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鏡の部屋。
それはまるで時間が凍ったような空間だった。
四方の鏡には、奈々と亮太の姿が映っていた。
だが、映し出された“像”はどこか歪んでいて、ほんのわずかに口元が上がっていた。
まるで彼らが笑っているのではなく、“誰かが”その笑顔を模倣しているかのように。
「奈々……俺、もうわかってる」
亮太が小さくつぶやいた。
「この部屋で、母さんは“誰か”と入れ替わったんだ。
記憶じゃない、魂でもない——存在そのものが、だ」
奈々は部屋の中心にある、古びた木の椅子に目を向けた。
まるで審問のための「被告席」のように、そこだけが鏡に囲まれていた。
「ここで……誰かが、“母”を演じる権利を手に入れたんだよ」
亮太は震える手で椅子に座った。
「俺が始める。……記憶を壊す」
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静かに目を閉じると、鏡の中の世界が一斉にざわめき始めた。
一つ、また一つ、鏡の中の“母”が立ち上がる。
すべての“母”が、同じ声で語りかける。
「私は、あなたの母。
私を忘れるの? それとも——裁くの?」
亮太の頭の中に、次々と記憶が流れ込んでくる。
小さなころ、手を繋いで歩いた夕暮れの道。
発熱した夜、眠るまで頭を撫でてくれた手。
優しい、優しい“母”の記憶。
けれどその記憶の中に、ある瞬間から“ノイズ”が混じる。
手のぬくもりが冷たい。
声が、録音テープのように無機質。
そして——笑顔だけが、少しずつ裂けていく。
「これは……母さんじゃない……」
亮太は震える手で、記憶の断片を“壊していく”。
懐かしい食卓の風景。
誕生日のケーキ。
頭を撫でる手の記憶。
一つずつ、意図的に“忘れて”いく。
愛することができた記憶を、あえて否定し、消去する。
そのたびに、鏡の中の“母”が叫び、崩れ落ちる。
「なぜ!? なぜ壊すの!?
私は“あなたの記憶”から生まれたのに——!!」
奈々はその声を聞きながら、思い出していた。
自分もまた、“母”の記憶を愛していた。
だからこそ、“本物”ではないと知っても、涙を流した。
「……亮太、それでいい。
記憶を失っても、“真実”だけがあなたを守ってくれる」
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最後の記憶を破壊し終えたとき、亮太の目の前に一枚の鏡が残った。
そこに映るのは、何の表情も持たない母だった。
そしてその“像”が、こうつぶやいた。
「私の名前を……返して」
「……名前?」
奈々が反応する。
そのとき、鏡の中の像がゆっくりと顔を上げた。
「そう。私には、名前がある。
でも、あなたたちがそれを忘れたから、私は“灰”になったの」
奈々は息を呑んだ。
(……忘れた名前?)
すると亮太が、震える声でこう言った。
「“灰の女”じゃない……お前の名前は——ユウカだろ?」
鏡の中の像が、初めて、泣いた。
「そう……私は、ユウカ。
かつて“母の親友”だった女。
でも、誰の記憶からも消えていった女。
そして——あなたたちの“愛された記憶”に、寄生した存在」
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“ユウカ”はかつて、真奈の高校時代の親友だった。
けれど、ある出来事で孤立し、誰の記憶にも残らなくなった。
彼女は心の奥でこう願った。
「私を、忘れないで。
私も、愛されてよかったって、思いたいの」
その執着が、死後に“灰”となり、
“愛された記憶”を住処とする“何か”になったのだ。
亮太が立ち上がる。
「……もう終わりだ。
母の記憶は俺が守る。
でも、そこにお前の居場所はない」
奈々もまた鏡に向き合った。
「そして、私も母を忘れるわけじゃない。
“あの人”が、母であろうとした痛みを、忘れない。
でもそれは——あなたを許すことじゃない」
“ユウカ”は鏡の中でゆっくりと消えていった。
最後に一言だけ残して。
「……ありがとう。
忘れないでくれて——ありがとう」
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鏡の間が静かになった。
亮太は涙を拭った。
「……終わった、のかな」
奈々は頷いた。
けれど、そのとき。
鏡の破片の中から、**“黒い血”**のような液体が滲み始めた。
奈々が息を飲んだ瞬間、どこかで誰かの“泣き声”が聞こえた。
「……ねえ、お姉ちゃん。羽奈がいない」
羽奈の部屋には、“灰の女”が持っていた白いリボンだけが落ちていた——。