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暫しの間、青年は鏡の前ぼうっと立ち尽くし、黒い眼に見詰められ、見詰め返していた。すた、すた、誰かが階段を降りる音にて色のくすんだ瞳がズレる。
「太宰くん」
後ろからそっと声を掛けられ、青年は緩慢な様子で振り返った。薄く開いた唇には水が滴っていた、フョードルはそっと青年の頬を掌で捕まえて、親指で拭う、そっと笑みを浮かべながら。
「なに」
「いえ、なんでも」
損なった瞳に見詰められ、妙に官能的で恐ろしい美しさに、最早畏怖の意すら捧げそうになる。嗚呼、美しい___
うとりと湿り気を含んた目を細めるフョードルに、青年は刺すように鋭い瞳を返す、暗く暗い琥珀は、無機質な月明かりを反射させて輝いた。美しきその眼に、吸い込まれそうな錯覚さえ起こす、長い睫毛に守られるように隠しこまれた瞳の奥の暗がりを、誰もが知れなかった彼の闇を、己が見つけた気がした。
手に入れた、気がした。
嗚呼、なんて美しいんだろう、君は。今までの2年間、彼ら『正義』達に気付かれないよう、憐れまれないようにと必死に足掻いて、己に潜む黒を何とか照らし続けて来た筈なのに、今ではそんな努力も忘れて、全てを諦めて僕に命運を委ねている。可哀想だ、酷く可哀想だ、哀れで憐れで仕方がない。そんな可哀想な君が、誰よりも美しく、愛おしい。
「ねぇ、太宰君」
「なあに」
今なら、今の君ならきっと、分かってくれるだろう。もう
「昨日の勧誘の、返答を聞きたいのです」
光に焦がれて摩耗する必要は、無いと。
青年は己よりも高い位置にある紫水晶に向かって、目を見張る、僅かに開かれた瞳孔はうるりと波紋の広がる水面の様に震えていた。
頬に添えられた温もりが目の下を撫で、するりと指先で唇を弄る、答えを促すように。
「いや、いきなり言われても、、、」
肩を窄めて其の妖しげな温もりから逃れようとするも、がしりと顎を捕まれ、琥珀は捕まえられた、澱んでいるのに何処か澄んだ紫に。
「、、、ほんとは、もう決まっているでしょう」
パキン、ぼやかされた意識のピントが唐突に合う。どうゆう事だい、それ。決まってなんか無い、まだ、未だ僕は迷っている、僕は正義達も悪も怖くて怖くて堪らない、決断なんてまだ___
うそつき、
分かってるくせに。
はたり、青年は瞳を震わせ、己の声に耳を突き刺される。いつか己が吐いていた酷く冷たいあの声に。
「ねえ、太宰君。君なら分かるでしょう」
どちらを選べば楽になれるか、なんて。
響く、冷たいその音が耳を通じて鼓膜から脳髄にまで響く。
「もう君は焦がれ続けなくとも良い、あまりにも相違した彼らに囲まれ孤独に苦しまなくて良いんです」
諦めない理由など無いだろう、もう良いよ。辞めよう、疲れただろ、諦めてしまえ、君にとって堕落は救いだ、そうだろう。
背後から伝わる冷たい己の声と彼の声とがグチャりと混ざり重なり合い、互いの音に溶け1つの音になっていく。僕らは異体同心であるのだとでも言うように。妖しげに歪む声と声が、何処か深く暗い水の中に溺れさせようと僕の体を引き寄せようとする、そんな錯覚を起こしそうになるほどに、息が詰まる。
そんな青年を他所に、フョードルはうっそりと笑む、行き場を失って泳ぐ琥珀を見詰めながら。そっと己の脳味噌に声を落として。
___何を迷う必要があるのだろう、君は絶対、此方にいる方が心地良いだろうに。光に照らされ焼けこげるよりもずっと楽で、涼し気に居れるだろうに。そもそも迷っている時点できっと彼らの中に君の心は無い、彼らに対する友情も、もうきっと消え失せた。
「君が、光の中に居続ける理由など 」
もう無いでしょう?
泳いで逃げ回っていた瞳が震える、ひくりと喉仏が上下し、必死に息を取り込もうとする。綺麗だ、気付きたくないんですね、可哀想に。でも大丈夫です太宰君、君ならきっと壁を越えられる、その先はあの正義共の様な誰かにとって酷く寂しくて、涙が出てしまいそうな程冷たくても、君にとっては穏やかで、静かな安息がある。だから少しだけ、頑張って、言葉にしてください。
長い睫毛を伏して、優しく冷たい温度で青年を見つめ、背を撫でる。迷い子の様な引き攣った貌が、少しだけ安堵を滲ませる。
そっと両の掌で、顔を包む、温度を分ける。
かぱりと唇が開いた。
「僕は、、、」
___さぁ、返答は。
「君達と、共に居たい」
深夜3時半、洗濯機の音が鳴る家の中、ココアを手に鼠と猫がソファでだべっていた。
コトリ、フョードルがコップを置き青年に言う。
「太宰君、一応聞いておきますが、僕らの仲間になるのなら彼らとも敵対しなければなりません、場合によれば、、、とゆうか、僕ら天人五衰の目標の為には彼らを殺す事も必要になります」
青年は横目でフョードルをそっと見遣り、出されたココアに口を付ける。
「それでも君は、後悔はしませんね?」
黒い髪の隙間から紫水晶を覗かせて、青年に問う。琥珀には覚悟の色が滲み、ループタイが青く輝いていた。
「勿論さ」
そんな事判ってるし、僕はもう彼らに未練はない。嗚呼でも、これだけ。
「その前に、少し行きたい所がある」
フョードルは拍子抜けしたように目を丸くする。
「今ですか?」
「今じゃなきゃあ駄目なんだ、すまないね」
少し眉を下げ、申し訳なさそうに言う青年に、フョードルはふと笑んで答えた。
「いいえ、天人五衰に入る前の最後の願いです。聞かないほど僕は鬼ではありませんよ」
「車くらい出してやります」
「ふふ、ありがとう」
フョードルはそっと立ち上がり、青年に紳士的に手を差し伸べる、そのフョードルの様子に青年は頬を膨らませ渋々手を取った。
「姫様扱いは辞めてってば」
「ふふふ、すみませんね。君にはどうも優しくしたくなるんですよ」
似たもの同士だからでしょうか?
優しげな笑みを浮かべる頬に、ふわりと微かな赤が咲いた。青年はいつも弱々しい心拍が珍しく高鳴るのを覚える。頭をふらふらと降ってフョードルに手を引かれる儘に歩き出した。
ネオン街の光が車窓越しに青年の瞳を彩る。一般人には美しいと感じられるその景色も、それを愛しむ感覚さえ君にはもう要らないと言うのに、君は目を細めて、愛しそうに見る。フョードルは少し気分を損ねて走行速度を上げ、青年の視界から落ち着いたテラテラしい光を奪い取る。
「ちょっと、いきなりスピード上げないでよね」
「良いじゃないですか、法定速度内で走ってますよ」
「それがデフォなんだけど、、、あ、そこ右折して」
ただの光彩となった外の景色の光が薄暗い車内を侵す、青年はただ窓際に思いを馳せる、はたりと瞬く目を伏せて。
ああ、そういえば、昔もこうやって助手席に乗せて貰ったっけ、楽しかったな。ちょっかい掛けられてる君は面白くて、後部座席の君は、嬉しそうに微笑んで、それにつられてみんな笑ったものだったな。
いつかの友人達との想い出に、馳せる。
あの頃に、戻りたい。と。
それでも車内全体から感じる振動は、ほの暗くも涼し気なこの空気は、どうにもあの頃とは似ても似つかない。もっと落ち着いていて、あったかくて、ほんの少し、眩しかった。
木漏れ日みたいに優しい想い出を愛でるなんて、違いあった旧友の真似っこをしてみる。それでも今思えば、きっと僕にはこの方が似合う、体に、黒ずんだ身体に馴染むんだ。
「太宰君、ここですか?」
何時の間にか車窓際から自身の膝元へと下がっていた目線を上げると、先程のネオン街よりも落ち着いた海辺が視界を彩った。
「うん、そうだよ」
フョードルが車のロックを解除する、青年がレバーを引いて扉を開け、それに続いてフョードルも外へ出る。 僅かに潮の香りを乗せる風が青年の頬を撫ぜるように吹いた。夜の月明かりに世界が染まる、木々の葉は爽やかな湊鼠色に照らされ。ざわざわと2人を迎える。広がる紺色の海に光が当たって藍白色に輝いた。青年は迷いもせず一直線に歩き出す、革靴がかつんかつんと音を鳴らし、フョードルはそれに倣って導かれるように歩き出した。
2人分の革靴の音が鳴る、葉達が賑やかに鳴る音が近ずいてきた。もうしばらく歩くと、木の下に青年が立ち止まった。1層に強い風が吹いて、2人の髪を揺らす。フョードルはそっと外套を握り、青年越しに木の下を覗き込んだ。
「久しぶりだね」
はたり、息を飲み込む。しゃがみ込んだ青年がそっとソレに___墓石に触れ、愛しぶように、懐かしそうに撫でた。
「、、、織田作」
幼い声が、ポツリと淋しげに墓石へ影を落とす。S.ODAと丁寧に彫られた文字をなぞるその指先は、細くて儚くて、さぁっと吹く風に、連れて行かれてしまいそうだった。潮風に黒髪を揺らしながら、フョードルはふと問う。
「ご友人ですか?」
「あぁ」
青年はループタイに手を掛けて手馴れた手つきで外した。宵の明星達に照らされ蒼の映える宝石をそっと撫でて、墓石の前にカタリと置く。暫くそのまま静止していたものだからフョードルはふらりと青年の横隣に腰掛け、端正な横顔を見遣る。
「っ、、、」
フョードルは僅かに目を見張った、いつだって飄然に笑んでいる彼は、眉を顰め、許しを乞う様に手を握り、ぎゅっと瞑った瞼からはたった一筋の涙が頬を濡らしていた。
時が止まった気がした、その横顔を見ている時間は、もはや永遠のように感じられた。それ程に人文的で美しかった。
だが、いつまでも続くなんて、そんなロマンチックな時間を得られる訳も無く、唐突に吹いてきた風に、青年は目を開き、ゆらりと立ち上がる。それにつられてフョードルも立ち上がった。
「風が強くなってきたし、もう帰ろうか」
青年は背を背け、何時の間にか昇っていた朝陽を遠く長め歩き出す。そんな青年にフョードルは声を掛けた。
「ループタイ、良いんですか」
「うん、良いんだよ。」
僕にはもう必要無い、青年はすっと整理された脳で独り言を零した。
それに、きっとそのループタイは覚えている、だからね、織田作。君に見て欲しいんだ。僕の努力を、焦燥だって、君にも一緒に抱えて欲しい。