次の週の月曜日、あたしは立花を外へ連れ出した。
「お、おい、どこへ行くんだ! 今日はカステラを作る用意をして――!」
「何一つまともに作れないくせに、新しいレシピに手ぇ出してどうすんのよ!」
現場実習という名目で、立花の腕をぐいぐい引っ張っていく。しばらくは抵抗していた彼も、校門を出た頃には諦めたらしい。あたしの半歩後ろ辺りを、不承不承ついてくるようになった。
あたしはそっと、さっきまで引っ張っていた立花の右手に目をやった。今までも目に入っていたはずなのに、今更気づいたのだ。その手が、やけどや切り傷だらけになっていることに。
料理なんてほとんどしたことがないのだろう。しかも、あれだけ不器用で段取りも悪いのだ。こんな手になるのも当然だ。
だが、少し不思議に思った。
顔が良くて、頭が良くて、運動神経は知らないが、立花はほとんどのものを持っているように見える。それなのになぜ、ここまで和菓子にこだわるのだろう。
そこまでして、続けるのだろう。
「しかし、前から思っていたんだが……」
「――えっ?」
突然話しかけられて、あたしは物思いから引き戻された。
「おまえはそんなに桜が好きなのか?」
「……は?」
(桜?)
桜の話なんて、してたっけ。あたしは首をかしげる。
確かに、今日は小春日和で温かい。だが、春ではない。風の冷たさはやがて来る冬の鋭さをはらんでいるし、春には桜並木になる街路樹は紅葉し、すっかり秋の様相だ。
立花の質問の意図を測りかねているあたしに、彼は「名前のことだ」と付け足した。
「おまえの名前、櫻庭の桜に、名前の桜。上下が桜で挟まれているだろう? だから」
「ああ、そのことね」
あたしは納得して頷いた。そうしょっちゅうではないが、立花と同じように、あたしの名前に疑問を持つ人もたまにいるのだ。
「あ、でも、それをいうなら、あんたの名前の方が不思議じゃない? ねえ、なんで陸太朗なの?」
古風というのか、変わっているというのか。彼に似合っているとは思うが、珍しいので気になっていた。
「ああ……、それは……」
立花は言いにくそうに口ごもり、一拍置いて観念したように口を開いた。
「祖父だったか、曾祖父だったかが、陸上自衛隊のエリートだったらしくて……。それでまあ……祖母が」
「――えっ!?」
「陸」上自衛隊の偉い人だったから「陸」太朗?
そうすると、もしその人が、陸上自衛隊ではなく海上自衛隊にいたりしたら、違う名前になっていた可能性があるということだ。
あたしは口を押えながら、立花に同情した。
「よ、よかったね……、『陸』太朗で。――――海太朗?」
「おまえな……っ!」
切れ長の目を細めて、海太郎改め陸太朗は怒りをあらわにする。あたしは慌てて話を戻した。
「あー、えっと、あたしの名前の話だったよね? あたしも昔、気になって親に聞いてみたことがあるの。そうしたら、それは同じ桜じゃないんだって。一つ目の桜は春の桜、二つ目の桜は秋の桜――あ、コスモスのことね。で、春から秋、秋から春まで一年中、ずっと美しい花に囲まれて幸せでいられますようにってことなんだって」
「……ふうん」
「まあ、それでもそこで、なんで桜なんだって話になるんだけど。あんたの言う通り、結局桜が好きなのかもね。あたしもまあ、嫌いじゃないし」
陸太朗は、少し考えた後、口の端をわずかに上げた。
「じゃあ、和菓子と出会ったのは運命かもな」
「え?」
「和菓子は四季の移り変わりを表現するお菓子だ。春夏秋冬、それぞれの季節の美しい情景や一瞬を切り取って、映し、表す。モチーフとなるのは花などの植物が多い。もちろん、桜もな。和菓子と関わっていれば、お望み通り、一年中花に囲まれていられるぞ」
そう言って、陸太朗が足を止めた。
再び抵抗するのかと思いきや、そこは陸太朗の祖母がやっているという和菓子のお店だった。予定とは違うが、彼が寄って行けというのでちょっと寄り道することにした。
陸太朗が木造の扉を開けて、照明をつける。ぼうっと浮かび上がった店内には、独特の寒気が感じられた。人の気配がなく、よそよそしい。しばらく閉まっていたからだろうか。
ガラスケースの中身は空っぽで、周囲の棚には、長く保存できそうなお菓子がわずかに並んでいるだけだ。陸太朗がカウンターの中に入り、ケースからパンフレットを取って見せてくれた。
彼が自慢げに広げたそれには、色とりどりのかわいらしいお菓子がたくさん載っていた。
薄い黄色や淡い紫、水色や萌黄色の小さくてころんとしたものが、花や実の形になってそっと鎮座している。宝石のように透き通っているものもある。おもちゃみたいな愛らしさに目を奪われ、思わずため息が出た。
「これは練りきりというんだ。秋なら紅葉や栗、柿をモチーフにしたものが多いな。そっちは寒天をいったん溶かしてから干して固めたお菓子で、透き通っていてきれいだろう? 白濁させずに透明感を生かしたのは、琥珀糖と言ってな……」
陸太朗の講釈が続く。どれも初めて見るものばかりで、和菓子とはもっと地味なものだと思い込んでいたあたしは、夢中で眺め続けた。
もちろん洋菓子もきれいだが、和菓子にはそれと違うぎゅっと詰まった可憐さを感じる。繊細で、こじんまりとしていて、美しい。食べるのがもったいない芸術品のようだ。
「……でもさ、確かにきれいでかわいいけど、お菓子ってやっぱり一番は味でしょ。味がいまいちだったら、いくらかわいくても一回買って終わりだと思うし」
そう言うと、陸太朗からじろりと睨まれた。
「ばか言え。味もうまいに決まっているだろう。特に、うちの芋ようかんは絶品なんだ。他の商品だって、そこらの洋菓子と比べても絶対に引けは取っていない」
「ええー? そうかなあ? 正直、あんたに味の良しあしがわかるとは思えないけど。だって、あんなすっぱいのとかしょっぱいのとか、食べても平気なくらいだし」
「あれは……、うまいとは言ってない。ただ、食べられはすると言っただけだ!」
陸太朗は気分を害したようで、さっさと店を閉めてしまった。もう少し見ていたかったのだが、言い出せる雰囲気ではない。
あたしはもとの予定に戻り、お気に入りのクレープ屋へ案内することにした。といっても、すぐそこだ。商売敵の店へ入るわけがない陸太朗を残し、あたしは駆け足で店へ向かう。
「おい、どこへ行く?」
「ちょっとそこで待ってて!」
女子受けするお洒落なドアを開け、店内を素早く見渡すと、客のいない隙を狙って目当ての品を注文する。慣れているので、代金を払って店を出るまで数分だ。あきれたような顔で待っていた陸太朗の元へ走り、そそくさとフィルムを剥がした。
「じゃあ、はい、口開けて」
「…………は?」
またもや宇宙人でも見るような目つきになった。失礼すぎる。
「これね、今あたしがはまってるフルーツサンド! この店、本来はクレープがメインなんだけど、最近はこっちの方が人気なんだ。今日は売り切れてなくてよかった! あんたにもおいしいスイーツというものを教えてあげようと思って連れてきたからさ。だから、はい、あーんして」
本当は自分で食べてもらうつもりだったが、さっきの洋菓子を見下すような発言で考えを改めた。普通に渡したとしても、素直に食べるとは思えない。
だから、陸太朗方式に切り替えることにする。
「は? なんで俺がそんなものを食べなければいけないんだ。それが好きなのはおまえだろう。なら、自分で食べればいいじゃないか」
「だーかーらあ! 味音痴のあんたのために、正解というものを教えてあげようって言ってんじゃん!」
「余計なお世話だ。大体、公衆の面前でそんな正視に耐えない真似をするな」
「あんたがいつもやってることでしょおお!」
怒りで血管が切れるかと思った。トモヤがここにいたら、後ろから羽交い絞めにしてもらうのに。
「強引に顎をつかんだり! 無理やり口を塞いだり! いつもあんたがしてることじゃない! 今度はあたしがこうする番よ!」
「誤解を招くような言い方をするな! あれは、おまえが嫌がるから仕方なく――」
「あんただって今嫌がってるでしょうが! ……ああもう、こんなかわいい子があーんしてあげるって言ってるんだから、つべこべ言わずに黙って喰えー!」
陸太朗の顎をつかんで口を開けさせ、勢いよくフルーツサンドを押し込んだ。いつもされているためか、コツはなんとなくわかっていた。
陸太朗は目を白黒させていたが、いつもあたしに「もったいない」と言っている手前、吐き出したりはできないようだ。苦虫を噛み潰したような表情で、しぶしぶ口の中のものを咀嚼し始めた。
「……ねえ、どう? どう? クリームもいっぱい入ってるし、ボリュームたっぷりでおいしいでしょ? 確かにスイーツ苦手な男子も多いけど、あんたは和菓子好きなんだから、これもきっとおいしいと思うんだ!」
「…………」
陸太朗の表情は変わらない。難しい顔をしていて、とても甘いお菓子を食べている最中とは思えない。
やがて、そんな顔のままぼそりと言った。
「あー、なんというかこう……、甘ったるいな」
「えっ? そう? ここのって、甘さ控えめで、フルーツの味がしっかりわかるって評判なんだけど」
「――っ、そ、そうか。ああ、もしかしたら、このバナナが甘すぎるからそう思ったのかもしれないな」
何かをごまかすように早口になった陸太朗を前に、あたしは一瞬、言葉に詰まった。何かの間違いかと思って、手元のフルーツサンドに視線を落とす。
「……これ、フルーツサンドだけど、中身はサツマイモ、なんだよね……」
「――っ」
明らかに陸太朗の顔色が変わる。それを見て、あたしの中で、今までの違和感がはっきりと疑惑に変わっていった。
陸太朗にフルーツサンドの中身が何かは教えていない。切り口が見えたとしても、口に突っ込むときの一瞬だけだったろうし、大きさも色もバナナに似ていると言われればそうかもしれない。
だが、食べればわかるはずだ。さっき、芋ようかんが好きだと自分で言っていたではないか。
それなのに間違えた。味覚音痴で済まされるレベルだろうか。
「……陸太朗。あんた、あたしに何か隠してることがあるでしょ……?」
「…………」
陸太朗は口を真一文字に引き結んだ。目をそらし、地面の一点を睨むように見つめている。
沈黙は息苦しかったが、あたしはいつまでも待つつもりだった。
じーっと目を追っていると、根負けしたのか、陸太朗は大きなため息をついた。
「わかった、言う……、おまえには、教えておくべきだろう。とりあえず、ここから移動しないか」
気が付けば、店の前で騒いでいたあたしたちは、ものすごく注目を浴びていたのだった。
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