【 凪玲 】
初々しいふたりの放課後の話。
窓越しの空は、恋心を蕩したような茜色だった。
御影玲王は束の間だけ目を眇めて、教室内をぐるりと見渡すと、探していた彼はすぐに見つかった。
窓際のいちばん後ろの席。大きな身体を小さな机に預けて、凪誠士郎は教室でひとり眠っていた。
「……ったく、やっぱ寝てんのかよ」
呆れと笑いと安心が混ざった柔らかい口調で、玲王は誰に聞かせるでもなく呟く。
今日は放課後に凪の家へ遊びに行く約束をしていたため昇降口で待っていたのだが、ホームルームが終わる時間になっても来ないので、ここまで探しにきたのだ。
青い監獄を経て凪もかなり有名になったけれども、相変わらず起こしてくれる人はいないらしい。
玲王はくすりと笑ってから、足音を忍ばせ眠る男の元へと近づく。長い指が持ち主の知れない机を遊ぶようになぞっていく様は、酷く機嫌が良さそうであった。
辿り着くと前の席の椅子をそっと持ち上げて引き出し、背もたれを跨ぐようにして座り込む。
頬杖ついて見下ろす凪の寝顔は、絶賛約束すっぽかし中とは思えないほど安らかだった。
「俺はちゃんと待ってたんだぞー、凪」
ちょん、と髪先をつまんで擦り合わせてみるが、まるで意に介した様子もない。玲王は別に怒っている訳ではないので、すやすやと気持ち良さそうな寝息を立てている男を可愛らしく思うばかりである。
出会った頃より長くなった白い髪に触れながら、三つ編みにでもして時間潰そうかとも思ったのだが、起こしてしまいそうなので止めておくことにした。
遠いグラウンドの方から、陸上部の掛け声とホイッスルの音が聞こえる。それに呼応するように、校舎のどこかでトランペットの澄んだ音色が響いていた。
放課後、茜が美しい空を背景に、恋人とふたりきりの教室。
あの激動の日々が夢であったのではと思うほど、ここには穏やかな空気が流れていた。
約一週間前、一時的な高校生活に戻った直後に凪から告白されたときはどうしようかと思ったが、案外平穏な日々を過ごせているなと玲王はぼんやり思い返す。返事をしたのはそれから三日後のことであった。
そして今日は初めてのお家デートの日なのだ。
いじくり回していた髪を解き、玲王は指先で凪の額にかかっていた前髪を払ってやる。
良い男になってるよな、とは身内贔屓であろうか。玲王は自分に問いかける。もちろん凪誠士郎の話だ。
クリスの元で積み上げたトレーニングのおかげで、見違えるほど綺麗な筋肉がついた身体。激戦をともに乗り越えていく中で、いろんなことを話して共有するようになり、この天才のメンタルが安定していくのを肌で感じた。待てと言えば待ち、走れと告げたところに必ず辿り着いてくれる、美しくしなやかで犬のように従順な男。
何より、当人は気づいていないようだが、いつからか玲王の前で笑みを零すようになった。目を伏せて、首を緩く傾げ、優しい吐息まじりの笑い方を初めて見たとき、こいつのこういう部分が好きだなぁ、と思って、だから凪の告白に頷いたのだ。
この髪も、額も、頬も、瞳も、身体も、心すらも全部、俺のものだ。
玲王はこの数日間ずっと、そんな幸福に浸っていた。
いろいろあったけれど、玲王はまだ凪と一緒にサッカーをしている。
凪誠士郎と出会ったことで御影玲王の退屈は終わり、そしてこの先も戻って来ないのだろう。そうであれと、らしくもなく願っているのだ。
夕日が透ける髪の毛の先は星のような金色に染まっていて、単純に綺麗だと、そんな感想を抱かせる。輪郭に柔らかく影が差している様子は溶けてしまいそうなほど透明に見えた。
触りたい、なんて思ったのとどちらが先だったか。
玲王は吸い寄せられるように自然に顔を近づけ、自分の唇を反対側から凪のそれとゆっくり重ねた。
逆さまのキスを眠る男にするのは難しくて、唇の皺を確かめるかのように焦れた速度だった。凪の唇は乾燥していた。
可哀想だと頭の隅で思い、濡れた舌でそっと舐めてやる。唾液で潤ったそこにもう一度触れると、先ほどよりしっとりと重ねやすくなった。これでよし、と玲王は奇妙な満足感に笑った。
「ん……」
凪から反射のような声が漏れ、ハッと我に返った玲王は慌てて身を離す。
思わずキスしてしまったがこれは合意に含まれるだろうか。でももう恋人だし大丈夫だろ。
言い訳じみた言葉たちがぐるぐると脳内を駆け巡ったが、まあ黙っていようというところで無事落ち着いた。
「なぎー、そろそろ起きろー」
「うにゃ」
そして何食わぬ顔をして凪の肩を揺さぶることにしたのだった。
凪は可愛らしい寝言とともにようやく起床した。
ぽやっとした顔で玲王を見上げ、次いで状況把握に務めるようにあたりを見渡す。
「……レオ?なんでここにいるの?」
端が掠れた聞き方に、玲王は笑みを浮かべながら答えた。
「なんでって、迎えに来たんだよ」
「あー……約束したね……」
「お、ちゃんと覚えてたな。えらいえらい」
「あたりまえでしょ……」
頭を揺らしたまま数秒後にはもう寝てしまいそうな凪の腕を引っ張り上げ、玲王は明朗に笑う。
「ほら、起きたんなら早く行こうぜ。お前の恋人が待ってるぞ」
「んー……ねぇ玲王、ちょっと待って」
まだ眠気が残る声で引き留めてきた凪は、玲王の肩へと甘えるように寄りかかってきた。
見上げた先の顔は瞬きをしている。寄りかかる身体はかなり重たくて、玲王は思わず一歩足を引いてバランスを取った。
「なんだよ、おんぶか?流石にもうお前を持ち上げるのはキツイぞ」
「いや、そうじゃなくて」
凪は間延びした声で否定すると、玲王の耳裏に自分の鼻を押し付けた。
気だるげな猫のように緩慢な動きだというのに、次いで鼓膜を震わせたのは色っぽく甘ったるい低音。
「……俺の家着いたら、もっかい玲王からキスしてね」
ぶわっと全身の毛が逆立つような心地だった。
呆然と固まってしまった玲王の肩を解放し、凪は悠々と教室を出ていこうとする。気負うことなど何もないと言わんばかりに、いつになく軽快な足取りがなんとも忌々しい。
囁かれた方の耳を抑え、玲王はなんとか言葉を絞り出す。
「……お前いつから起きてたんだよ」
そう言った玲王の頬は、恋心を蕩したような茜色だった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!