テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
──放課後。
帰り支度も終わった頃、教室の隅に残ったのは三人だった。
窓際の席で黙ったまま鞄を抱える遥。無言。足元に投げ出されたプリントが一枚、誰にも拾われずにめくれている。
「なあ、日下部」
不意に蓮司が声をかけた。教室の真ん中、教師の机に背を預け、足を組んだ姿。笑っていた。冗談めかして、だが吐き捨てるように。
「お前、さっきあいつの名前、呼んだよな」
日下部は、応じなかった。が、蓮司の言葉には引き寄せられるように、遥がほんの少しだけ顔を上げる。
「あいつ、嬉しそうだったぜ。な? かわいかったな」
蓮司は、視線で遥を嘲る。遥は瞬きを一つしたあと、何も言わずまた目を伏せた。
日下部の顔は動かない。けれど喉がわずかに上下して、口元だけが固く閉じた。
「で、どうすんの? お前がそういう顔するからさ、俺まで楽しくなっちまうんだよ」
蓮司は笑っている。その奥に、見透かしている余裕。
「“ねえ、はるか”とか、そういうの、もう一回言ってやれよ。聞いてるだけで、ほら……気持ちわりぃのに、癖になる」
言葉が落ちるたび、教室の空気は軋んでいく。
遥の肩が一度、小さく震えた。何かを堪えるように。
「やめろ」
それは、日下部の声だった。乾いた声。蓮司の目がわずかに細められる。
「やめる? なにを?」
「そうやって、お前が……お前が口にするな」
日下部の声は、静かだった。なのに、割れるような温度を孕んでいた。
蓮司は笑いながら肩をすくめた。
「へえ……だったら、代わりに“俺”が言おうか。──ねえ、は──」
その言葉は、日下部の拳で途切れた。
がつん、という音がして、蓮司の背がぐらついた。
殴られたというより、顔をはたかれたような、勢いだけの衝動だった。
「……言うな」
声が震えていた。
「お前が、あいつの名前を、言うな」
蓮司はしばらく呆気にとられていたが、やがて鼻先をぬぐいながら笑った。
「わかった。そういうことね。……お前、ほんと、ダメだな」
蓮司はそれ以上は何も言わなかった。軽く背を向けて、足音もなく教室を出ていく。
夕暮れの光が窓から差し込んでいた。
しばらくして。
静かになった教室に、紙の擦れる音がする。遥が足元のプリントを拾おうとしている。膝を折って、かがんで、何も言わず。
その手を、日下部が先に取っていた。
「──拾わなくていい」
「……でも、落ちてる」
遥の声は、ただそれだけだった。痛くもなければ、強くもない。
「お前は拾わなくていい」
その言葉に、遥は少しだけ間を置いた。何かを読み取るように、しかし視線は日下部には向けないまま。
「──わかった」
その一言を最後に、二人はもう言葉を交わさなかった。
けれど、教室の中に残された温度は、簡単には冷めなかった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!