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――名取静・26歳の場合
夜勤明けの帰り道、名取静はスマートフォンを片手に、コンビニの前で立ち止まった。
自動ドアが開くたび、冷えた空気と甘いパンの匂いが混ざって流れてくる。
白衣のポケットから出したスマホには、インスタの通知がいくつか溜まっていた。
――友田圓加がストーリーを更新しました
――友田霊輝が投稿を削除しました
圓加のストーリーは、相変わらず几帳面だった。
朝ごはん、同じ皿、同じ位置、同じ角度。
「今日も平和」
短い文字が添えられている。
静はそれに、何も反応しない。
いいねも、コメントもしない。
代わりに、霊輝の名前を一瞬だけ見て、画面を下へ送った。
霊輝は、よく消える。
消えて、しばらくして、何事もなかったように戻ってくる。
それがもう何年も続いている。
静はそれを「心配」だとは思わなくなっていた。
そういう人なのだと、ちゃんと理解している。
コンビニには入らず、歩き出す。
夜勤明けの頭は少しぼんやりしていて、足取りも軽くはない。
それでも、昔ほど世界が重く感じることはなかった。
アパートに戻り、シャワーを浴び、髪を乾かす。
洗面台の端に置いたスマホが震えた。
「Topics更新」
静は歯ブラシを口にくわえたまま、片手で画面をタップする。
《レンタルパートナー運営本部より》
《今週のTopics》
最近、このTopicsを「確認する」ことが癖になっていた。
読むためではない。
ただ、眺めるためだ。
かつては、ここに太字で踊っていた言葉があった。
――完成
――理想の関係
――この人で正解
静は、その言葉たちをはっきり覚えている。
自分が必要としていた時期があったからだ。
だが今、画面をスクロールしても、見当たらない。
代わりに並んでいるのは、
「無理のない距離」
「生活を邪魔しない関係」
「予定のない安心感」
静は歯磨きを終え、うがいをしてから、もう一度画面を見た。
――完成、って言葉
最近、見ないな。
不思議と、胸はざわつかなかった。
焦りも、欠落感もない。
むしろ、少しだけ楽だった。
昼過ぎに目を覚まし、簡単に昼食を済ませる。
そのままベランダに出て、洗濯物を干す。
小樽の実家で飼っていた文鳥のことを、ふと思い出した。
白くて、小さくて、
放鳥すると必ず、少し距離を取って止まる鳥だった。
べったり寄ってくることはなかった。
呼べば来るが、呼ばなければ来ない。
それでも、確かに一緒に暮らしていた。
完成、なんて言葉は、
あの鳥には必要なかった。
夕方、カフェでの待ち合わせ。
月影真佐男は、いつも通り先に来ていた。
ロマンスグレーの髪、穏やかな笑み。
スーツでもカジュアルでもない、境界線の服装。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
それだけで、会話は十分だった。
注文を終え、しばらく他愛のない話をする。
仕事のこと、天気のこと、
最近、本部から配信されるTopicsの文面が少し変わったこと。
「気づきました?」
静が言うと、月影は小さく頷いた。
「ええ。言い切りが減りましたね」
「ですよね」
静は、少し間を置いてから言った。
「“完成”って言葉、最近見ないなって」
月影は、すぐには答えなかった。
コーヒーを一口飲んでから、静かに言う。
「完成しなくても、
ちゃんと時間は残りますからね」
静は、その言葉を噛みしめるように、頷いた。
そうだ、と心のどこかで思った。
完成しなくても、
関係が終わらなくても、
自分は、もう大丈夫なのだと。
その夜、再びスマホを見る。
圓加が、また同じような朝ごはんを投稿している。
霊輝は、まだ戻ってきていない。
Topicsの更新通知が、静かに消える。
静はスマホを伏せ、電気を消した。
「完成」という言葉が消えた世界は、
思っていたより、ずっと静かだった。
そして、
その静けさは、悪くなかった。