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第三話 真紀の努力は、目立たない形で部屋の隅々に積もる
人を支える努力というのは、えてして物語になりにくい。
病床で献身するだとか、火事から救い出すだとか、そういう派手なものなら誰の目にもわかる。
けれど、売れない夫を支える妻の努力は、たいていもっと地味で、もっと執拗で、もっと細かい。
財布の中身を計算しながら、それでも肉を半額で買う。セーターの毛玉を取る。締切前にはできるだけ静かに戸を閉める。
夫の自尊心が傷つかないように、「稼いできた」という顔をしない。
なのに、支えた事実だけは家じゅうの空気に染み込んでいく。
真紀はそういうことがうまかった。
僕の新刊が出ると、彼女は近所の書店をさりげなく巡回した。
平積みがなくなっていれば喜び、棚差しになっていれば店員の目を盗んで表紙が見えるように少しだけずらした。
SNSで感想を検索して、良いものだけをスクリーンショットに撮り、「これ見て」と夜に送ってくる。悪い感想は黙っていた。
僕が自分で見つけて落ち込むと、「でも最後まで読んでくれてるじゃん」と言った。
ある日、真紀が帰ってくるなり、封筒を差し出した。
「なにこれ」
「塾の臨時手当」
「よかったじゃん」
「うん。それでね」
彼女は少しだけ視線をそらした。
「ワープロソフト、更新しよっか」
「……まだ使えるよ」
「でも落ちるじゃん、よく」
「再起動すれば」
「締切前に泣きそうな顔で再起動してるの見たくない」
僕は封筒を押し返した。
「やめてくれ」
「なんで」
「それは真紀が働いた金だろ」
「うちの金だよ」
「違う」
「なにが違うの」
声が少しだけ硬くなる。
「僕のために使うのは違う」
「じゃあ、何のために使うの」
「……」
「あなたが書くために必要なもの買うの、そんなに変?」
「変だよ。僕が稼いで買うものだろ、本来は」
「本来ってなに」
「本来は本来だよ」
真紀は封筒をテーブルに置き、その上に手を重ねた。
「私はね」
「……」
「あなたが書くの、好きだよ」
「そんな慰めいらない」
「慰めじゃない」
彼女の声は静かだった。静かだから、余計に堪えた。
「売れてなくても、うまくいってなくても、私は好き。ちゃんと面白いと思ってる。だから支えたい」
「でも僕は嫌なんだよ」
「何が」
「支えられてる感じがするのが」
言ってから、最低だと思った。
真紀の顔に、ほんの一瞬だけ疲れた色が差した。それでも彼女は怒鳴らなかった。
怒鳴らないところがまた、僕をみじめにした。
「感じ、じゃないよ」
真紀は言った。
「実際、支えてるの」
沈黙が落ちた。
その沈黙の真ん中を、先生が悠々と横切った。テーブルに飛び乗り、封筒の上に座る。真紀が「こら」と言っても動じない。
おまけに前足で封筒の端をかじり始めた。
「やめなさい、先生!」
「こいつ……」
真紀が封筒を引き抜こうとすると、先生は牙を立てたまま引っ張る。紙がびり、と嫌な音を立てた。
僕と真紀は同時に「あっ」と声を上げ、次の瞬間には二人して猫から封筒を取り返そうと手を伸ばしていた。
封筒は助かったが、端は見事に裂けた。
先生は満足げに降りて、何事もなかったように水を飲んだ。
真紀が吹き出した。
「最悪」
「ほんと最悪だな」
僕も笑った。
夫婦喧嘩というのは、こういうふうに中断されることがある。
根本の問題は何も解決していないのに、猫が封筒を齧ったという一点だけで、一時休戦になる。
笑ったことが裏目に出る日もあるし、うまく空気がほどける日もある。その日は後者だった。
けれど、傷が消えたわけではなかった。
真紀が風呂に入っているあいだ、僕は裂けた封筒を見つめていた。
たったこれだけの金額の重みで、僕らの空気はこんなに揺れる。
小説家としてのプライドは、猫に齧られる封筒より脆いのかもしれなかった。
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