テラーノベル
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第十五話 無様な
意識が、浮かび上がってくる。
最初に戻ってきたのは痛みじゃない。
寒さだった。
肺に入る空気が冷たい。冷たいどころか、刃物みたいに刺さる。喉がひりついて、うまく息が吸えない。
でも、どこか懐かしい寒さだった。
次に感じたのは、揺れ。
体が引きずられている。背中にごつごつした衝撃が走るたび、遠くで石が転がる音がした。
少しすると、引きずられた体は止まった。
引きずっている人間が動きを止めたそうだ。
目を開けようとして、まぶたが重いことに気づく。
それでも薄く開くと、視界は暗い藍色だった。
空。
やけに近い星。
ここは、どこだ。
ぼんやりとした記憶が遅れて追いつく。
路地。
怒鳴り声。
締めつけられる感覚。
……死んだと思った。
なのに、まだ息がある。
「……は……」
声が出たのかどうかも分からないほどかすれた音が喉から漏れた。
そのまま何もできずに、ただ夜空を眺めていた。
私の故郷は白夜だったから、まじまじと闇に包まれる夜を見つめたのは初めてだったかもしれない。
その瞬間、視界の端で橙色が揺れた。
火だ。
松明の火が、風にあおられながら不安定に揺れている。
その光の向こうに、細い背中があった。
アディポセラ様。
ドレスの裾は汚れ、肩で息をしている。片手に松明を持っており、私も見下ろしている。
おそらく、もう片方で私の上着を掴み、後ろ向きに引きずっていたのだろうか。
……山だ。
館からたくさん見てきた山。
アルプスだ。
空気の薄さと寒さで分かる。
人の気配も、灯りもない。
遠く下に、かすかな光の点が見えた気がした。村だろうか。もうあんなに遠い。
なんで……。
声にならない疑問が胸の奥に沈む。
手放してほしくて、嫌われたくて、軽蔑されたくてやったことだったのに。
どうしてこうなる。
……故郷の隣家の若夫婦は、犯罪を犯した夫とそのことに悲しんだ嫁が共に行方不明になっていた。
恋愛は時に人を狂わす。
ああいうのを、恋だと言うのなら。
人は、簡単に壊れる。
私が窃盗をしたことで離れ離れになるぐらいだったら、共に地獄へ征く方がいいとでも考えているに違いない。
足先の感覚はほとんどない。
指先も、手袋の中でじんじんしている。
甘噛み一つでついた傷がなぜか痛む。
巻かれていたリネンの端切れが解かれている。
私は手を組んで祈った。
どうか──
逃げなきゃいけない。
頭のどこかが、冷静にそう告げる。
このまま上に連れていかれたら、ろくなことにならない。
二人心中とはよくも言えたものだ。
そう……分かっているのに、体が言うことをきかない。
酸素が足りない。
力が入らない。
松明の火が揺れるたび、彼女の横顔が照らされる。
泣いていたみたいな目。
それでも止まらない足。
お前は自分が何をしているのか分かっているのか?
分かっていて、やっているのか。
「……ア」
呼ぼうとして、やめた。
呼んだところで何になる。
助けてほしいのか。
やめてほしいのか。
違う。
自由になりたかっただけだ。
それだけだったのに。
視界がまた滲む。寒さのせいか、酸欠のせいか分からない。
松明の火が、やけに近く見えた。
あの火は、さっきまでなかったはずだ。
火も起こせない人だと思っていたのに。
汚いものに触れたくなさそうな顔をしていたくせに。
……生きるためなら、何でも使うんだな。
私と同じだ。
しょうがない、最近はよく眠れなかった。
諦めて眠りに着こう。
そうしよう。
私はゆっくりと瞼を閉じた。
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