テラーノベル
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恋愛描写はほぼ皆無。異能力のない普通の男子高校生の話。
放課後の旧校舎は、死んだように静まり返っていた。西日が差し込む廊下は、朱色を通り越してどろりと濁った血の色をしている。 中原中也は、立て付けの悪い音楽室の扉を蹴るようにして開けた。 「おい、太宰。いつまでサボってやが――」 言葉が、喉の奥で凍りついた。
窓際、埃の舞う光の中で、太宰治が立っていた。足元には、クラスの取り巻きの一人だった男が、不自然な角度で転がっている。男の頭部からは、床のワックスに弾かれながら赤黒い液体が広がっていた。 太宰の手には、備え付けの重い胸像が握られている。その白い石膏の頬には、生々しい飛沫が点々と付着していた。
「……中也か」 太宰が振り向く。その瞳には、驚きも、恐怖も、後悔の色すらもなかった。ただ、深い淵のような虚無だけがそこにあった。 「困ったな。見られちゃったよ」
中也は足がすくむのを感じた。普通なら、ここで叫ぶか、逃げ出すか、警察を呼ぶべきだった。だが、中也の脳裏に浮かんだのは、目の前の男の死ではなく、返り血を浴びてなお、ひどく美しく、そして今にも消えてしまいそうな太宰の輪郭だった。
「……何してんだ、手前」 絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、落ち着いていた。 「彼がね、私の嫌いなことを言ったんだ。それだけだよ。計算違いだったのは、この胸像が思ったより脆くて、彼の頭が思ったより柔らかかったことかな」 太宰は、まるで小テストの点数が悪かったと報告するかのような口調で言った。
中也は一歩、踏み出した。血の海を避け、太宰の目の前に立つ。 太宰は、自分を拒絶する言葉を待っているようだった。軽蔑や、怒り。それらを受け取って、この世界との最後の糸を切ろうとしているような、危うい沈黙。
「どけ」 中也は太宰の肩を突き飛ばすようにして退かせた。 「……中也?」 「掃除するぞ。バカ面して突っ立ってんじゃねえ」
そこからの数時間は、記憶が曖昧だった。 中也は、備品庫からバケツと雑巾を引ったくってきた。太宰は最初、呆然としていたが、中也に「手を動かせ」と怒鳴られると、機械的な動きで手伝い始めた。 二人は一言も交わさなかった。ただ、床を這い、赤い染みを消していく。鉄の匂いが鼻を突き、胃の腑を掻き回す。中也は何度も吐き気を催したが、そのたびに隣で黙々と作業する太宰の、細い指先を見た。
死体は、床下の収納スペースに隠した。古い校舎の、誰も開けない場所だ。 太宰の制服についた血は、中也が部室から持ってきた予備のジャージに着替えさせることで隠した。汚れた制服は、焼却炉で灰にした。
すべてが終わったとき、夜の帳が完全に降りていた。 誰もいない教室で、二人は並んで座った。窓の外では、夜の虫がうるさく鳴いている。
「ねえ、中也」 太宰が、闇の中で口を開いた。 「どうして、助けたの。君なら、正義の味方ごっこだってできたはずなのに」
中也は窓枠に肘をつき、煙草の代わりに指先を噛んだ。 「……正義なんて、知るかよ」 本心だった。目の前の男が人殺しになろうと、化け物になろうと、中也にとっては「太宰がそこにいなくなること」の方が、この世界の崩壊よりも恐ろしかった。
「手前を一人で地獄に行かせるのが、癪だっただけだ」 「それは、心中のお誘いかな?」 「殺すぞ」
太宰はくすくすと笑った。その笑い声は、いつも通りの軽薄な響きだったが、その奥底には、決して剥がれない呪いのような執着が張り付いていた。 太宰にとっても同じだった。自分という空虚な存在を、暴力的なまでの肯定で繋ぎ止めてくれるのは、この小柄な、直情径行の少年だけだった。
「中也。君はもう、共犯者だ。一生、私を裏切れない」 「言われなくても分かってるよ、クソ太宰」
二人は、互いの体に触れることはなかった。抱き合うことも、手を握ることもない。ただ、互いの呼吸の音だけが、暗い教室に等間隔で刻まれていく。 それは友情と呼ぶにはあまりに暗く、恋愛と呼ぶにはあまりに救いがない。 ただ、この世界でたった二人、同じ「汚れ」を共有した者同士にしか許されない、窒息しそうなほどの密室。
太宰は、中也の横顔をじっと見つめていた。中也は、決して太宰と目を合わせようとはしなかったが、その視線から逃げることもしなかった。 二人の間にあるのは、透明な鎖だ。片方が動けば、もう片方の首が締まる。けれど、その痛みがなければ、自分が生きていることさえ実感できない。
「明日も、学校に来いよ」 中也が立ち上がり、カバンを肩にかけた。 「……ああ。そうだね。何事もなかったかのように、出席番号順に並ぼうか」
太宰も立ち上がる。 二人は、月明かりに照らされた廊下を歩き出した。一歩歩くたびに、床下の死体が冷たくなっていくのを感じる。だが、その冷たさが、二人の体温をより鮮明に浮き彫りにした。
校門を出る時、太宰がふと立ち止まった。 「中也」 「なんだよ」 「君が私を殺すときは、今日みたいな胸像じゃなくて、もっと綺麗なものにしておくれよ」
中也は足を止めず、背中越しに吐き捨てた。 「手前を殺すのは、俺の仕事じゃねえ。……勝手に死ぬな、それだけだ」
太宰はその背中を追って、闇の中へと足を進めた。 二人の影は、街灯の光の下で一つに重なり、また離れては、執拗に寄り添い続けていた。
昨夜の豪雨が嘘のように、空は抜けるような青だった。 校門をくぐる生徒たちの靴音は軽やかで、どこにでもある「日常」の音がキャンバスを塗りつぶしていく。その喧騒の渦中に、中原中也はいた。
いつも通り、第一ボタンを外した制服。いつも通り、少しだけ不機嫌そうな眉間の皺。 昇降口で靴を履き替えていると、背後に気配を感じた。振り返らなくてもわかる。消毒液と、どこか冷めた空気の混ざった独特の質感。
「おはよう、中也。今日は一段とチビに見えるね。空が広いせいかな」
ひどく聞き馴染んだ、軽薄な声。 中也はゆっくりと顔を上げた。そこには、昨夜、血まみれの胸像を握りしめていたはずの太宰治が立っていた。包帯の巻かれた首筋も、真っ白なシャツの襟元も、一点の汚れすら残っていない。
「……死ね。朝っぱらから鬱陶しいんだよ、手前は」
中也の声は、いつも通りの温度だった。 心臓の鼓動がわずかに速まるのを感じるが、それは恐怖ではない。自分たちだけが共有している「穴」の深さを再確認する、奇妙な高揚に近い。
「ひどいなぁ。せっかく爽やかな朝なのに。あ、そうだ。昨日の数学の宿題、写させてくれない? 私、ちょっと夜更かししちゃってね」 「知るか。自分でやれ」
二人は並んで階段を上がる。 すれ違う教師が「おはよう」と声をかける。太宰は人当たりの良い笑みを浮かべて会釈し、中也は短く「ちわっす」と応じる。 その光景のどこにも、床下に転がっている「肉塊」の気配はない。
教室に入ると、事件の火種はすでに燻っていた。 殺された男――白瀬の席が空いている。いつもなら取り巻きと騒いでいるはずの場所が、ぽっかりと空白になっているのだ。
「あれ、白瀬は? またサボりか?」 クラスメイトの誰かが暢気に言った。 「あいつ、昨日の放課後から連絡つかないんだよな」
中也は自分の席に座り、教科書を取り出した。指先が微かに震える。それを隠すように、強く机の端を握った。 隣の席の太宰は、頬杖をついて窓の外を眺めている。その横顔は、あまりにも静謐で、世界のすべてを赦しているようにも、すべてを拒絶しているようにも見えた。
一限目のチャイムが鳴る。 教師が教壇に立ち、出欠を取り始める。
「――白瀬、休みか? 連絡来てる奴はいるか?」
教室中が顔を見合わせる中、太宰がひょいと手を挙げた。
「先生。白瀬くん、昨日『しばらく遠くに行きたい』なんて冗談めかして言ってましたよ。案外、本当に家出でもしたんじゃないですか?」
太宰の声には、一片の嘘も混じっていないように聞こえた。むしろ、友人の身勝手な行動を少しだけ心配しつつ、面白がっている善良な少年のトーンだった。
中也は、教科書の角を指でなぞった。 太宰が嘘をつけばつくほど、二人の間の境界線が消えていく。 今、この教室で「本当の太宰」を知っているのは、中也だけだ。彼が人殺しであることも、その手が驚くほど冷たかったことも、すべて。
不意に、太宰が視線だけを中也に寄越した。 その瞳の奥で、小さな光が爆ぜたような気がした。 言葉には出さない。けれど、そこには明確なメッセージがあった。
(中也。君も、こっち側に来たんだね)
中也は、鼻で短く笑った。 友情でも、信頼でもない。 自分たちは今、一本の細い糸の上で、互いの重みを支え合いながら奈落の上を歩いている。
「……勝手なこと抜かしてんじゃねえよ、太宰」
小さく呟いた言葉は、隣の男にしか届かなかった。 太宰は満足げに目を細め、再び窓の外の青空を見上げた。 床下に眠る「死」の上に、二人の平穏な一日が積み重なっていく。 その残酷なまでの美しさに、中也はひどく喉が渇くのを感じていた。
三年後の春、旧校舎の解体が決まった。 校庭の隅で重機が唸り声を上げ、乾いた土埃が舞う。あの放課後から、季節は何度も巡り、世界は何事もなかったかのように上書きされ続けてきた。
白瀬の失踪は、結局「素行不良による家出」として処理された。初めこそ騒がれたが、一ヶ月もすれば人々の記憶から摩耗し、一年後には誰もその名を口にしなくなった。 地下に沈めた「真実」は、皮肉にも時間が経つほどに強固な沈黙へと変わっていった。
「……本当に、壊されるんだな」 フェンス越しに重機を眺めながら、中也が呟いた。 大学生になった彼は、黒い革ジャンに身を包み、以前よりも少しだけ大人びた顔つきをしていた。隣には、相変わらず掴みどころのない笑みを浮かべた太宰が立っている。
「形あるものはいつか壊れる。それがこの世界のルールだよ、中也」 太宰は、コートのポケットに両手を突っ込んだまま、解体される校舎を見上げていた。 「床下にあったものも、瓦礫と一緒に粉々になって、どこかの埋立地に運ばれる。これで完全に、私たちの『作品』は完成するわけだ」
中也は、太宰の言葉に反論しなかった。 あの日以来、二人の間には奇妙な「沈黙の掟」が出来上がっていた。 連絡を絶つわけでもなく、かといって馴れ合うわけでもない。ただ、月に数回、理由もなく顔を合わせ、他愛のない話をしては別れる。
周囲からは「腐れ縁」だと思われているだろう。だが、その本質はもっと冷徹で、もっと逃げ場のないものだ。 二人は、互いの存在を確認することでしか、自分が「まだ捕まっていない」という現実を繋ぎ止められなかった。あるいは、自分が「人間であること」を証明できなかった。
「なあ、太宰。手前、後悔したことはあんのか」 中也の問いに、太宰はふっと目を細めた。 「後悔? そんな高尚な感情、私には持ち合わせがないよ。ただ……」 太宰は一歩、中也の方へ寄った。触れることはない。けれど、二人の間の空気は、あの日の音楽室と同じ密度で凍りつく。 「あの日、君が私を見捨ててくれれば、私はもっと楽に終われたかもしれない。そう思うことはあるかな」
中也は鼻で笑った。 「残念だったな。俺は手前を楽にさせるつもりはねえよ。一生、この泥沼に付き合ってもらう」
それは、愛の告白よりも残酷な、呪いの言葉だった。 太宰は、初めて満足そうに、本当の意味で笑った。
「……そうだね。君が地獄の門番をしてくれるなら、私はまだ、この退屈な世界に留まっていられそうだ」
轟音と共に、旧校舎の一角が崩れ落ちた。 かつて二人が血を拭った床も、秘密を埋めた隙間も、すべてはただの瓦礫へと姿を変えていく。 物証はこの世から消え去り、事件は永遠に未解決のまま闇に葬られた。
けれど、二人の胸の奥にある「鉄の味」は消えない。 互いの眼差しの中に、自分自身の罪を見出し続ける日々は、死ぬまで終わらない。
中也は背を向け、歩き出した。 「行くぞ。飯でも食わせろ」 「おや、中也の奢りじゃないのかい?」 「殺すぞ」
夕闇が迫る街の中へ、二人の足音が重なって消えていく。 誰にも知られず、誰にも許されず。 二人はただ、同じ地獄を共有する唯一無二の「片割れ」として、明日へと続く境界線を越えていった。
・・・ちなみに殺された高校生の名前白瀬だけど、キャラヘイトはないので、!なんか思いついたのが白瀬だっただけなので、、、!
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