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バチリ、目を見開く、夢から覚めれば、知らない天井が僕を見下げていた。何処だ、ここ。そっと背を上げて見渡す、私が横たわるのはソファでなくベッド、その隣には小さな棚、その上に水の入ったペットボトル、左右の壁際に窓が二つずつ。寝室だ、フョードルが運んでくれたらしい。カチリ、カチリと鳴る時計を見る、まだ深夜二時、否な時間に起きてしまった。荒くなった息を整えようとフョードルが置いてくれたであろう水を飲む。するといきなり酷く気持ちが悪くなって、ずぷ、ずぷ、ずぷと胃から何かが這い上がってくる。唐突な感覚に青年は眉を顰め、口を掌で覆う。だが、細い指で這い回るそれを堰き止められる訳も無く。どろり、指の間に嫌に温い液体が触れる。ここでは駄目だ、迷惑をかける、呆れさせる。
「ゔっ、、、っ!」
酷い酸の香るそれを意を決して飲み込んだ、出していないのなら、吐瀉物じゃない、まだ吐いていない。青年は出そうなものを胃に戻そうと、溢れるものを喉に押し込めたが、唐突に津波の様に胃から押し寄せる。
「か、、、ぁあ”」
ああ、いやだ、とまって、やだ。
震える息も、胃液に押し除けられた。ごぼごぼごぼとコップをかち割った様に溢れるそれは、いくら手で抑えても止まる事を知らない。
何をしてるんだ、愚図め。
汚ならしい。
そんなのも抑えられないんですか。
本当に迷惑な人ですね、貴方。
青年は目を見開く、黒く震える瞳には、ここには居ない正義の味方が青年を理不尽に咎める様が映った。
グジュグジュと、腹の、胃の中でまだ気持ち悪さが蠢く、酷く不愉快に。焼けた様に渇く喉が痛い。
「あ”ぁ、、、ぐぅ」
青年は喘ぐ、酷く苦しそうに、その眼には生理的な涙が浮かんでいた。ベッドルームは静寂に包まれた様な寂しさが充満しているにも関わらず、青年の脳内では自身を捨てた正義達が、騒々しく、忌々しく、騒ぎ立てる。
「太宰君?」
つい何時間前に聞いたその声が、静寂も、喧騒をも切り裂いた。青年は弾かれた様にして顔を上げ、焦点の合わぬ瞳を更に震わせた。少しの間の後、フョードルは焦った様に声を上げる。
「太宰君!太宰君!?、どうしたんです?大丈夫ですか!?」
ベッドに座り込む青年に走り寄る、フョードルがそっと背を撫でようとしたその刹那。
「ひっ、、、!」
引き攣った声と共に、パシンと乾いた音がベッドルームに響く。背を撫でようとしたフョードルの手は、吐瀉物塗れの青年の手によって、空を切った。伺った青年の顔には、深い恐怖の色が白い肌に滲んでいる。ぼやりと涙の滲む、黒い琥珀が、何かを捉えた。
「あ、ぁあ、、、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい、、、!」
可哀想に叫ぶ青年に、フョードルは紫水晶を揺らす、心配そうに、優しそうに。そんな紫色を、青年は見ては居なかった。はくはくと酸素を求める口からは、くたびれた嗚咽が止まらない。フョードルは振り払われた手を優しく握り、青年に問う、手が汚れる事など気にもせず。
「どうしたんですか、太宰君?何かありましたか?」
優しく、ゆっくりと。幼子を宥めるように語りかける。
「少しで良いんです、教えて下さい」
真っ直ぐに、怯える青年の瞳を見つめる。ぱちり、ようやく目と目が合った。微かに見開かれた瞳に、微量だが色が戻った気がした。しっかりと息を吸って、青年はポツリ、ポツリと震えた声を落とす。
「酷い夢を、見た、、、探偵社の彼奴らから、罵られて、怖くなって、、、逃げ出して、それで」
「ええ、それで?」
フョードルは隣に腰掛け、縮こまった青年の背を撫でる、びくりと肩を跳ねさせたが、一撫でする毎に安心したと言わんばかりに息を吐く。
「、、、走って、疲れて蹲ったらね、友達がいたんだ。安心して、手を、、、伸ばしたら、、、」
途切れる刹那、言葉の端に虚しさと恐怖が滲んだ。また息を微かに荒げる青年を、フョードルはそっと抱きしめた。
「大丈夫です、大丈夫ですからね。もう無理なら、言わなくて良いんですよ」
「っは、、、ひゅ、、ぅ”う」
青年は眉を顰め涙を零す、ぼろりぼろりと、視界が滲む最中、細い指に頬を撫ぜられる。青年の方が暖かい筈なのに、当たった指の柔な暖かさが際立った。
「う”うぅ、、、ぐっ、、う」
青年は苦しそうに肩で息をする、未だ整理のされていない脳で、弱虫が咽び泣いている。もう言いたく無い、思い出したく無い、怖い。
脳裏に咲いた紅色が、それに残った黒い染が、ピシリと鳴る音が、彼の声が、その全てが青年の呼吸を乱れさせ、目の前を眩ませる。
「もう言いたく無いですか?」
声が詰まる、何も言えない、言いたくない。声を出そうとすると、酷く頭が痛む。肯定の代わりにこくりこくりと頭を縦に振る。
「そうですか、分かりました」
肩をそっと摩られる、服越しの暖かさが妙に心地良い。忘れるところだった息の吸い方を思い出す、通常の吸い方を取り戻そうと喉に息を取り込む、すると、ひゅっと詰まった。
「落ち着いて吸いなさい、ほらゆっくり吸って、吐いて」
「はー、ぁ、ふぅ”ー、、、」
まるで獣みたいに荒い息を押さえつけ、諭されるままに吸い、吐く、なんかいも繰り返してやっと落ち着いて来た。
「もう大丈夫ですか?では毛布を洗うので、太宰君は着替えて来て下さい」
「うん、、、ごめん、なさい」
フョードルがそっと立ち、青年に着せてやる服を探す。すると背後から申し訳無さそうに縮んで掠れた声が聞こえた。フョードルは着替えを片手にそっと青年に向かって微笑む。
「良いんですよ、君だけのせいじゃ無いでしょう?ほら、口と手を洗って着替えて来なさい、洗面所の場所は分かりますか?」
「あぁ、なんとなくは分かるよ」
フョードルの手から受け取った着替えを、汚れていない腕に引っ掛ける。ベットから床へと足をつき立ち上がろうとするも、力の入れ方を間違えた様で、ガタンと音を立てて膝から崩れる、音に反応したフョードルが、こっちを見て駆け寄ろうとするも、青年が手で制止する。
「大丈夫、立てるから」
ゆっくりと立ち上がり、おぼつかない足取りでふらふらと扉に向かう。ドアノブを回した青年がフョードルをすっと見遣ると一言。
「本当に、ごめんね」
呟いた声が、フョードルの耳を撫でる。見上げた青年の琥珀は、申し訳なさそうに潤み、諦めを感じさせるほどに、黒かった。
「、、、着替えて来る」
ガチャン、扉が閉まる音が、妙に響いた。
青年は階段を降りた後、洗面所に向かった。着替えは茶会をしたソファに置いておいた。
「、、、はぁ」
洗面台の鏡の前、顔を顰めた。
また、人に迷惑をかけた、ましてや今日泊まらせてもらったばかりの関わりの浅い人に。嗚呼、フョードルは今どんな気分なんだろうか、僕の吐瀉物の前、忌々しそうに舌打ちでもして、最悪だと、迷惑だクズだと、心の中で僕を貶しているだろうか、呆れているだろうか?。それとも案外優しい目で毛布を片付け、僕の心身を案じているだろうか?。
どちらにせよ、僕は悪い事をした。後ろめたさを拭い取る事など出来ない、許されない。
いつだって抱えて来た良心の呵責が、また一つ重たくなった。そんな事実を背に、蛇口を回す。すると、ドバドバと零れる液体が、赤く染まっていた、青年は目を見開き、手を震わせる。恐る恐る触れると、黒く、染まった。 青年はぎゅっと目を瞑り、蛇口を反対に回して液体を止める。
見たく無い、みたくない、もういやだ。
整えたばかりの息が、また詰まって乱れる。どうして、どうしてこうも苦しいの。
拒むからだ。
静かに黒ずんだ声が、耳を、胸中を、水月をまさぐる、ぐしゃりぐしゃりと、心地悪く。
拒まなければ全て楽になる、受け入れろ、諦めろ。
ぎちり、ぎちり。張り詰めた糸が千切れかける、真っ白な糸が、赤黒く、張る。じわっ、と染まって、白を侵す。世界がぐらりと回って、眩む。
いやだ、諦めたくない、彼と約束したんだ、諦めない、あきらめない。
もういいよ、太宰。
ひゅうっ、吸われた息が空気を揺らす。背後からいつかの友達が、僕を宥める。掠れた声が、僕を真っ暗なあの頃へ連れ戻そうと、腕を、肩を引く、角張った手に、首を優しく絞められるような錯覚さえ起こした。嫌だ、いやだ。
善い人になどならなくて良いんだ。
声が近づく、ぎちり、糸が軋む音がする。
もう諦めよう。
ぎち、ぎちり。
黒く汚れたその手じゃあ、助けを求める人の手を引く事など出来ないさ。
ぶつん。
張り詰めた糸が、千切れた。
青年は力の入らない手で蛇口を回す、赤く溢れるそれで指を、掌を濡らす、細い指から手相まで、赤が黒に侵され染まった頃、青年の瞳には真っ黒に濡れた手が映っていた、ふと鏡越しの自分と目を合わせ、汚れた手の甲で口を拭った。唇が黒く染まり、端から滴れる。鑑に映る青年の、全て諦め、隠した陰を曝け出し、堕落した瞳は、まるで絵画のような人文的な美しさが測れた。
静かさの寂しい寝室の中、フョードルは一人佇み、吐瀉物の滲んだ毛布の前、紫水晶の瞳を伏せて、緩りと妖しげに微笑した。
「、、、君だけのせいでは、無いのに」
ポツン、降った一言は、妙に含みがあった。