二人が過去の清算を自分たちなりに行うために旧知のマザー・カタリーナらを頼ってやって来た次の日は、晩秋の街は季節を早めたように寒さが厳しく、街を行き交う人もコートの前をしっかりと合わせて足早に目的地へと向かっていた。
そんな中、街を覆う空気よりも重く暗いそれを背負ったヴィルヘルムとハイデマリーが俯き加減に、その横にマザー・カタリーナも沈痛な面持ちで石畳の上を歩いていた。
三人が向かっているのは、余程の用事が無い限りは出向きたくない警察署だった。
そろそろ見えてきた警察署の入口の前で、刑事にしては穏やかな風貌の男が人待ち顔で立っていて、彼に気付いたマザー・カタリーナが手を上げて名を呼ぶと、その声に幾人かいた通行人が振り返るが己が呼ばれているのでは無いと気付いて無関心に立ち去っていく。
「おはようございます、コニー、忙しいところをありがとうございます」
「おはようございます、マザー。今日は急に冷え込みましたね」
11月に入ると太陽が顔を出す時間も当然遅くなり、辺りはまだ夜明け前の暗さだったが、俺たちが良く知る太陽もまだ顔を出しませんねとマザー・カタリーナに手を差し出しながらコニーが伏し目がちに呟くと、彼女も何を言わんとするのかを察しながら両手でコニーの手を握りしめる。
「そうですね。ですが太陽は必ず顔を出します」
真冬の太陽のように寒さに身体が慣れないために中々顔を出さないだけですよと太陽と称した息子の生活ぶりを思い出してくすりと笑った彼女は、二人の会話をただ聞いているだけのヴィルヘルムとハイデマリーをコニーに紹介する様に身体をずらす。
「お久しぶりです、ヘル・カークランド」
「ヘル・クルーガー、フラウ・クルーガーも元気そうで良かった。傷はもう大丈夫ですか?」
「はい、ありがとうございます」
半年前の事件の際、夫婦共々世話になったと改めて頭を下げた二人にコニーも元気そうで良かったと笑顔で頷き、軽く驚くマザー・カタリーナに手短に事情を説明する。
「昨日神父様がリオンとの絆はまだ切れていないと言っていたのはそういうことだったのですね」
「この街で起きた事件なので誰かしらが担当するのでしょうが……」
それでも仲間が間接的に関係する事件を自分たちの手で解決できたことは嬉しい事ですし、まだあいつとの絆は切れていないと思えますと穏やかな表情で頷くコニーに二人が無言で再度頭を下げる。
「警部も話を聞きたいとのことですから、中にどうぞ」
警察署なんて中々入りたい場所ではないでしょうがと断りつつ三人を署内に案内したコニーは、シスターとどこかで見たことのある男女に集中する署内の視線に気付きつつも階段を上り、ヒンケルの執務室のドアをノックする。
「警部、マザーがいらっしゃいました」
「おう、ありがとう。久しぶりですな、マザー」
「はい。警部もお元気そうで」
久しぶりに顔を見るヒンケルに挨拶をし、後ろの二人が部屋に入るとコニーがドアを閉めて話が出来る環境を整える。
「おはようございます、クルーガー夫妻。今日は何かお話があると伺いましたが?」
コニーが丸椅子を二つ壁際から運んできてそこに二人を座らせ、それに比べれば少しだけ座り心地の良い椅子をマザー・カタリーナに勧めると、自身はヒンケルのデスクの端に尻を乗せてどんな言葉が流れ出すのかを待ち構える。
丸椅子に座るヴィルヘルムを見たヒンケルは数年前ならば当たり前の光景だった、そこで同じようにその椅子に腰を下ろしてくるくると回転するヴィルヘルムに似た顔を思い出し、懐かしさに目を細めてしまう。
「警部?」
「あ、ああ、いや、失礼。その椅子に座って回りながら文句ばかり言っていた男がいましてね」
ついそいつを思い出してしまったんですよとコニーやマザー・カタリーナからすれば誰の事なのか考えるまでも無く想像出来る顔を脳裏に浮かべ、いつも文句ばかり言ってましたねとコニーも同意するように苦笑してしまう。
「……一体何処をほっつき歩いているんだか」
ヒンケルのその呟きから彼が誰のことを言っているのかに気付いた二人は顔を見合わせ、ここで刑事として働いていたのですかと小さく問いかけるとコニーが無言で頷き、ヒンケルが自慢の部下でしたと感慨深げに呟く。
「そうでしたか……」
「で、お話というのは?」
そろそろ本題を話せと微苦笑しつつヒンケルが手を組みそこに顎を乗せて夫妻を真正面から見つめると、ヴィルヘルムが腿の上で拳を作り、重い口を開く。
「今から四十年以上前になりますが、僕は人を殺してしまいました」
そのことで相談というか自首をしたいのですとヴィルヘルムの言葉にハイデマリーも俯きながらぎゅっと手を握りしめ、あらかじめ事情を知っていたマザー・カタリーナ以外の二人が顔を見合わせ、伝えられた言葉の重大さにただただ驚きに目を見張ってしまうのだった。
二人手を繋ぎ同行したマザー・カタリーナと共に教会に戻っていく後ろ姿を刑事部屋から見下ろしていたヒンケルは、コニーがドアをノックして入って来たことに気付き、振り返りながら溜息を零す。
「……難しい話ですね」
「そうだな……色々、難しいな」
何しろ相談された内容が四十年近く前の遺体も証拠も何もない殺人事件の告白だからなぁと頭に手を当ててデスクに座り、いつもの癖で引き出しを開けて薬箱と書かれた箱の蓋を開けようとするが、さっき知った事実がその手を押し留めてしまう。
「警部?」
「……あの二人が、まさかリオンの実の親だったとはな」
「そうですね……」
聞かされた時は確かに驚いたが、もう一人の家族であるノア・クルーガーの写真を見た結果、その四人が血の繋がりがある家族だと思い知ったのだ。
「前にガビーとカールと一緒に病院に聴取に行った時、リオンとドクとノアに会ったんです」
「そう言っていたな」
「Ja.で、その時、カールが二人は兄弟だろうって言ってたんですけど、半信半疑だったんですよね」
さすがはカール、二人が兄弟だと良く見抜いたと肩を竦めるコニーにヒンケルも苦笑するが、この件については部長や署長とも相談するが不起訴どころか事件として取り扱うことが難しいかもしれない、落とし所を見つけるまで面倒だが動いてやってくれと最も信頼している部下を見て肩を竦めると、了解しましたといつも通りの返事がありヒンケルも胸の内で安堵の溜息を零す。
「それにしても……あいつがずっと探していた家族がなぁ……」
こんな風にその家族と接することになるなど想像もできなかったと半年前の事件の際には単なる被害者とその夫としか見ていなかったクルーガー夫妻だったが、離れてしまっても仲間であり友人であるリオンを産みあの教会に捨てていった人たちだったとはと、二人に対しての見方が変わりそうな事に危機を感じて頭を左右に振る。
「コニー、教会に行って当時のことを知っているゲオルグという男から事情を聞いてきてくれ」
「Ja.……あいつ、本当にどこをほっつき歩いているんでしょうね」
「本当にな」
愛するウーヴェにもまともに連絡を取っていないようで、どこにいるんだかと苦々しく呟いた二人は、つい自然と部屋の隅に置いた丸椅子へと目を向け、数年前は毎日のようにあの椅子に腰を下ろしてはくるくると回っていたリオンの姿を思い出し、遣る瀬無い溜息を零すのだった。
三人が教会に戻った時、ちょうどノアが手土産を片手にホームに訪れていて、マザー・カタリーナの姿に笑顔で手を挙げたが、その後ろに両親がいることに気づき上げた手を降ろすことも笑顔をかき消すこともできずに呆然と二人を見つめてしまう。
「ノア……!」
元気そうで良かったと条件反射のように目を潤ませて顔を両手で覆う母と、そんな彼女の肩をしっかりと抱きながら何も言わずにただ無言で頷く父に息子はどんな言葉を掛ければいいかも分からず、救いを求めるようにマザー・カタリーナを見つめてしまう。
「ゆっくりお話をしましょう、ノア。二人もこちらへどうぞ」
三人の顔を見回したマザー・カタリーナがこちらへと案内したのは彼女が一番身を置く時間の長いキッチンではなく、昨日もクルーガー夫妻を案内して話をした自身の部屋だった。
昨日と同じように夫妻をベッドにノアには自身の椅子を勧めた彼女は予備の丸椅子に腰を下ろし、まずはと小さく咳払いをした後、ノアに向けて笑みを見せる。
「こんにちは、ノア。今日のお仕事は大丈夫なのですか?」
「あ、ああ、うん……今日は倉庫で作業をするから」
だからその前にお土産を子供達に持って来たと小さく笑うが、まさか両親がいるとは思わなかったと目を伏せる。
「ありがとうございます。皆喜びます。……警察に行って来たのですよ」
ここ最近あなたが音信不通にしている二人と一緒に警察に行って来た帰りだと伝えるとノアの目が疑問に細められるが、何かに気付いたように一度限界まで見開かれ拳が握りしめられる。
「……その事で、またお前に迷惑を掛けるだろう」
言葉を無くして拳を握る息子の横顔に痛ましげに目を細めた父は、暫くの間警察に顔を出さなければならないしマスコミがまた何かを聞きつけて押しかけてくるかもしれない、いつもお前には迷惑をかけているとも謝罪をすると母も涙をそっと拭いて頷くが、そんな二人を今まで見せたことがないような冷たい目で見つめたノアは、一番迷惑を掛けられたのは俺じゃない、リオンだと微かに震える声で言い放ち二人の目を見開かせる。
「……ああ、そうだね。……彼には本当に迷惑を掛けた」
そんな言葉では言い表せない苦労を押し付けてしまったのに謝罪をしたいと思っても今どこにいるのかも分からない為に出来ないと、今度は父が拳を握って腿に押し付けそんな夫の手に妻が手を重ねるが、それすらも息子の心を動かすことはないのか冷めた目の色は変わることはなかった。
「……ノア、警察に行ったのは、僕がヨハンという男を殺してしまったことについてだ」
お前が生まれる十年以上も前の殺人を警察が取り合ってくれるのかは分からないが、何某かの答えが出るのを待つことにしたと息子の視線に一度目を閉じた父だったが、それでも思いを伝えなければと口を開き、だから話を聞いてくれないかと軽く頭を下げる。
「……止めろよ、ウィル」
親に頭を下げさせた現実は予想以上にノアに衝撃を与えたようで、やめてくれと漸く伝えた彼は話を聞くから頭を上げろと伝え、黙ったままじっと見つめてくるハイデマリーにも素っ気なく頷く。
「……二人とも、元気にしてたのかよ」
ヴィルヘルムが頭を下げたことでノアの中の何かが溶解したのか、素っ気ない様を装いながらも本心から問いかければ父と母の顔に安堵の色が浮かぶ。
「ええ、私は元気だったわ。……ウィルは少しの間ベルリンにいたわね」
「ベルリンに行ったのか?」
家族の間でもベルリンという単語はある種のタブーのようなものだったが、その街に自ら出向いたのかとノアが目を丸くするとヴィルヘルムが伏し目がちに頷く。
「……やっと、逃げ出した街に行って来たよ」
「ウィル」
ヴィルヘルムの自嘲の言葉にハイデマリーがその手に手を重ねるが、ノアが逃げ出したと思ったのかと問いかけ、逃げ出したんだと揺らぎのない声で答えられてそれ以上何も言えなくなってしまう。
「僕はベルリンが嫌いだった。嫌で嫌でいつも逃げ出したかった。だから亡命した」
亡命なんて言えば聞こえは良いが実質的にはその当時一緒に暮らしていた家族、マリーの家族、半年前に彼女を撃った旧友たちも含めて総てから逃げ出したんだと初めて見る昏い顔でヴィルヘルムが自嘲し、そんな彼の手に手を重ねながらハイデマリーがそんなことは無いわと否定する。
「ありがとうマリー。でも逃げたんだ。そして……この街でヨハンを殺した罪から逃げ、少ししてから産まれた彼を生涯を掛けて守り育てる事から逃げ、この街からも逃げ出したんだ」
そんな自分の思い通りにならない事が起きる度に逃げ出し、その先で自分の夢を叶えるんだと胸を張って生きていたが、一枚皮を捲ってしまえばただの弱い男だったと気付き、そんな男に相応しくないと思って自宅に飾ってあったトロフィーや記念品を総て壊してベルリンに戻ったんだと昨日までの己の行動についてぽつりぽつりと語ると、ノアが両親の家に飾ってあった受賞の証を総て壊したのかと呆然と問いかけ、無言で頷かれて絶句する。
「逃げ出した先で叶えた夢、そんなものにどれ程の価値があるんだろうね」
ただ僕はそうだがマリーはそうじゃないと、何があろうともいつも前向きに笑顔を忘れずに生きてきた彼女はその夢を叶えその価値に相応しい仕事をしてきた、そんなマリーの受賞記念の品も壊してしまったのは申し訳ないと二人に向けて頭を下げたヴィルヘルムは、総ては僕の弱さが原因だと己を断罪する言葉を口にするが、二人で歩いてきた人生、責任は二人にあると妻がそんな夫の肩に腕を回して抱きしめる。
「……なあ、教えてくれ」
「何だい」
今なら何でも答えると硬い表情の息子を見つめた父は、ベルリンの話題を出したときいつも不機嫌になっていたのはその思いがどこかにあったのかと問われて目を見張り、きっとそうだろうと頷くと、ならばこの街で暮らしていた事をあまり話さなかったのはどうしてだと問うと、一瞬躊躇うような沈黙が流れるが、震える声が思い出したくなかったからと答えたため、リオンの事かと更に問うと良く似た髪色の頭が上下する。
「……マリーの出産直後の様子を、思い出したくなかった」
だから考えないようにしていたと続ける父の顔を睨むように見つめたノアだったが、それで思い出さないように忘れたのですねと、隣から穏やかながらも決して逆らえない静かな声が聞こえてきて顔をそちらに向けると、笑顔を浮かべて胸の前で手を組むマザー・カタリーナがいて、マザーと小さく呼びかける。
「ヨハンにされたことがショックで寝込んでしまったハイデマリーを一人で看病していた事には頭が下がります。たった一人で大変でしたね」
ですが彼女が一人きりでリオンを産んだ時にどうして声を掛けてくれなかったのかと、ヨハンの死体を何とかして欲しいとゲオルグに依頼できたのならば生まれた赤ちゃんを助けて欲しいと何故一言言ってくれなかったのかと、本来ならば当時言われたかも知れない言葉を今聞かされて口を閉ざしたヴィルヘルムは、産まれたばかりの彼を捨てればマリーが前のように戻ってくれると何故かそう思い込んでしまい、ここに捨てたとどんな類いの感情から震えているのか分からない声で答えられ、マザー・カタリーナが肺の中を空にするような溜息を吐く。
「……わたくしの娘があの子を見つけた時、本当に危険な状態でした」
麻袋の中から聞こえる泣き声は弱々しくなり、後少し遅ければ命は助からなかったと医者に言われ、その後、容態が安定するまで付きっきりでここにいるシスターらと面倒を見た事実を淡々と語られてヴィルヘルムとハイデマリーが手を握りしめ俯くが、己の両親が実の息子を捨てたときの様子を双方から聞かされて胸が詰まってしまったノアは酷すぎると呟く事しか出来なかった。
「小さな頃は本当に笑わない子どもでした」
同年代の他の子ども達と一緒にいてもわたくしと一緒にいても泣いたり怒ったりもあまりしない感情の薄い子どもでしたと、この中で唯一リオンの幼少期を知るマザー・カタリーナの言葉にノアがあのリオンが笑わなかったのかとぽつりと呟く。
ノアの中でのリオンは種類は違っていてもいつも笑みを浮かべていて、真剣なときでさえも茶化すような笑みを浮かべていたのだが、今聞かされた幼少期の様子がどうしても結びつかずどういうことだろうなとも呟くと、愛情不足かと当時は散々悩みましたとマザー・カタリーナが答え、その言葉にヴィルヘルムとハイデマリーの肩がぴくりと揺れる。
「あの頃ここにいた他の子どもは皆両親の記憶が曖昧ながらありました。リオンだけが……両親との記憶が無かったのです」
そのことで幼少期は散々いじめられ、基礎学校に入学したある日、突然笑顔を浮かべるようになったと遠い昔を懐かしむ目でノアを見た彼女は、その時にピアスも自ら開けたと眉尻を下げられて目を瞬かせる。
「基礎学校の時にピアスを開けたのか!?」
「はい。いつも一緒にいたゼップという友人に手伝って貰おうとしたようですが、結局自分で開けたようです」
あの時、リオンが両耳から血を流しながらゾフィーを探していたと教えられた時は本当に心臓が止まるかと思ったと苦笑され、それ以降、あの子にとって何か重大な問題が発生する度にピアスの穴が一つまた一つと増えていったと教えられて三人が顔を見合わせる。
「それであんなにピアス穴が……」
「ええ。……今はウーヴェに貰ったピアスを一つずつしているだけですが、ピアスを開ける痛みできっと何かを堪えていたんでしょうね」
重大な問題を乗り越えていくためにリオンにとって必要なものがピアスだったのかも知れないと頷くマザー・カタリーナの顔はここにいるハイデマリーよりも母の顔で、彼女が両手を握りしめて顔を覆うとヴィルヘルムもそんな彼女の肩を抱きしめて同じように顔を伏せる。
「あなた方にも辛い事情があった。ですが……今まで自分の親のことで随分と悩んで苦しみ、今も一人で苦しんでいるリオンに……わたくしの大切な息子に何の罪があったのでしょうか」
絶対の庇護を必要とするその時にその親から捨てられたリオンは何の罪を犯したのか、罪を犯したから罰として捨てられたのかと顔を伏せる二人に静かに問いかけたマザー・カタリーナの言葉に二人はただ黙って肩を震わせるだけだった。
「あなた方が辛い事から逃げたのだとしてもそれを責めたりはいたしません。逃げることも時には必要です」
ただわたくしが悲しいと思ったのは、逃げた後あなた方は嫌な出来事を忘れようと夢に向かっていたように思える事ですと続ける彼女に三人の視線が集中する。
「ベルリンが嫌で逃げ出した、この街で酷い事件に遭って罪から逃げた、そして産んだ子どもからも逃げただけではなくその存在すら忘れ去っていた、それが悲しいのです」
マザー・カタリーナの言葉にハイデマリーが低く嗚咽の声を上げヴィルヘルムもきつく唇を噛み締めるが、本当に泣きたいのはここにいるマザーであり今どこにいるのか分からないリオンだろうとノアが低く呟いてしまうが、そんなノアにマザー・カタリーナがゆっくりと首を左右に振って短く祈る。
「ノア、ご両親も辛いのですよ」
「でも……!」
マザーの話を聞いた今、二人の行動がどれ程稚拙で自分達のことしか考えていないものだったのかがよく分かると二人に指を突きつけると、マザー・カタリーナが椅子から立ち上がり小刻みに震えるノアの手を両手で握りしめて一つ頷く。
「皆辛いのです。誰かを責めてはいけません」
皆生きることに必死でその時その時をやり過ごすことしか出来なかったのだと、誰も悪くないと頷くマザー・カタリーナに同意できないと激しく頭を振ったノアは、あの時ウィルが逃げなければリオンは捨てられることも無く俺の兄として一緒に暮らしていたはずだと、両親の選択の結果、違う未来で一緒に生きていたかも知れないリオンを思うと両親をどうしても許せず、二人に向ける怒りを目の前で静かな顔で己の怒声を受け止めてくれる彼女にぶつけてしまう。
「そうですね。でもノア、今ここであなたのご両親を責めて恨んだとして……どうなりますか?」
「え……!?」
「人を憎み続けて生きていく、それはとても辛い事です」
人に憎しみや恨みを向け続ける、畢竟それは己の人生もその負の感情に囚われてしまう事ではないかと、ノアの今後を心配する顔で目を伏せるマザー・カタリーナの言葉にノアの目が見開かれる。
「神も許し合いなさいと仰有っています。それにこれはリオンが教えてくれた言葉です」
「リオンが?」
「はい。あの子はウーヴェと一緒にいくつもの試練を乗り越えてきました。その中で憎しみ続けることはそれに囚われて目の前を暗く閉ざすようなものだとウーヴェが教えてくれたといつか言っていました」
そんなあの子が学生時代ならばともかく、ウーヴェという最大の理解者を得た今、あなたのご両親を憎み続けているでしょうかと自問するように言葉にするが、暫く考えた後、そんなことは考えられませんと自答する。
「なら、今どうしてここにいないんだ?」
「憎んではいませんが、独りになりたかったのでしょうね」
自分のことを誰も知らない場所で独りになりたい、そう思ったのでしょうとリオンが独り家を出たときの気持ちを正確に見抜いた母の言葉にノアが自然と頷いてその言葉を受け入れる。
「あの時何があったかあなたももう知っている。……それでもやはり憎みますか? 許せないと詰りますか?」
あなたが今突きつけたこの指をこれから先も下ろすこと無くご両親を糾弾し続けるのですかと、威圧とは真逆の優しい声で問われて全身から力が抜けたノアは、母とはまた違うがどこかに通った温もりに包まれている手をそっと戻すと俯きながら椅子を軋ませる。
「……今は、まだ……許せるか分からない……」
「はい。今すぐなんて誰も言いません。それに神は時間という名医をこの世に送り出して下さいました」
どれ程難しい事でも時が経てばまた違った目で世界を見ることが出来るようになると己の経験も踏まえた上での笑顔で頷いたマザー・カタリーナは、嗚咽を零すハイデマリーとそんな彼女を支えているヴィルヘルムに向き直ると、あなた方も時間という名医の手に委ねてみればどうですかと提案する。
「あの子も今は混乱して自分の気持ちに気付けないでしょう」
だから今ここにいる人達に必要なのは時間という何にも代えがたいものだと頷き、苦しんでいる皆の為に祈った彼女は、三人の顔から暗い翳りが薄らいだことに胸を撫で下ろす。
「……さて、これからどうなさいますか?」
「どう、とは?」
「警察からの返事を待つ間この街にいますか? それともウィーンに戻りますか?」
ヒンケル警部のことだ、可能な限り早急に今朝の相談についての何らかの回答を出してくれるだろうが、その間どうすると問いかけた彼女は、あと少しでアドヴェントに入る、そうなると教会は何かと忙しくなるのでもしあなた達が良ければ手伝って下さいませんかと笑顔で問いかけ三人が驚きに目を見張る。
「それは……」
「無理にとは言いません。手伝いたいと思えば手伝ってください」
人手はいくらでも欲しいですからと笑うマザー・カタリーナにハイデマリーが顔を上げては伏せるを繰り返した後、何かを決心したように真っ直ぐに顔をあげ、そこまであなたに甘える事は出来ませんと小さな声ながらもしっかりと断言する。
「彼のこと……これからウィルと二人でしっかりと話し合いたいと思います」
今まで忘れていたこと、思い出してからも忘れたふりをしていたこと、もし彼が帰って来たとすればその時に自分たちに何が出来るのかを考えたいと告げ、ただと言葉を続けて俯いたままのノアに顔を向ける。
「可能なら……私の息子の……ノアの力になっていただけませんか?」
私達と一緒にいるよりもノアもここにいる方が良いようですしと隠し切れない寂寥感を滲ませながら笑みを浮かべるハイデマリーに頷いたマザー・カタリーナだったが、ノアならば心配はいりません、今はアーベルの紹介で借りた倉庫でフォトグラファーとしての仕事を始めていますと何の心配も無い顔で頷き、同じ母という立場でもある彼女の顔に安堵の色を浮かべさせる。
「……ありがとうございます……その……」
ハイデマリーが珍しく口籠もりそれにヴィルヘルムとノアが彼女の顔を見つめるが、色を無くした唇が震えながら開き数えるほどしか呼んだ事のない名を呼ぶ。
「その……リオンが戻ってくれば……」
「はい。わたくしの息子が帰ってくればすぐに連絡を入れます」
ですのであの子のことについてはわたくしに任せてくださいと穏やかさも静けさも変わらないが芯に通る何かが変化をしたような声でハイデマリーの言葉に頷いたマザー・カタリーナは、唇を噛み締めてよろしくお願いしますと頭を下げる彼女に短く祈ると、もし宿泊先が見つからなければ言ってください、アテがいくつかありますと告げ、さて、わたくしはバザーの準備がありますので失礼しますと呆然とするヴィルヘルムとノアに笑顔で頷き自室を出た後、後ろ手でドアを閉めて天井を見上げてなんとも言えない溜息を零す。
『珍しくムキになってたわね、マザー』
「……聞いていたのですか、ゾフィー」
お恥ずかしい所を見せたと少し頬を赤くしたマザー・カタリーナは少し先で腰に手を当てていつものように笑う娘の姿に微苦笑し、情けないですねと小さな笑みを浮かべると、覗き込むようにゾフィーの長い髪が肩から流れ落ちる。
『良いんじゃない? 私なら怒鳴ってるわ』
「ふふ。あなたはリオンのことになればいつも本気でしたからね」
『そうよ。あいつが気付いているとは思えないけど』
マザー・カタリーナがゆっくりと歩き出すとその横を同じ速さでゾフィーが歩き、今年はシュトレンを沢山焼かなければならない、食べて欲しい人が沢山いますからねと気分を切り替えるように笑う母に娘もそうねぇと懐かしそうな笑みを浮かべる。
『ねぇ、マザー、私のお墓にシュトレンを供えなくても良いわよ』
私に食べさせる分は今ここにいる子供たちに食べさせてあげてと笑う娘の顔を見つめた母は、あなたに真っ先に食べて貰わないと味が分からないでしょうとにこりと笑みを浮かべると一瞬ゾフィーがぽかんと口を開けるが、照れたように頬を赤くし、そういうことなら最初に食べてあげても良いわよと幼い頃からの癖の一つで嬉しい時に見せる上目遣いで見つめてくる。
「はい。ぜひ一番に食べてください」
『うん。ありがとう、母さん』
「……おいしく出来るように祈ってくださいね」
『うん』
嬉しそうに笑うゾフィーの頬に触れたかったがそれは二度と叶わぬ夢だと気付いているマザー・カタリーナはぐっと拳を握ってそれを堪えると、さあ、準備にかかりましょうと生きていればきっと同じ顔で頷いてくれる愛娘に笑いかけ、皆が集まっているキッチンのドアを開けるのだった。
その後、家族三人で少しの間話し合っていたヴィルヘルムとハイデマリーだったが、キッチンで忙しそうに働くマザー・カタリーナやブラザー・アーベルらに頭を下げた後、長期滞在できる部屋が見つかった事、そちらに二人で移るので何かあればどちらかに連絡をして欲しいと告げて連絡先のメモを渡すと、まだノアが部屋にいるのでよろしくお願いしますと息子のことを頼んでもう一度頭を下げ、借りることができた部屋に向かうためにホームを出て行くのだった。
その後ろ姿を廊下の窓から半年前は想像も出来ない家族の離別に目を軽く伏せたノアが見送っているのだった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!