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第十六話 載ることはない
──。
──たしか、そんな名前だった気がする。
確信はない。
名前なんていちいち覚えていたら生きていけないからだ。
「早くしろよお前」
凍りついた井戸端で、水桶が石にぶつかる音が響いた。
指の感覚はとっくになくなっている。赤く腫れた手は、ひび割れて血が滲んでも誰にも見えない。
「おぉい、ぼさっと突っ立ってる暇があるなら働け」
背中を押され、足がもつれる。水がこぼれ、また怒鳴り声が飛ぶ。
片手を酒で塞いでいるお前が働いたらどうだ?
痛みは日常だった。
殴られることも、突き飛ばされることも、珍しいことではない。
それでも夜になれば、同じ家の中で眠る。
同じ鍋の残りを分けられる。
捨てられない程度の「家族」だった。
母は目を合わせなかった。
父は機嫌が悪い日の方が多かった。
母はいつも何かを呟いて俯いていた。
父は別の女のところへ行っていた。
愛があったのかどうか、私には最後まで分からなかった。
母の叫び声が聞こえる。
また気が狂ったようだ。
───
石造りの建物の中は、外より暖かいのに冷たかった。
「次の子」
名前ではなく順番で呼ばれる。
孤児院では、誰もが同じ色の服を着て、同じ祈りを口にする。
「神はすべてをご覧になっています。従順でいなさい」
私は黙って跪いた。
文字は読めなかったはずなのに、聖書の最初の一節だけは意味がすっと頭に入ってきた。
それから何度も読んだ。
読んで、覚えた。
覚えていれば叱られない。
目立たなければ、怒鳴られない。
自分というものを薄くすれば、生きていけると学んだ。
───
「この子にしましょう」
その言葉を聞いたとき、胸の奥に小さな灯りがともった。
選ばれた、と思った。
新しい家の扉をくぐったとき、女は笑顔だった。
最初の三日は、優しかった。
四日目から、笑顔は消えた。
「拾ってやったんだからね」
その言葉が口癖だった。
皿洗いを失敗すれば食事は抜き。
薪を運ぶのが遅れれば外に立たされる。
「なんでそんなに私を困らせるの?困らせたいの?私は拾ってあげて与えてあげているのよ?少しは感謝して動きなさいよ!それとも何?私のことが嫌いなの?ああそう、そうですか、もう出てって!私の視界に入ってこないで!」
夜、納屋の藁の上で眠りながら、私は何度も考えた。
助けてもらったのだから、我慢するべきだ。
痛いのは、自分が悪いからだ。
愛はきっと、こういう形をしているのだと。
───
「この子は手がかかる」
戸口の向こうで、義母の声がした。
「出来も悪いし、口もきかないし、不気味だわ」
義父が溜息をつく。
「孤児院に戻すか」
私は薪を抱えたまま動かなかった。
驚きも、悲しみもなかった。
ああ、いらなくなったのか。
それだけだった。
⸻
孤児院に戻ったとき、もう小さな子供ではなかった。
小さな子の世話係、掃除、力仕事。
誰も名前を呼ばない。
泣くのをやめたのは、この頃だ。
期待しなければ、裏切られない。
感情を出さなければ、傷つかない。
聖書を読む。
神だけは裏切らない。
皆平等なのだ。
そうしている方が楽だった。
───
「奉公先が決まった」
そう言われて連れて行かれた先で、手首に縄がかけられた。
石畳の市場。
並ばされる人間たち。
そこでようやく理解した。
奉公ではない。売られるのだ。
「この子は丈夫そうだ」
最初の主人は商人だった。
「口数が少ないのはいい。余計なことを喋らない奴は使いやすい」
荷物運び、馬の世話、夜通しの番。
「おい、眠るな。商品を守れ」
蹴られたこともあったが、怒鳴られる方が多かった。
物のように扱われるのは、思っていたより楽だった。
期待されないからだ。
───
次に売られたのは、小さな貴族の家だった。
「顔が整っているわね。客の前では前に出ないでちょうだい。私が目立ちたいのよ」
女主人はそう言って、私を裏方に回した。
「あなたは影でいいの。目立たないで」
食事は与えられた。寒さもなかった。
でも名前は呼ばれない。
「それ」「あの子」「奴隷」
呼び方はいくらでもあった。
ここで学んだのは、
存在しているのに、いないことにされる感覚だった。
───
三人目の主人は騎士崩れの男だった。
「戦場じゃ役に立たなかったが、荷物持ちぐらいはできるだろう」
荒いが、理不尽ではなかった。
「立て。転んだら踏まれるぞ」
そう言って手を貸したこともある。
それでも結局、酒代の代わりに売られた。
別れの言葉はなかった。
───
何人目だっただろうか。次はどこかの政治家だった。
支配している土地の民の肉を喰い、使い物にならない人間は容赦なく散らす。
毎日人々は怯えて暮らしていた。
逆らうものは粛清され、息をするのもやっとだっただろう。
単なる雑用係として立たされたが、いつのまにか八つ当たりされてまた売られた。
───
買われた先は帝国。
主人はまた王族か、政治家か……と、思ったが、ただ黙々と羊皮紙と睨めっこをしていた職人だった。
見たことのないような色を巧みに操り、絵画を次々と生み出していた。
白色の絵の具を絵の上から塗りたくって、その上にまた絵を描いていた。
その中でも桃色の少女の絵画は魅力的で、重厚な木彫りに金箔を焼き付けた枠から今にも飛び出しそうだった。
職人とは最初の挨拶と必要最低限な会話と別れの言葉しか口に出さなかった。
───
そうして辿り着いたのが、シャンベリー家だった。
「名前は?」
そのとき、自分は北で呼ばれていた音はここでは意味を持たないと理由をつけて答えなかった。
過去はもう必要ないと思ったから。
笑われると思ったから。
でも、考えれば。
一生、私の名前は呼ばれなかったのだ。
───
寒い。
肺が痛い。
背中が石にぶつかるたび、遠くで音がする。
意識が浮かび上がる。
夜空。星。
アディポセラ様。
また運ばれている。
でも今度は、逃げたいとは少しも思わなかった。
どうせどこへ行っても同じだ。
居場所なんて、最初からない。
ただ一つ違うのは、いつからか、私を“物”ではなく“人”として見たことのある目を、あの人はしていたこと。
意識が沈んでいく。
暗闇の底で、かすかに思う。
───。
私の名前を呼ぶ声は、もうどこにもない。
思い出す前に、闇がすべてを覆った。