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鍛錬場には夜灯がつき、淡い光に覆われている。
誰もいないその場所で、武器置き場から剣をとったルクレシアは素振りをしていた。
「なにが〝いい夢を〟よ。ヴァンに馴染みの娼婦がいただなんて……突然そんな爆弾投げて勝手にいなくなって、ひとりですやすや眠れるわけないじゃない!」
ブン、ブンといくら剣を振っても、ルクレシアのイライラは止まることはなかった。
娼館に通って発散する男がいることは、知識として家庭教師から聞いたことがある。
それは一般的なことであっても、ヴァンは違うと思っていた。
主人として、ヴァンの意思と自由を認めてやらないといけないとは思うけれど、そんな不埒なことは絶対に認めたくない自分がいる。
ではどうすればいいかと自分に問うても、答えが見つからない。
(ヴァンが娼婦と……。腹立たしい幻が、こんなに剣を振っても消えない……)
小さく舌打ちしたルクレシアは、精神統一に効果がある剣舞に切り替えた。
火のように情熱的に、水のように流動的に、地のようにどっしりと、風のように軽やかに。そして光のように美しく。
不可視の精霊をその身に感じてともに在れ――父から習ったカスダール家伝来の剣舞は、五大精霊への賛美の顕現でもある。
(なにも考えるな。雑念を払って剣舞に集中して……)
「……すごい!」
突然背後から声がして、ルクレシアは慌てて振り返った。
立っていたのは、軍服姿の小柄な団員だった。
銅のような赤味ある金髪の巻き毛がもっさりと顔を覆っており、ルクレシアは面食らう。
(人間……よね。言葉も発していたし、見えて……いるようだし)
「すごく綺麗で勇ましい剣舞だね、ロー」
ぱちぱちと拍手が送られる。
(ローと愛称で呼ぶということは、ローと親しかったのかしら。それともそういうふりをしているだけとか。……わたしに気配を悟られずに背をとるなど、一体彼は何者?)
気配を意図的に消しているわけではなく、存在自体が空気に溶け込んでいる印象だ。
息をするぐらい自然に、気配だけを薄めることなど、簡単にできるはずがない。
年齢不詳。顔もわからない。謎の団員がゆっくりと近づいてくるため、ルクレシアは警戒に剣を握りしめる。
好意的ではないその様子に気づいたのだろう、彼は足を止めて悲しげな声を出した。
「……僕も覚えてないの、ローは」
(なに、この……捨てられた子犬みたいに哀切な声は)
きゅうんと胸が締めつけられて、悪いことをしたような罪悪感が強まる。
(いけない。これが手かもしれない。もっと毅然としないと!)
ルクレシアはきりっとして言った。
「すまない。騎士団でのことは記憶にないんだ。お前の名を聞いてもいいか」
「僕は……ムスカ。ムスカ・ハーヴェイ。きみと同い年で同期入団した友達で……僕はいつもきみに助けられてきた」
「助けられた?」
「うん。ジル団長は厳しいから、やりこめられた団員たちは裏で、一番弱い団員に八つ当たりして発散していた。僕に矛先がいかないよう、ローは僕より弱いふりをしてくれて」
震える声はゆっくりとたどたどしく、ルクレシアが知らなかった弟像を浮き彫りにさせる。
ムスカは友達が虐げられるのを見るのがつらくて、団長に相談しようとしたらしいが、それをローラントは止めたとか。
――騒ぎを起こして悪目立ちをしたくないんだ。いつか必ず騎士団を変えるから、今は黙って見ていてほしい。
「ローが休暇中に負傷したと聞いて心配していたんだ。団員たちが追いかけたんだろう? 最弱な見習い騎士のローが、入団半年でもう休暇をとることをよく思っていない奴らが多かったから」
(ローが告げ口をして、カスダール家が動くことを恐れたとか? でもあの太刀筋は、最初から致命傷を狙っていた。嫌がらせの域を超えている)
「ローが記憶障害になって僕を忘れたとしても、無事でよかった」
ずずっと鼻を啜る音が聞こえてくる。肩を震わせて泣いているようだ。
今ここにいるのはルクレシアで、ローは死んでしまっている。
ローの身を案じてくれる心優しい友達がいてよかったと思う反面、そんな友達を騙していることが心苦しくなる。……ムスカの言動が演技でないのなら。
「任務を終えて戻ってきて、きみの部屋に行ったら誰もいなくて。だったらいつものように、ここでこっそりと自主練をしていると思ったら当たり。ふふ、記憶をなくしても、やっぱりローはローだね」
(こっそりと自主練? 稽古嫌いのあのローが?)
ルクレシアが知らないローラントがまた増えた。
ヴァンのこと同様に、ローラントのこともわかっていなかったということだろうか。
哀愁に心揺れるルクレシアは、ふとムスカの胸元を見てすっと表情を消した。
「ムスカ。お前……記章はどうした?」
ないのだ。彼の記章が。
「え、あ……ちょっと見つからなくて。多分部屋の中にあると思うけど」
気配を悟られず、表情もわからないムスカ。
記章をつけていないのは偶然なのか、必然なのか――。
(本当に記章はあるのかしら。それともこのムスカがロー殺しの犯人? 手練れ特有の空気はないけど、気配を感じ取れないほどの凄腕だとすれば……)
「僕……思ったんだ。ローがまた襲われないために、僕が強くなろうと。きみの邪魔はしないから、僕もここで自主練させてもらうね」
決意を秘めてここに来たようで、彼は鍛錬用の剣を選んで戻ってくる。
剣の構え方や素振りを見ていれば、ムスカの実力は推し量れる。
彼の言動はすべて偽りで、『記憶を失ったローラント』を騙して油断させ、今度こそ完璧に仕留めようとしているのか。
ルクレシアは横目で、素振りを始めたムスカを見ると仰天する。
(これは……)
まるで生まれたての子犬が初めて立ち上がったかのような、震える足とへっぴり腰。
十回も素振りをしていないのに、もう握力が限界らしく剣を落とした。
それを拾って素振りを続けようとするが、足がもつれて転倒。
立ち上がろうとするも、体力が限界なのか肩で息をして、瀕死状態である。
(まさか……ありえないくらいのこのひ弱さが、演技ではなく本当なの!? 強いのは稽古を続けようという意思だけとは)
貴族の子息は各々の家で剣を学ぶのが普通だ。だからこそ貴族が集う白の騎士団では、適性試験は免除される。だがムスカに限っては、試験を受けた方がよかっただろう。
(体力も筋力も武術のセンスも、ここまで壊滅的にない人を初めて見た……)
確かにこれなら騎士団のお荷物として、他の団員から集中攻撃を受けるだろう。
ローラントは盾になったのだ。おそらく入団前までは剣を握ったこともない、あまりに貧弱な子犬の如きムスカを守るために。
(ロー、ムスカより弱いふりをするくらいなら、彼に基礎から教えてあげればよかったのに)
ルクレシアはため息をつくと、なおも立ち上がり剣を持とうとしているムスカに言った。
「ムスカ、わたしが剣の指導をしてやろう。無駄な動きが多すぎて、そちらで体力と筋力が奪われている。ただ闇雲に剣を振り回してもだめだ。握り方もおかしい」
剣の握り方くらいは騎士団で指導があってもいいとは思うが、剣を扱える貴族令息なら改めて説明しなくてもいい基礎中の基礎として、指導は省かれたのかもしれない。
「……お前、よく任務をこなしてこられたな。任務中に戦闘になったらどうするんだ」
「僕の唯一の取り柄は足が速いことで。今のところ、戦いになる前に切り抜けられているんだ。僕、血を見ることが苦手で……剣とか鋭利な刃物を持ったら、身体が拒絶反応を起こしてしまって……」
とことん、騎士には向いていない。それでも騎士団にいるのは、貴族の責務を果たすためだろう。
ルクレシアが嘆息をついた瞬間だった。複数の気配と悪意を感じたのは。
警戒に目を光らせてその方向を見ると、複数の団員が姿を現した。
ヴァンにこてんぱんにやられていた団員たち全員のほか、その時はいなかった……着崩した軍服姿の団員が四人いる。
先頭に立つ団員が、下品な笑いを浮かべて言った。
「ローラント。俺たちのいない間、色なし護衛がこいつらを傷つけたんだって? そのご大層な色なし護衛はどこにいるんだよ」
初めて見る軍服姿の団員のひとりが、下品な笑いを浮かべて言う。
(どうしてこの騎士団は、こうやって誰もが喧嘩腰でやってくるのやら)
「傷つけたもなにも……団長が審判をする正規の公開模擬戦で、ただの棒っきれを持ったわたしの護衛に、剣を持った彼らが敵わなかっただけだが?」
ルクレシアは、少し前までヴァンから逃げていた団員たちを眺めて皮肉った。
「ヴァンに負けたのが悔しくて、任務を終えて戻ってきた仲間を引き連れ、全員で主人であるわたしを闇討ちしに来たのか。わたしが相手なら勝てるからと?」
図星だったようだ。顔を引き攣らせた団員たちは、それぞれ目を泳がせた。
「ほう。光の精霊の加護を受け、偉大なるオリヴァー王に仕える白の騎士らしい、実に殊勝な行いだな」
ルクレシアは冷ややかに続けた。
「なるほど。お前たちはヴァンがわたしから離れ、わたしがひとりでいるのを見かけてここに来たわけか。そうか、わたし如きがヴァンを御することができないと、全員で笑いにきたわけか」
「……ロー?」
纏う空気の温度を下げていくルクレシアに、ムスカが不安そうな声を出した。
ルクレシアは微笑んで見せたが、その目はまったく笑っていない。冴え冴えとした冷気を放っているため、団員たちは身体を震わせて腕をさすっている。
「心配するな、ムスカ。ようやく薄れかけた現実を思い出させてくれたことに対し、きっちりと礼を言うだけだ」
「れ、礼?」
不穏なものを感じたらしい団員たちは、一番弱いはずの仲間に真っ青な顔を向けている。
「ああ。優しい仲間たちに心からの感謝を伝え、今まで以上の友情を温め合うのに剣など無粋だ。拳ひとつで十分」
ルクレシアは握った手に唇を落とすと、殺伐とした碧眼を団員たちに向けた。
「……さあ、諸君。夜通し拳で語り合おうか」
◇・◇・◇
夜更けを知らせる、王都の鐘の音が鳴り響いた。
「……そろそろ戻るか」
ヴァンは娼館がある王都の色街には行っていなかった。
団舎周辺の地理の把握も兼ね、外を散歩して頭と身体を冷やしていたのだ。
「どうせ俺に馴染みの女がいたって、あの脳筋令嬢は気にすることなく、今頃ぐっすりと夢の中だろうし」
行かないでと追いかけて来るような令嬢でもなければ、そんな仲でもない。
それをわかっているのはヴァン自身だというのに、思わずルクレシアに吐き捨てたセリフに自己嫌悪になる。
「馴染みの女がいるって……なんだよ、それ」
ヴァンは空に浮かぶ丸い月を見上げると、藍黒色の瞳を揺らして切なげに呟く。
「いれば苦労しねぇよ」
そこにはルクレシアに軽口を叩いていたような表情はない。
想い人に恋い焦がれる男の顔だった。
「ローの部屋でローの姿をした奴なのに、同じ部屋で寝るという事態になった途端、理性の危機を感じてひとり慌てるなんて……情けねぇよな」
冷たい夜風がヴァンの髪と耳飾りを揺らす。
ヴァンは胸に置いた手で服をぎゅっと掴むと、掠れた声を絞り出した。
「心を殺すことには……慣れたはずだったのに」
脳裏に巡る様々な想い出。
それに思いを馳せることなく、いつものように自嘲して心に蓋をする。
静かに深呼吸をして心を落ち着かせて、ヴァンは歩き始めた。
高い柵の向こう側にあるのは、鍛錬場だ。
特に注視することなく通り過ぎようとした時だった。聞き慣れた声がしたのは。
「拳の会話が疲れたなら、また皆で楽しく追いかけっこをしよう」
幻聴だろう。
この時間、お転婆令嬢は熟睡しているはずだ。
光の精霊の加護が強すぎて、昔から身体に負担がかかってしまうため、鍛錬も睡眠もしっかりとるのが、家長である辺境伯からの厳命なのだ。
そのせいか、月が煌々とした光を放つ頃になれば彼女の身体は自然と眠りに落ちる。
ヴァンが揺すってもつねっても目覚めないくらいに。
だが――。
「逃げ切れたらムスカみたいに宿舎に戻してやる。だがわたしが追いついたら、腕立て、拳立てを三百回ずつ。始め!」
問答無用の声が放たれると同時に、鍛錬場には慌てふためく団員たちが一目散に逃げる。
それを嬉々として追いかける者を目にしたヴァンは、軽やかに柵を乗り越えて走った。 そして――。
「こんな夜更けになにやってるんですか!」
見間違えるはずのない主人を掴まえると、逃げないように膝裏を掬って横抱きにする。
「ヴァン!?」
驚きと歓喜の情がない交ぜになって紡がれたその名に、多くの団員たちは反射的に震え上がってふたりを眺めた。
「どうしてこんなこと……なにがあったんですか!? 大丈夫ですか!?」
心配するヴァンの言葉を聞き流し、ルクレシアは大きく目を見開いて呟いた。
「ヴァン……帰ってきたの?」
吸い込まれそうな青い瞳。
ヴァンは思わず目をそらして、ぶっきらぼうに答える。
「そりゃあ護衛ですから。無茶ばかりする主人を長く放置するわけにはいきませんし!」
ルクレシアはヴァンの彼の襟元を引っ張ってヴァンの視線を彼女に向けさせると、おずおずとヴァンを見遣り、はにかんだように微笑んだ。
「嬉しい」
わざとなのだろうか、これは。
不埒なことをしないようにとせっかく鎮めてきたのに、煽ってくるなど。
一番の問題は、彼女の言葉には深い意味がないということより、無防備なこの愛らしい笑みに彼の心が射抜かれてしまったことだ。
すとんと。またしても。
心と鼓動を落ち着かせようと眉間に皺を寄せて邪念を払っているのに、ルクレシアは服越しだがヴァンの胸板に頬を擦り寄せてきた。
「こうやって触れたかった。焦がれていた。我が愛しの……」
ルクレシアは陶酔しきった表情で、静かに目を閉じる。
「筋肉」
すやあと寝息が聞こえた。
「……はぁ」
ヴァンは項垂れて、大きなため息をついた。
きっと眠かったのだろう。だから緩みきった顔を向けて甘えてきたのだ。
よく考えればわかったことを、一瞬期待してしまった自分を殴りたい思いに駆られる。
そんな彼女に魅入られたのはヴァンだけではなかった。
周囲がざわついたことを察したヴァンは、不愉快そうに舌打ちすると、あたりを見回した。
ルクレシアを除いた団員は、十八人。
ヴァンは新しい顔ぶれの男たちにも記章がついていることを、目敏く確認して笑う。
「病み上がりの主人が世話になったようで」
その視線と声色は殺伐としており、ルクレシアに向かった熱気を一気に凍らせた。
「今、主人を部屋に戻してきます。その後、ゆっくりと……俺の主人をこの時間まで働かせていた責任をとってもらいますよ?」
ルクレシアなみに理不尽なことを言い出したヴァンは、冷え切った目で笑う。
「十八人。きっちりと顔を覚えさせてもらいました。俺が戻るまでにひとりでもいなくなっていた場合、連帯責任を負ってもらいます」
誰もが抗いがたい威圧感をみなぎらせ、ヴァンは殺気をちらつかせて威嚇する。
「……意味はわかるな?」
そして――射竦められた団員たちは逃げることもできず、直立不動のままでヴァンを待つことになったのだった。