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名前が、広がる。
「悠翔くんって……あの、“天城”?」
ふいに聞こえた声に、身体が強張った。
図書館の閲覧席。前の席で、二人の学生が小声で話していた。
――名前を伏せてきたつもりだった。フルネームを問われれば答えるしかない場面もあったが、それでも日常に溶け込むよう努めてきた。
だが、昨日、陽翔が現れてから、何かが変わった。
少しずつ、しかし確実に、周囲がざわついている。
静かに、断片が漏れていく。
「同じ苗字なんだよ。顔、似てない?」 「高校違うけど……でも、名前聞いたことあるよ。いじめの動画、まだ残ってるって……」
「やばいよね、あれ。ていうか、“あの”弟?」
――声は届いてくるのに、誰一人として正面からは訊いてこない。
誰もが「見ないふり」をしているように振る舞いながら、しかし確かに、目に宿る色が変わっていた。
哀れみ、距離、興味本位、あるいは安堵。
“自分じゃなくてよかった”という、無自覚な優越感。
背後の席で誰かが話しているのが耳に入った。
「てかさ……あの人ってさ、なんか兄弟、有名だったって話……聞いたことない?」
――凍るような冷気が背骨を這い上がってくる。
振り向けない。けれど、耳は勝手に言葉を拾っていた。
「なんか、すごいやばかったらしいよ。いじめとか……暴力とか。なんか“奴隷”って呼ばれてたって……えぐくね?」
「え、マジ? それって本人?」
「名字、同じだったよ、たしか」
視界が、滲んだ。
悠翔は、表情を変えなかった。
目を伏せ、ページをめくり、声のすべてを通り過ぎる風のように受け流す。
だが、胸の奥では確かに――裂け目が広がっていた。
知られたくなかった。
ただの学生でいたかった。
過去の自分が、今の居場所を侵してくる感覚。
名前だけが独り歩きし、誰も「今の自分」を見ていない。
“あの兄たちの、弟”
それが、今、大学での「自分の名前」になろうとしていた。