌いなのは、鬼女が、人がと分ける心の内に巣食う穢れだと思う。
それになんと言っても……。
「晴明さまだって、人ではないですか」
「……ん。まあ」
「でしょう? であれば人をまとめて嫌えるわけはありません」
わたしは精いっぱい笑って、晴明さまと目を合わせた。
「人とか鬼とかどうでもいいです。みんな合わせて好きな人は好きで、嫌いな人は嫌い。晴明さまが人間を一括りに嫌っているのも、わたしは少し悲しかったかもしれないです。でも」
「でも?」
晴明さまは不思議そうに目をパチパチさせて、語尾を繰り返した。
滅多に見せないお顔が可笑しくって、今度は自分から彼にくちびるを重ねると、その体をぎゅうっと抱き締めた。
「でもわたしの命を繋いだのも、あなたさまです。わたしは晴明さまのお優しさを、他のなによりも愛しています」
※
あのあと、晴明さまはわたしの局で夜を明かした。
暑い時期であれ坤鬼舎の夜はひんやりしていて心地良いのだけど、今夜のわたしの肌はそれどころではなく汗ばみ続け、ついにその夜気を感じられなかった。
闇が濃くなってもわたしの荒い息遣いは収まらず、うわ言のようにずっと晴明さまの名を口からもらしていた。
これが自分のものかと思うほど声は濡れ、晴明さまはそうしたわたしの口をよく塞ぎ、ほとんど寝ぬまま夜が明けていく。
房事ってもっと生々しいものを想像していたけど、少し違った。彼を感じている間は、心の中に陽だまりを見ていた。夜盗として悪事を尽くしていたあの頃からは考えられない温かな感情だった。
地面に這いつくばって虫ケラみたく死ぬのが天命と思っていたのに、いま体験している柔らかな瞬間だけで、これまでのなにもかもが救われた気がする。女としては見られないと思っていたのに。熱に浮かされるようなこんなこと、この人生には訪れないと思っていたのに。
やがて陽が地平に訪れると、わたしは晴明さまの着替えを手伝いながら別れを噛み締めていた。後朝の別れという表現はどこかで聞いたけど、実際に経験として実感してみると、なるほど、これは切ない。
「聞きそびれていたが」
晴明さまは居ずまいを正して、わたしに声をかけた。
「その後、兄者からはなにか接触があったか?」
「いえ。特になにも。前から思ってたんですけど、保憲さまとそういう話はされないんですか?」
「そもそも会うことが少ないのでな」
「……もしまた誘われても、ここを離れたくはありません」
「追放を覚悟したと言っていたね。そうなった場合でもか?」
「――頭をかすめもしませんでした。土下座して、なんとかモリの小屋に住まわせてもらおうかと……。前も言いましたけど、わたしを他へやるようなことは言わないで欲しいです。寂しくなってしまうから……」
それにいまのわたしじゃ、向こうももう要らないと思うし……。
「……すまない。どうしても自信が持てないときがある」
晴明さまは言って、そっとわたしのくちびるを吸った。すぐ都へ帰るらしい。
本音ではこのままここに留まって欲しかったけど、よく考えたらこの人、本所の片付けが嫌で逃げて来たままだったのだ。人嫌いである前に、そろそろ自分が下人たちに愛想をつかされているのでは。
そして朝を照らす光を胸一杯に吸い込んで、ようやく朝餉のとき。
わたしは主殿の板敷に座り、白目になって食台を前にしていた。冷や汗が次から次に血の気の失せた顔を濡らし、とても生きた心地がしなかった。
腹は減っている。それは間違いない。
でも食台に並ぶのは当代きってのごちそう、強飯とその他諸々。わたしがお手付きになったときに炊くと予告を受けていた、あの強飯である。
これ、どうしてだろう。昨夜の晴明さまとのあれこれなんて誰にもまだ言ってないのに、どうしてみんな知っている? 答えは一つだ。
「ヨルって声大きいわよねー」
命恋姉さまがアハハと笑って強飯をぱくり。
目をつぶり吐息をもらして強飯の感動を表現しているけど、こっちはそれどころじゃない。恥ずかしさと気まずさで周りの姉さまたちをまともに見られず、長い間、じいっと強飯を凝視していた。いま誰かが気を失うほどわたしの頭を殴ってくれたら、すこぶる感謝するだろうなと思った。
「気にしないでいいわよ、夜火。これは坤鬼舎で新枕を済ませたあとのお作法だから。本当は餅の方が相応しいんだけど、あのお方は気まぐれで突然だから用意が難しいのよ」
霞姉さまが声をかけてきて、わたしはますます俯いてしまう。姉さまたちの気にしてないって態が、これまた胸に重いのだ。
確かに他の姉さまの房事の声が聞こえる夜もよくあるけれど、いざ自分となると恥ずかしさは相当である。次があれば死ぬ気で我慢しようと思った。
「あ、あのう」
わたしは恐る恐る目を上げ、そっと周りを窺う。そして話題を逸らすように、頬をかきながらヘラリと笑った。
「あのう、そう、亜鐘姉さまは? せっかくの強飯なのに……」
「亜鐘?」
霞姉さまが眉をピクリと反応させた。
主殿では局の配置と同じ形で席順が定まっていて、わたしの前の席が亜鐘姉さま。
だけど今日はまだそこに彼女の姿が見えない。いつもは背筋をしゃんと伸ばして、穏やかな表情で着座しているのに。
昨日も様子がちょっと変だったし、もしかしたらまだ穢悪の件を気にしているのかも……。
「…………」
霞姉さまは口をもごもご動かしながら、なにごとか思案している。話題を逸らしてやっと強飯に……、
「夜火」
ありつこうと思ったら、霞姉さまの呼びかけ。
「悪いけどあんた食べ終わったら、亜鐘の局にお膳を持って行ってくれない?」
「亜鐘姉さまの? わたしはいいですけど……」
陸燈姉さま以外の鬼女は、主殿で集まって食べるのが坤鬼舎のお作法だ。その部分を大事にする霞姉さまが、自分でないがしろにしてしまうのは珍しい気がした。
「で、変わったことがあったら、わたしに言って」
「変わったこと、ですか」
「……亜鐘が来ないなんて珍しいでしょ? もし咳病なら薬草を採って来ないと」
「? かしこまりました……」
軽い障りなら命恋姉さまが治せるはずなんだけど。
まあ、いいか。なんだかんだ誤魔化せたみたいだし、強飯は美味しいし。ただわたしの問題は、そう……。
大丈夫。すぐに治るはずだ。いままでこんなこと、なかったし。
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