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元々の基準はよく分からないが、吸引力一.五倍だと職人が自信を持って提供してくれた封じの壺は、美琴が術を行使したと同時に小刻みに震え始めた。その振動で落として割らないようにギュッと抱え直して、美琴は壺の口を猿神のいる方へと向ける。
「ギャーッ」
まず最初に、鬼姫に向かって飛び掛かる寸前の妖猿の一体が、小さい鳴き叫び声と共に壺の中へと吸い込まれていった。それを皮切りにして、駐車場内にいた小猿達が次々に美琴の方へ飛んでくる。シュポッ、シュポッと一体入るごとに小気味よい音が聞こえ、この場から猿のあやかしの姿が消えていくのは、本当に掃除機で部屋の隅っこの綿埃を吸い込んでいるかのような不思議な感覚だった。
ボス猿の周りを固めていた手下が次々に封じられていくと、近寄るのは危険と察知した猿神が、歩みを止めて唸り声を上げた。さっき北斗へ囁いていた穏やかな声とは似ても似つかない敵意に満ちた叫び。
「おのれ、ヒトの子……!」
キッと美琴のことを睨みつけ、両手を大きく広げて猿神が向かってくる。庇うようにゴンタとアヤメが前に立ち塞がろうと駆け寄ってくるが、なりふり構わなくなった大猿の方が一歩早い。目の前、ほんの一メートルほどの距離まで来た時、美琴はもう一度術を唱え直した。
「――我に逆らう悪しきものをここへ封じる。『封印』――」
猿神の吐く血生臭い息。すぐ近くで鼻に届いた気がするが、次の瞬間にはそれは壺の中へとすっぽり吸い込まれていた。大猿の巨体でさえも一瞬で。さすがは職人自慢の吸引力。
しばらく呆然としてしまった美琴だったが、慌てて手に持っていた蓋を壺へと乗せ、ポケットに入れていた封印の護符で貼り付けて口を塞いだ。
周囲にはまだ小猿が何頭かうろついていたが、ボスの姿が消えたことで目に見えて動きが鈍くなっていた。それを順にゴンタが踏み倒して回っているのを半ば放心状態で眺める。そして、強張っていた肩からようやく力を抜いて、アヤメへと確認する。
「……終わった、かな?」
「ああ、残りは子ぎつねに任せて帰ろうか」
まだ残っていた小猿を踏みつけて「ちぇっ、尻尾は増えなかったじゃないか……」と愚痴るゴンタを横目に、アヤメが両腕を空へと伸ばしてヤレヤレといった顔をしている。美琴は木箱に壺をしまい直した後、まだ放心状態なままの北斗へと声を掛けた。
「脇田君、帰ろっか」
「あ、ああ……うん、帰ろう」
恐る恐る陣から足を出した北斗は、しばらくキョロキョロと周囲を見回した後、ようやく安堵の溜め息を漏らしていた。二人で分担して和紙をくるくると丸め直し片付けていると、アヤメが「先に帰ってるわ」と告げてから霞と共に消えていく。
ゴンタが最後の仕上げを終えるのを見守った後、またあの急な坂道を下りかけようとした時、空からバサバサという大きな羽音が聞こえ、美琴のことを黒い影が覆ってきた。
「――!」
美琴が驚いて見上げたのと、子ぎつねがウンザリ顔を見せたのはほぼ同時。羽音と共に目の前に降り立ったのは、大天狗――山峰のお爺ちゃんだ。おそらく本来の姿だろう山伏風の着物に、天狗独特の長い鼻と黒色の大きな翼。普段とは随分かけ離れた見た目だったけれど、それでも美琴がすぐに気付くことができたのは、幼い頃から親しんでいたから当然のこと。
「やあ、さすがだねえ、美琴ちゃん。猿神を捕まえたんだってね。なかなか表に現れず、我々もずっと手を焼いていたんだよ」
「お爺ちゃん、どうしてここに?」
聞き返した美琴の頭を褒めるようにワシワシと撫でながら、山峰はアヤメが屋敷に戻る前に報告に来たと説明してくる。いつも思うが、鬼姫の移動速度はどうなっているんだろうか?
「いつまでも物騒な物を持たせるのは心配だから、さっさと引き取りに来てやれって言われてね。あの鬼も美琴ちゃんには甘いようだ」
「物騒な、って……?」
何のことだろうと首を傾げかけ、美琴はすぐにハッと気付く。手に持っている木箱の中には猿神を封印した壺が入っているのだ。一時的に封じられているだけで、猿神達は消えた訳じゃない。万が一、壺にヒビが入っただけでも、またあの猿軍団がこの世に出て来る恐れがある。正直、封印しただけで安心してしまっていた。
――そっか、大天狗は『かくりよの門番』だって、ゴンタが言ってたよね。猿神達をかくりよへ追い返してくれるんだ。
「じゃあ、お願いします」
木箱に入ったまま、山峰へと猿神達を封じている壺を手渡す。それを大天狗は袖のたもとへ入れると、もう一度美琴の頭をワシワシと撫でてから満足気に言った。
「祓い屋の八神が安泰で何よりだ」
その言葉に、美琴はにこりと笑顔を浮かべて答える。山峰にはどうしても伝えたいことがあった。
「そうだよ。だから、お婆ちゃんをいつ連れてっても構わないからね」
「……え?」
驚き顔に変わった山峰へは大きく手を振ってから、美琴は駐車場の入口で不思議そうに振り返って待っている北斗のところへ駆け寄る。彼には天狗の姿の山峰は視えていない。
二人が並んで坂を降りてくるのを、坂下に停めた車の横に立ち、首を伸ばしている孝也の姿が上からも見えた。ゴンタはとっくに車の後部座席に乗り込んで、尻尾を丸めて休んでいるみたいだ。
真知子と山峰が互いに好意を抱いているのは孫の目からも明らかだった。それはいつの日からかは分からないけれど、きっと真知子にとって祓い屋本家の当主という立場は、自由に生きられない理由だったはずだ。そこまで長くない余生はせめて好きなように生きて欲しい。それが幼い頃に引き取って育てて貰った美琴からの恩返し。
屋敷へ戻ってくると、門前には割烹着姿の真知子が待っていた。心配で落ち着かないからと、朝からずっと離れの厨房でオニギリの具材を仕込み続けていたことを、後になってツバキから聞かされた。
いつもと変わらないはずなのに、今日は祖母と顔を合わせるのが妙に照れくさい。互いにはにかみ笑いを浮かべながら声を掛け合う。
「おかえり、美琴」
「ただいま、お婆ちゃん」
玄関扉を開けると、先に戻っていたアヤメが足をバタつかせながら上がり框に座っていた。美琴の顔を見ると、にっと悪戯っぽく笑ってみせてくる。
「おかえりー」
「ただいま。アヤメも、おかえりなさい」
美琴達のやり取りを聞いて、ゴンタの足を雑巾で拭きに出てきたツバキが、ふふっと小さく笑みを漏らしていた。
「帰ってきたらすぐ食べられるようにって、先生がオニギリを用意されてましたよ」
「具は何?」
「確か、エビマヨでした」
「やった! もう、お腹ペコペコだよ……」
「食べる前にちゃんと手を洗うんだよ!」という祖母の声に、美琴は「はーい」と元気よく返事した。
ー完ー