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#オリジナルストーリー
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第二話 売れない作家の朝は遅く、妻の朝は早い
真紀の朝は早い。
僕がようやく意識の水面へ浮かび上がるころには、彼女はもう制服に着替え、簡単な化粧を済ませ、台所でフライパンを振っている。卵の焼ける匂いがして、味噌汁の湯気があがって、換気扇が低い声で回っている。あの一連の音は、家庭の音だ。そこに僕はいつも少し遅れて参加する。
「起きた?」
「……起きた」
「パン焼いてあるよ」
「ありがとう」
先生は真紀の足元にまとわりつき、朝食のおこぼれを狙っている。僕が起きても寄ってこないのに、真紀が冷蔵庫を開ける気配には敏感だ。現金なやつだと罵りたいが、餌と生活が直結している者の判断はいつだって正しい。
テーブルには、安い食パンを真紀が工夫して、わりとおいしくしたトーストが並ぶ。バターを少しだけ、多すぎないように塗って、砂糖とシナモンをまぶしたやつとか、前日のポテトサラダを乗せて焼いたやつとか。僕はそういう小さな工夫を見るたびに、彼女は人生のどんな荒れた場所でも生活を組み立てられる人なんだと思う。
「今日、編集さんから電話あるかも」
「うん」
「出るんだよ」
「わかってる」
「この前みたいに無視しない」
「無視したわけじゃない。タイミングが」
「二日間タイミング悪いことある?」
ある。作家にはある。真紀はそれを認めてくれない。
「それと」
「うん」
「ガス代、今月ちょっと高かったから」
「……ごめん」
「謝らなくていいよ。暖房つけてるんだから仕方ないし」
「でも」
「謝るなら売れてからにして」
それは冗談めかしていたけれど、冗談だけではなかった。
真紀はそういう言い方をする。責めていないように聞こえるように責めるのがうまいわけではない。ただ、責めたい気持ちと責めたくない気持ちが両方あるだけだ。その両方を抱えた声が、僕にはよくわかった。わかってしまうからつらかった。
彼女が出かけたあと、部屋は急に広くなる。
古い二DKのアパート。六畳の居間と四畳半の仕事部屋、申し訳程度の台所。壁が薄くて、隣の部屋の住人が笑う声まで聞こえる。けれど午前の光が差すと、この部屋は少しだけ、まともな場所に見えた。
僕は仕事部屋にこもる。
机の上にはノートパソコン、使いかけの大学ノート、赤ペン、開きっぱなしの辞書、読み返すたびに嫌になる自分の原稿。それらの真ん中で、先生が寝ている。
「どいてくれ」
尻尾だけが一度、ぱた、と動く。
「先生」
耳がぴくりとする。
「僕は仕事なんだ」
片目だけ開ける。
「お願いだから」
先生はゆっくりと身を起こし、椅子から降りた。床に着地すると、僕に向かって一度だけ「ニャ」と鳴いた。それはどう聞いても「仕方ないな」にしか聞こえなかった。
僕は三時間かけて一行書いた。
消した。
さらに一時間かけて、同じ内容を少し違う言葉で書いた。
また消した。
作家志望のころは、書けない日にもどこか希望があった。これは助走だと思えたし、今は駄目でも次があると信じられた。だが、一度デビューして、売れないという結果を数字で突きつけられると、書けない時間は希望ではなく赤字になる。編集部の在庫、書店の返品、営業会議の空気、次の企画書に添えられる微妙な評価。見えないものがすべて首にぶら下がってくる。
昼前、新田から電話がきた。
「もしもし」
『出ましたね』
「出ますよ、今日は」
『今日は、ってなんですか』
「いや」
『原稿、どうです』
「書いてます」
『その言い方の“書いてます”は、たいてい進んでないんですよ』
新田は三十五歳で、いつも無駄のないスーツを着ている。髪型も、声も、ため息のつき方も整っていて、僕のような生活の弛緩した人間からすると、別の重力下で生きている生物のようだ。
『前回の打ち合わせで、今月末までに第一稿と約束しましたよね』
「はい」
『テーマは夫婦と再生、でしたよね』
「はい」
『で、送ってきたプロットが、なぜ途中から山岳宗教ミステリになるんですか』
「それは……書いていくうちに」
『書いていくうちに、を商業でやるのやめてください』
先生が僕の足元で毛づくろいをしている。いい気なものだ。
『あなた、誤解してるかもしれませんけど、自由に書くのと好き勝手に書くのは違いますからね』
「はい」
『あと、もっと読者を見てください。あなたの文章を好きな人はいます。でも少ない。少ない人たちを大事にするのと、少ないままでいいは違います』
「……はい」
『返事が暗い』
「明るく返事する内容じゃないでしょう」
『そういうとこですよ』
十五分ほど説教を受けたあと、新田は最後に少しだけ声の調子を変えた。
『まあでも、あなたの文章じゃないと書けないものがあるのも事実なんです』
「……」
『だから見捨てずに電話してるんです。締切は延ばしません。やってください』
「はい」
通話を切ったあと、僕はしばらく机に額をつけていた。
先生が机に飛び乗ってくる。キーボードの上を踏み、画面に意味不明な文字列を出した。
「うわ、やめろ、やめろって」
先生は画面を見下ろして、満足そうに尻尾を揺らした。
たぶん、僕の書くものよりマシだと思っている。