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煌が背を向けた次の瞬間。燕花の姿は衣服の擦れる音さえ残さず、文字通り音もなく消えていた。
さすがは百年以上を生きる朱雀の眷属だ。気配ごと掻き消えたようなその鮮やかな退室に、煌は小さく息を漏らす。
張り詰めていた空気が抜け、一人残された部屋で、煌は深い溜息を吐きながら窓辺へと歩み寄った。
眩しい朝日が差し込んでくる。普段なら一日の始まりに希望を覚える頃合いだというのに、今の煌の心は鉛のように重い。
(北峡幽谷、氷嵐……に、仙煙草。そこに静遠の影がちらつく……。クソ、ややこしいな。頭がこんがらがってきた)
情報を整理しようと、煌は窓辺から離れて机の上の巻物を睨みつけ、どさりと椅子に体を預けた。
静遠への疑惑、仙煙草の流通、東北の組織の影。早く何とかしなきゃいけないのに、焦れば焦るほど思考が空回りする。
何から手を付けていいのかわからないのが、とにかくもどかしかった。
静遠は煌が鳳来堂へ行くのを極端に警戒しているだろうし、もしあいつらがグルだった場合、こちらの動きは逐一鳳来堂に筒抜けになっているはずだ。そうなれば、素知らぬ顔で店に潜り込んだとしても、大切な証拠はすべて隠されてしまっている可能性だってある。
だけど、燕花の調査結果が出るまでじっと待っているなんてのは、妙に落ち着かないし、ハナから性に合わないのだ。
『結果が出るまで、どうか朱雀様の側にいて下さいね。あの御方を救えるのは、朱雀の巫女である貴方様だけです』
去り際に、燕花から真剣な眼差しで告げられた言葉が耳の奥で蘇る。
――宮殿の内部で怪しげな陰謀が蠢いている今、朱雀を救えるのは自分しかいない。不本意すぎるが、その事実だけは嫌というほど理解しているつもりだった。
だからと言って、押し付けられた自分の役割に納得しているかと言えば、話は別だ。
「……別に、あいつのために動くわけじゃねぇし」
煌は、胸の奥で燻る言い訳を吐き出すように、ぎゅっと拳を握りしめた。
あいつに万が一のことがあったり、宮殿の陰謀とやらに巻き込まれて突発的に死なれでもしたら、自分が元の世界へ帰る道が永遠に閉ざされてしまう。それに、人を裏側から陥れようとする小汚い輩が、ただ単に気に食わない。――ただ、それだけだ。
誰かのために動くのではない。すべては自分のため。
そう、頑なに思い込もうとしているのに。
『だからこそ、わしはお主のことを好いておるのだがな』
耳元を直接くすぐるように蘇ったのは、昨夜、至近距離で囁かれた朱雀のあの低く掠れた声だった。
「……っあぁーー! クソ、今思い出すんじゃねぇよ!」
煌は両手でガシガシと頭を掻きむしり、机に突っ伏して声を殺して悶絶した。
ただのからかいだ。いつもの底意地の悪い嫌がらせ。そうやって頭の中でいくら切り捨てようとしても、至近距離で自分を射抜いていた、あの黄金の瞳の熱を思い出すだけで、自分の心臓がうるさいほど跳ね上がってしまう。
動揺を力づくで抑え込むように、煌は無意識に自分の首筋へ手を伸ばした。
衣の襟ぐりを少し引き下げた、その指先が止まる。昨夜朱雀にさんざんオモチャにされ、吸い付かれた、あの生々しい痕。
「……っっつーか、まだあいつの匂いが残ってんじゃねぇかよ、クソが!」
鎖骨のあたりから、あの甘苦しい、ひどく独占欲を煽るような香りがふわっと鼻腔をくすぐった気がした。煌は顔を真っ赤にしたまま、自分の服の襟ぐりを掴んでガシガシと引っ張り、無理やり匂いを振り払おうとする。
だが、どれだけ服をはたいたところで、皮膚の奥に焼き付けられたような神の熱は、そう簡単には消えてくれそうになかった。
コメント
1件
うわあ、煌の動揺がすごく伝わってきました…。「自分のため」って言い聞かせてるのに、朱雀の声や匂いを思い出して悶絶するところ、心情の描き方が絶妙ですね。痕がまだ消えてなくて、服をガシガシ引っ張る仕草も、もう完全に朱雀の熱が身体に染みついちゃってる感じがして…。諦めきれない自分の心と向き合う煌の姿、続きがすごく気になります!