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第十五章 整わない夜
点滴が終わったあと。
なんとなく足が向いて、
病院の地下まで降りてきていた。
医療従事者専用の施設。
白い壁。
ガラス張りの窓。
並んだランニングマシン。
夜の時間帯のせいか、人は少ない。
ランニングマシンの前に立つ。
……けど。
体が動かなかった。
翔太💙「はぁ……」
そのとき。
背後から声がした。
照💛「無理してる顔だな」
振り向く。
翔太💙「岩本先生」
トレーニングウェア姿。
腕を組んで立っている。
少しだけ恥ずかしくなった。
照はマシンの操作パネルを押し、電源を落とす。
照💛「今日はやめとけ」
照💛「倒れたらしいじゃないか」
照💛「無理は良くない」
フォームの話はしない。
それでも全部見抜かれている気がした。
翔太💙「でも、なんかむしゃくしゃして……」
照は軽く顎で下を指した。
地下。
サウナのある階。
照💛「整うぞ」
翔太は首をかしげた。
整う。
よく分からない言葉だった。
翔太💙「あのぅ……僕って、みんなと違いますかね?」
照は少しだけ目を細めた。
照💛「……悩み事か?」
ベンチに腰掛け、顎で隣を示す。
照は少しだけ翔太を見ると、ふっと息を抜いた。
照💛「なぁ」
照💛「岩本さんって呼び方、固いな」
翔太💙「え?」
照💛「照でいいよ」
翔太💙「……照、くん?」
照💛「うん、それでいい」
少しだけ笑う。
その距離の縮まり方が、妙に自然だった。
照は立ち上がり、軽く背中を叩く。
照💛「行くぞ」
照💛「整いに」
地下のサウナフロア。
ほんのり湿った空気。
静かな照明。
照💛「ここ、いいだろ」
照💛「ジムもサウナも揃ってるし」
少し間。
照💛「……まあ、ここだけの話」
照💛「うちの理事長、こういうの好きでさ」
翔太💙「え?」
照💛「金かけすぎて、一回ガチで経営やばくなったらしい」
翔太💙「えぇ……」
照💛「スタッフのため、とか言ってな」
照💛「止めるやついなかったんだろうな」
照💛「……まあ、悪い人じゃねえんだけどな」
翔太💙「はぁ……」
照💛「……今も、似たようなもんだけど」
それ以上は、何も言わなかった。
ベンチに座ると、
じんわりと熱が身体に染み込んでくる。
皮膚の奥まで、ゆっくりほどけていくみたいに。
呼吸が少し重くなる。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
隣に座る照は、何も言わない。
その沈黙が、妙に落ち着く。
言葉がないのに、
ちゃんと“ここにいていい”と思える距離。
しばらくして。
視線が、自然と引き寄せられる。
肩。
厚みのあるライン。
呼吸に合わせて、ゆっくり動く筋肉。
目が離せなかった。
相当鍛えているのだろう。
服を着ている時は気付かなかった。
翔太💙「すごいね……僧帽筋♡」
照💛「えっ……いやー分かっちゃう?」
照は目尻を下げて笑う。
その無邪気な顔に、少しだけ胸が跳ねた。
照💛「結構頑張ってるんだよね、オレ」
翔太💙「触ってみてもいい?」
照💛「いいぞ」
指先で触れる。
想像よりずっと硬い。
でも、ちゃんと温かい。
翔太💙「……すご」
指先に残る感触が、離れない。
思ったよりもずっと硬くて、
でも、ちゃんと体温があった。
そのまま、
ぺち。
ぺち、ぺち。
軽く叩く。
指先が触れるたびに、
わずかに弾かれる感触。
硬いのに、柔らかさもあって。
離す理由が見つからなかった。
翔太💙「……ほんとだ、硬い」
無邪気に続ける。
ぺち。
ぺち、ぺち。
距離が、近い。
気づけば、
肩に触れるくらいまで体が寄っていた。
照💛「ちょ、待て」
照💛「くすぐったいって」
少しだけ肩が揺れる。
でも、逃げない。
翔太💙「え、そうなの?」
ぺち、ぺち。
照💛「おい、やめろって」
照💛「くすぐったいってば」
翔太💙「ふふっ……照くん、可愛い」
そのとき。
手首を、軽く掴まれる。
ぴたり、と止まる。
触れられたところだけ、
やけに熱い。
距離が、一気に近くなる。
近すぎて、相手の呼吸が分かる気がした。
一瞬、何も考えられなくなる。
名前を呼びそうになって、でも、声にならなかった。
そのとき。
ドアが開く音。ぎい、とやけに大きく響いた。
康二🧡「……なにしてんの」
少し間のある声。
振り向く。
一気に、空気が現実に引き戻される。
はっとして、振り向く。
康二が立っていた。
翔太の手は、まだ照の肩に触れたまま。
一瞬の静止。
ほんの数秒。でもやけに長く感じた。
康二🧡「……なにしてんの?」
同じ言葉。
さっきより少しだけ、近い。
翔太💙「あ、いや……」
言葉がうまく出てこない。
視線が、揺れる。
自分の手。
照の肩。
その距離。
翔太💙「……僧帽筋が、すごくて」
やっと出た言葉が、それだった。
康二は一瞬だけ黙って、それから、ふっと笑った。
康二🧡「僧帽筋?」
康二🧡「ほんま翔太は変わってるな」
軽い声。
いつも通りのトーン。
なのに。
その言葉が、やけに深く落ちてくる。
〝変わってる〟
さっきまで、少しだけ楽だったはずなのに。
急に、現実に戻されたみたいだった。
胸の奥が、じわっと重くなる。
――また、同じこと言われた気がした。
翔太💙「……やっぱり、そうですよね」
うまく笑ったつもりだった。
でも、自分でも分かるくらい、少しだけ歪んでいた。
照💛「翔太?」
その声で、余計に崩れそうになる。
ぽたり。
落ちたのは、汗だと思った。
でも違った。
気づいたときには、もう止まらなかった。
翔太💙「僕……向いてない」
照💛「なに?」
照💛「もう辞めたいの?」
康二🧡「ごめんな」
康二🧡「俺、なんかあかんこと言うたな」
翔太は小さく首を振る。
翔太💙「……違う」
翔太💙「疲れてるだけ」
少しの沈黙。
照💛「最初は慣れないからな」
静かな声。
顔にかかった髪の毛を、康二くんがそっと払った。
一瞬だけ指先が触れて、それから、頬をなぞるように撫でる。
視線が近づく。
覗き込まれる距離に、逃げ場がなくなる。
康二🧡「顔色、まだ微妙やな」
翔太💙「え、そう?」
康二🧡「うん」
康二くんの親指が涙を拭う。
優しく包み込むような温もりに、また一つ涙が流れた。
康二🧡「無理したらあかんで?」
照💛「こいつ、頑張りすぎなんだよ」
康二🧡「あー、分かる」
左右に人の気配。
熱と距離で、少しだけ感覚が鈍る。
逃げ場はない。でも、嫌じゃない。
翔太は少しだけ迷って、それでも、口を開きかける。
整うはずの場所で。
まだ、心は整わないまま、
二人に背中を撫でられながら、
声を殺して、
ただ静かに泣いた。
夜。
寮の部屋。
サウナに入っても、シャワーを浴びても疲れは消えない。
ベッドの上で、ぼんやり座る。
机の上に置かれたパジャマ。
黒い布。
蓮に借りたもの。
翔太💙「……」
今日の手術が頭に浮かぶ。
あの手。
あの目。
あのときの、迷いのない動き。
翔太💙「……すごかったな」
ああいうふうに、
〝ちゃんとしてる人〟になれたらいいのに。
その考えが、頭から離れなかった。
無意識に呟く。
パジャマを手に取る。
少し迷う。
――でも。
紙袋に丁寧に入れて、翔太は部屋を出た。
ただ返すだけ。
それだけのはずなのに。
足が、少しだけ早くなる。
廊下の静けさが、やけに大きく感じた。
さっきの言葉が、頭の中で繰り返される。
〝変わってる〟
違う。そうじゃなくて。
思い浮かぶのは、
あの手。
あの目。
迷いのない動き。
翔太💙「……」
ちゃんとしてる人。
――自分とは、違う。
自分とは違うはずなのに。
それでも、なぜか、
少しだけ近づきたくなった。
理由なんて、うまく言えないまま。
気づいたら、
足はもう、彼の方へ向いていた。
静まり返る紫寮の廊下。
騒がしく鳴る胸を押さえるみたいに、
紙袋を抱えたまま歩き続けた。
コメント
2件
みんなのマドンナも悩みがあるのね🥺そして黒豹のところへ、、、無事に返してくれるかな??
