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学校から続く桜並木のある大通りは、町の中央を流れる一本の川にぶつかっている。そこにかかる橋を渡れば駅の方へ行けるし、川に沿って降りていけば、水遊びもできる護岸地帯に出ることができる。
「あ、コスモス! もう咲いてるんだ……」
川岸には秋桜が咲き乱れ、夕方の風に吹かれていた。街中より幾分か冷たい川風は、制服の隙間から入り込んできて容赦なく体温を奪っていく。もうそろそろコートが必要になるかもしれない。
「そういえばさ、さっき、桜が好きかって聞いたじゃん?」
「……ああ」
「あたしはどっちかっていうと、コスモスの方が好きなんだよね」
陸太朗の先を歩き、ぴょん、と河原のところどころにある大きな石へ飛び移った。
「春の桜もきれいだけど、あれってぶっとい幹とか、がっしりした枝とかの先に花が咲くでしょ? それよりは、コスモスの方が可憐ではかなげでかわいいなって」
「……可憐……」
「あ、今、もしかして笑った!?」
「……いや」
ムッとして後ろを振り向いたが、陸太朗の顔に笑顔の残滓は見られない。あたしが止まったのを確認した陸太朗は、草の上に座って川の流れに目を向けた。仕方なくあたしも彼の元へ戻り、少し手前の場所に腰を下ろす。
陸太朗がなかなか口を開かないので、しばらく川の流れる音だけが響いた。
おそらく、とても言いづらいことなのだろう。あまり他のクラスに興味がないあたしは、陸太朗のこともほとんど知らない。
ずっと学年一位をキープしていて、イケメンで。それ以外のことは、料理部に入って初めて知った。
態度は横暴、お菓子作りは素人、そして、とんでもなく不器用。それでも、祖母の店を存続させたくて頑張っていること。
彼が隠している秘密は、きっとそれに関わることだ。だから、言いにくくても言おうとしている。
――だが、それは、あたしが知るべきことなのだろうか。
陸太朗の様子を見て、あたしの心に迷いが生じる。
あたしはただの部活仲間で、ただの味見役でしかない。陸太朗が家から持ってきたお菓子の材料で、陸太朗が和菓子を作り、片付けまで自分でやっている。こんな「お客さん」みたいな立場のあたしが、踏み込んでいい領域なのだろうか。
彼が隠していることを暴いたって、それを背負えるほどの仲でもないのに。
「――ごめん、陸太朗、やっぱいいや!」
「え……」
「あんたの話、あたしが知る必要ないかなーって思って!」
湿っぽくなった雰囲気を吹き飛ばしたくて、あたしはわざと大声を出した。いきなり180度変わったセリフに、陸太朗があっけに取られている。
「とにかくあんたは和菓子が作りたくて、味音痴だから味見役が必要だってことでしょ? それでいいよ、納得した。……ごめんね、言いたくないことまで言わせようとして」
「……いや……」
せっかく明るく振舞ったのに、重苦しい空気は好転しない。あたしは焦って、話の接ぎ穂を探した。
「あ、あー、そういえば、ずっと思ってたんだけどさあ、陸太朗って、すごいよね!」
「……」
「だってさ、毎日必死になってお菓子作ってるじゃん! すっごい不器用なのにさあ。何にもやりたいことがないあたしからすると、あんなに一生懸命になれる何かがあるのって、うらやましいなって思ってた」
「…………」
「あたし、特に興味あることもないし、みんなと話しててもノリきれないときがたまにあってさ。時々、思うんだよね。あたし、どっか変なのかなあって……。……それで、えーっと……」
「…………」
(――む、無反応が、つらい……!)
いたたまれなさに、全身がカーッと熱くなる。
焦って話を探したら、最近考えていた悩みがぽろっとこぼれ出てしまった。誰にも話すつもりなんてなかったのに。
しかも、陸太朗が相槌も何も返してくれないせいで、完全に空回りしているではないか。なんか返答してくれ。このままでは、空回りし続けてドツボにはまってしまう。
しかし、しばらく待ってみても陸太朗のフォローはない。
「……えっと、……ごめん。いきなり意味わかんないこと言っちゃって。ちょっとあれかな、秋だからセンチメンタルな気分になっちゃったのかな、なんて。あはは、気にしないで!」
期待したあたしがばかだった。陸太朗にフォローなんて高度なことができるわけがなかったのだ。
無理やり笑って無理やり事態を回収した。……回収できた、ということにしておく。
「帰ろっか」と言いかけたとき、陸太朗がぽつりと言った。
「――俺だって同じだがな」
「……え?」
「俺も、もともとやりたいことなんかなかった。転校ばっかりで、友人なんかいらないと思っていたし、することなんて勉強くらいしかなかった。もちろん、和菓子屋を継ごうだなんて思ってもいなかった。だが、なんというか……気が付いたら、そこにどーんとあったんだ」
自分のこと、話してくれるのか。そのこと自体に驚き、ついでに、陸太朗らしからぬ言い回しに目を丸くした。
「やりたいことが……、気がついたら、そこにあったの?」
「ああ」
「……どーん、って?」
「少なくとも、俺はそうだった」
陸太朗は何のてらいもなく頷いた。
「改めて思うと、やりたいことなのかどうかわからない。だが、知らないうちに必死になっていたんだ。自分でも驚いた。……まだ、迷っているのに」
「……迷ってる?」
「ああ。おまえも言っただろう、俺が不器用だって。たぶん、向いていないんだろう。それなのに……、それでも、才能がなくても、和菓子屋を継げるのか。そんな甘いものなのか。そこまでして継ぎたいと言えるほどの覚悟があるのか。……そうやって自問自答していると、違う声が聞こえてくるんだ。先生や親の言う通り、このまま大学へ進むべきじゃないのかって。店を継ぐ方法は、職人になることだけじゃない。大学で経営の勉強をして、経営者として関わる方法もあるだろう。……だが、忘れようとしても忘れられない。見えないふりをしても、無くならない。多少揺らぐかもしれないが、それだけだ。押しても引いてもどかないそれをうらやましいと言われても、俺にはよくわからない」
「……陸太朗……?」
伏し目がちの陸太朗の顔をそっと覗き込む。
あれだけまっすぐ突き進んでいるように見えた陸太朗も、迷っているというのか。
「……それでも、うらやましいと言ったら?」
「え?」
「それでも、やっぱりあたしはうらやましいと思う。だって、なんだかんだ言っても楽しそうじゃん、あんた」
「……俺が、楽しい?」
びっくりしたような顔をしている陸太朗に、あたしは笑いかけた。
「うん。気づいてなかった? 毎日、わき目も降らず、夢中って感じ。だから、うらやましくなっちゃったんだよ」
(……だから、思わず自分と比べちゃうんだよ)
あたしは、迷っていると言った陸太朗の目をじっと見つめた。確定した未来を見つめているかのような強い目に、そんな揺らぎなんて見つからないのに。
「…………」
陸太朗は居心地悪そうに目をそらすと、わざとらしく咳払いをした。
「……あー。それで、さっきの話だが……」
「うん? 何?」
さっきの話とはなんだったか。陸太朗は首をかしげるあたしに構わず、思い切ったように言った。
「うすうす気が付いてると思うが……、俺は今、味覚障害なんだ」
「――え?」
「何を食べても、何の味もしない。甘さも苦さもわからない。嗅覚も本調子じゃないんだ。……最初は、すぐ治ると思ったんだがな」
あたしは息をのんだ。
陸太朗が言っているのは、フルーツサンドに入っていたサツマイモとバナナを間違えた理由だ。
言いたくないなら、もう聞かないつもりだった。
(でも、味覚障害って……)
ただの味音痴ではないと予想していたが、まさか病気だとは思わなかった。
「毎週火曜日に病院へ通っているんだ。だから、部活は休みにしている」
「そ、そうなんだ……」
「気が付いたのは、祖母が倒れて少し経ってからだ。何を食べても同じに感じるし、変だとは思っていた。だが、うちはみんな健康体で、ほとんど体調を崩したことがなかったから、自分が病気だなんて考えたこともなかったんだ。……病院では、おそらくストレスが原因じゃないかと言われた。和菓子屋を閉めるかもしれない話が出たのと相まって、いっぺんに多大なストレスがかかったんだろう、そのせいで異常が出たんじゃないのかと」
「…………」
陸太朗は言いにくいことを吐きだしてすっきりしたのか、それからはするすると言葉を紡いでいった。それは、あたしの感情がついていけないくらいのスピードで。
「……ごめん、あたし、軽い気持ちで聞いちゃって……」
「いや。俺こそ悪かった。気を遣わせて。別に、言いたくなかったわけじゃない。ただ……、こういうのは慣れていなくて、言った方がいいのか、言わない方がいいのかわからなかったんだ。きっと、言われた方は気にするだろう?」
「そりゃ、まあ……」
「だったら、その必要はない。正直、自分でもそんなにショックを受けているという実感はないんだ。味覚も完全にないわけじゃなくて、ぼんやりとは感じるしな。まあ、さすがにこの状態じゃまともな商品が作れるとは思えないから、協力者を募ることにしたんだが」
だから、代わりに味見をしてくれる人が必要だったのか。女子受けするものを作りたいというのも理由の一つだろうが、一番の目的はそれだった。
小さな痛みを胸に感じ、膝頭を抱える手に力が入った。
「そういえば……陸太朗って、意外と気遣うよね。体重はまあ……おいといて、体調とか毎日聞いてくるし」
「気を遣って言っているんじゃない。ただ単に、俺がやりにくいんだ。和菓子作りにも邪魔だしな。下手な同情とか憐憫で、味の感想に手心を加えられたら困るんだ」
(……本当に、和菓子に真剣なんだ……)
味覚障害も、不器用なことも、ハンデでしかないのに、それでも陸太朗は止まらない。
だが、彼が本気であればあるほど、あたしは気が重くなっていった。
あたしはただお菓子が好きなだけで、それも、和菓子より洋菓子の方が好きで、器用でも料理好きでもない。これで本当に彼の役に立てるのか。
今までのことを顧みれば、むしろ、邪魔しかしていない。傲慢で偉そうなくせにお菓子作りのことを何もわかっていない彼を馬鹿にしていたし、ずっと、非協力的だった。
今日だってそうだ。
彼のことを何も知らないくせに、うらやましいだの楽しそうだの、のんきなことを口走っていた。その上、味を感じられない陸太朗に無理やりフルーツサンドを押し付けるなど、完全に余計なことをして足を引っ張っている。
穴があったら入りたいとは、こういう気持ちのことを言うのだろう。
「陸太朗、あのさ……。あたし、やっぱり味見係、荷が重いんだけど」
自己嫌悪に頭を抱えながらそう言うと、陸太朗が「え!?」と大声を上げて身を乗り出してきた。
「いや、待ってくれ、今やめられたら困るんだ! あ、別に味覚障害はうつらないぞ! おまえは知らないかもしれないが」
「……そのくらいわかるわ馬鹿太朗! あたしの反省を返せ!」
食べかけのフルーツサンドを怒りのまま陸太朗の口に押し付ける。それをせき込みながら飲み込んだ彼は、クリームが付いた口元を自分のハンカチで拭った。
あたしは彼が落ち着くのを待ってから、コホンとわざとらしく咳払いをした。
「……あー、それでさっきのはさ、あたしより、他の人探した方がいいんじゃないかってこと。あたしは、ほら、和菓子のことなんて何にも知らないじゃん? たぶん、陸太朗みたいに、真剣に和菓子が好きな人探した方がいいよ」
彼は不思議そうにあたしを見つめた後、眉間にしわを寄せた。
「……俺が求めているのはそういうことじゃない」
「でもさ」
「櫻庭」
強い口調で言葉を遮られ、あたしはうつむき加減だった顔を上げた。射貫くようなまっすぐな瞳に、何を言おうとしていたか忘れてしまう。
「初対面の時、退部したい理由をはっきり口にしたのはおまえくらいだった。その時思ったんだ。おまえなら、味見した感想も歯に衣着せず言ってくれるんじゃないかって。……まあ、同情引いたらやすやすと引っかかってくれたから、都合がよかったというのもあるが」
「――オイ」
あたしの突っ込みを無視し、陸太朗は続ける。
「実際、その通りだったし、ここ数日一緒にいて、やっぱり櫻庭が適任だと思った。……今まで周りとの付き合いを避けていたから、俺は、言ってもらわなければわからないことが多いんだ。だから、嫌なこととか気に入らないこととか、ちゃんと教えてくれてすごく助かっている。一度、きちんと謝らなければならないと思っていた。いろいろ、嫌な思いをさせたり、騙すみたいな入部のさせ方をして、悪かった」
「……陸太朗……」
「だが、今は、ちゃんと俺のことを知った上で、手伝ってもらいたいんだ。俺のこととは別に、おまえにも、和菓子の良さを知ってほしい。そして、和菓子を好きになってもらいたい。少しの間でいい、今度は櫻庭の意志で、協力してほしいんだ。……それでも、ダメか?」
「――……」
川の上を強い風が走り、岸に群生する秋桜がざわめく。おしゃべりをするように、何かを促すように、さわさわと葉ずれの音がする。
料理部をやめるか。それともこのまま、続けるか。
そんなことを聞かれたら、あたしは即答できると思っていた。
無理やり入れられた料理部で、強制的においしくないお菓子を食べさせられて、陸太朗には散々振り回されたのだ。
彼は、あたしの意思を尊重すると言っている。絶好の機会だ。さっきと同じように、あたしには無理だ、他の人を探してと、そう言えばいい。
――そう言えばいいのに。
「……そんな風に頼まれたら、嫌とは言えないじゃん」
口をついて出たのは、そんな言葉だった。
「え?」
川の音で聞こえなかったのか、陸太朗が聞き返してくる。
「仕方ないなあ、そこまで言うなら手伝ってあげるって言ったの!」
あたしは立ち上がって陸太朗の方へ向き直り、びしっと指を突き付けた。
「その代わり、あとでやっぱり他の人がいいとか返品するとかなしだからね!」
「そ、そんなこと言うわけないだろう!」
焦って立ち上がった彼に、あたしは笑いかけた。
「じゃあ、あたしもできるだけ頑張るよ。今度こそ、あたしにもおいしい和菓子、食べさせてくれるでしょ?」
「……当たり前だ」
つられたように、陸太朗もぎこちなく口の端を上げる。
こんな中途半端なあたしでも、必要だと言ってくれるなら。
(できることは全部、やってみよう……!)
心の中で、そう、決意した。